おさむ茶マイルーム

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 こうさび〜とコタツから離れがたい毎日ですが、最近湯たんぽが少し前から静かなブームなそうな…かく言う我が家でも湯たんぽ使っております。先だって見た映画「ALWAYS三丁目の夕日」にも小道具として登場していました。
 作業は少し面倒ではありますが、慣れればなんと言うこともありません。なんと言っても電気代が要らないところが経済的ですね。昔はブリキ製のものでしたが、今はプラスチック製のものがほとんどのようです。ブリキ製といえば、ガキのころに火傷を負い今での体に残っています。
 昔は、カバーにバスタオルしか使ってなかったので、ある日バスタオルがはだけて、足が直接湯たんぽに触れて火傷をしてしまったのです。子供ですから熟睡していて気づかなかったのです。
 それ以来、湯たんぽはしばらく使ってなかったけど、数年前から再びプラスチック製の物を使うようになりました。火傷の心配もないし、結構温かいし、ぺットのネコも愛用しています。ん?オイラは猫並みかよ〜。
確かに、火傷防止にプラスチック製のカバーが上部に付いているので、金属製よりは温かくないかもしれないけど、多少冷めても(と言っても、温かさはちゃんと朝まで持続します)、湯たんぽの下に足先を入れれば全然OK、湯たんぽ万歳!

「肝油」・・・懐かしいですねえ。小学生の時、夏休み前に1か月分(缶入り)を学校で申し込んで買いましたね。栄養補給のため、確か一日に何粒と決まっていたと思いますが、甘くて美味しいのでお菓子みたいに、一度に何粒も食べちゃってすぐなくなった記憶あります。私が最初に食べたのはドロップ状、その後ゼリービーンズのように形が変わっていきました、昭和34、5年の頃です。
なつかしいあの味、今も学校で買うのでしょうかね。

12月としては記録的な豪雪は、全国各地に大きな被害の爪あとを残した。山形でも信じられないような列車転覆事故が発生、あらためて雪の恐ろしさを痛感させられた次第である。拙宅でも週末に屋根の雪下ろしを余儀なくされたが、12月中の雪下ろしは記憶が無い。
 ワタクシが住んでいるアバラ家は屋根の雪が玄関前に落ちる構造のために、放っておくとその雪が落ちてくるのでとても危険だ。そのため、早めに雪下ろし作業となるのだが、2階部分の作業はサスガに怖い。「屋根には一人で上ってはいけない」は雪下ろしの鉄則だそうだが、やる人がいないのでそうも言っていられないので、命がけの雪下ろし敢行となる。
 山形では毎冬、屋根から落ちて死ぬ人がたくさんいる。また、屋根からの雪崩の下敷きになり死ぬ人もいる。毎回、神に祈りながらの作業になるが、無事下ろし終えるとほっとするものだ。雪国に住むハンディはとてつもなく大きいが、雪見酒などささやかな楽しみも見つけながら、長い春を待ち続けるのである。

 1年365日、大安だろうと仏滅だろうと、日本国中どこかで開催されているのが公営ギャンブル。
 大概のバクチ打ちは往きは良い良い帰りは辛いの繰り返し。それでも懲りずに、張った負けたを繰り返すのが、バクチに魅入られた人々の健気なところなのである。そんな人々にとって、師走は特段に目の色の変わるのがJRAが施行する有馬記念、これが世に言う師走の餅代稼ぎレース。溜まりに溜まった今年の負け金を取り戻した上に餅代を上乗せする、それがバクチ打ちの心意気であり夢なのである。
 特に今年の有馬はディープインパクトというウルトラホースが出走する。そのため日本人特有のお祭り好きが遺憾なく発揮され、どれほど売り上げを伸ばすか。
各馬が4コーナーを回ってゴールに向かう際に19万人の大観衆が轟音と地鳴りの世界を創り出す。あの喚声を聞きたいがために師走の中山詣でを欠かさぬ人もいるそうであるが、そしてゴールに入った瞬間、地鳴りは一斉に鳴りをひそめ、不気味なほどの静寂な世界に変質するのが例年である。夢が破れた瞬間、人々は等しく無口になるのである。
 しかし今年は、ゴール後の喚声も終わりを知らないに違いない。何と言ってもディープインパクトである。史上最強にして、史上最速、おまけに鞍上が天才ジョッキーの武豊。多くのファンに感動と歓喜の涙を流させるに違いがないだろう。


 今年も残すところあとわずか…振り返る余裕もなくバタバタと過ぎる毎日です。明日からクリスマスイブを挟んで3連休、町のにぎわいも大変なモンでしょうね。ワタクシも今夜は温泉で1泊忘年会、戦場前に「ウコンの力」の呑んで頑張ります。
 クリスマスといえばイルミネーション、仙台市の「光のページェント」がはじまりましたが、100万個の電球が彩る様は一見の価値アリです。
 今の高校生の修学旅行事情はどうなってるのでしょうか?韓国やハワイへ行くが学校もあると耳にしますが、ワタクシらの時代は「京都・奈良」の関西方面が定番でした。旅行そのものは、名所旧跡めぐりで退屈なものでしたが、10日間も授業ナシはとても魅力的でした。この集合写真は、確か四国高松栗林公園だったと思います。
「我慢したオナラは、いったい何処へ」といったに疑問もったことありませんか?先日、落語から得た知識では、オナラを我慢していると腹がはって苦しいが、やがて体内を逆流して小腸で吸収されて血液中に入り体内をめぐる。はく息に水素が含まれているが、消化管のガスが血液に吸収されて肺から呼気が入って口から排出される。これが我慢したオナラの行方である。これは医学的な話だそうですが、ほんとかなー(笑)。
 明治5年、日本に鉄道が開通した当初、客車にトイレの設備がなく、窓から放尿すれば罰金10円、放屁一発罰金5円也。5円で米が150キロも買えた時代だそうですから、オナラを必死に堪えたのでしょうね。

 アメリカ牛肉の輸入再開で「吉野家牛丼」復活しそうで、待ち望んでいるファンも多いのでではないでしょうか?中島みゆきも大ファンらしいですが、何を隠そうワタクシも大のつくファンですが、でもほんとにダイジョーブなのか心配です。今日のお弁当、自家製牛弁当でした。それにしても降りますなあ〜、朝晩の通勤にはくれぐれも安全運転を!
 子供のころ、オフクロがよく作ってくれたのがカレーライスとチキンライスでしたね。ただ今と違って具はありあわせのものが多かったような記憶が…、カレーライスの肉の代わりに魚肉ソーセージやチキンライスの鳥肉に代わって豚肉など。魚肉ソーセージは明らかに代用品だということは子供心にも分かっていましたが、チキンライスは英語を習うまでしばらくワカリマセンでしたね(不覚)。
 そんなほのぼのとした過去を思い出させてくれる今日のお弁当は「チキンライス」でした。今日も寒いけど、1日ガンバリマショー!

 酒田ラーメンの定義は、山形県酒田市を中心とする地域のラーメンの名称で、豚骨、鶏がら、煮干、昆布を出汁に使用ししょうゆ味のスープが特徴、自家製麺比率が非常に高い。代表店として、三日月軒、満月、新月が人気が高いですが、 11月に出張ついでに新月に寄ってきました。以前週刊現代のラーメンキング東北北海道で第2位になるなど評価も高く、最近では全国版の業界専門誌に、そのスープづくりを写真入りで詳細に紹介されたり、あのラーメンの鬼とも言われる「支那そばや」佐野実氏が取材に訪れるなど、一目おかれる存在だ。
 酒田はなぜか月のつく店が多いですが、その月系の店で、自家製麺はもちろん、煮干、アゴ系の味がなんとも嬉しい味です。ベーシックな『酒田のラーメン』がほとんどのオーダーの様ですが、『つけ麺』も多いようです。酒田というと魚出汁が強いイメージがありますが、魚出汁もやや抑えられてとても食べやすい万人向きのラーメンと言えるでしょう。つけ麺の残りタレにはスープとワカメを入れてくれワカメスープにしていただけるサービスをしてくれるようです。


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「ALWAYS三丁目の夕日」に出てくるような懐かしい写真です。昭和40年ころの山形駅ですが、高校時代毎日通った駅ですから、よけいに懐かしいです。正面から入るとたしか左側が切符売り場、右側が待合室でした。ちょうど下校の電車の待ち時間「ひょっこりひょうたん島」を見て帰るのが常でした。暑い時は、ジュース自動販売機(たぶん粉ジュースだったと思うが…)で、腰に手をあててぐっと一飲みするのが至福の一時でした。当時通っていた列車は、昔も今もデイーゼル機関車ですが、朝夕の通勤通学時間帯は大量輸送可能なSLが走っていた時代でした。
 その後昭和41年駅ビルを併設した駅舎に生まれ代わり、さらに山形新幹線開通を契機に今の駅に改築され、さしずめ「孫」ということになり「昭和も遠くなりにけり」かな。

12月8日は、ジョン・レノンの25回目の命日でした。彼は1980年12月8日、一人の熱狂的なファンに銃で撃たれ、この世を去った。享年40歳であった。彼がビートルズのメンバーであったことさえ知らない若い人に比較して、今のオヤジ族はビートルズをリアルタイムで体感した『ビートルズ世代』だ。60年代のポピュラーミュージックをすべて塗り替えたビートルズの音楽は、現代でも輝きを失わなっていない。そのビートルズの新譜LPを、わくわくしながらターンテーブルに乗せ、同時代で進行する音楽の進化を体験できたことを幸せに思う。
 ビートルズを超えるポピュラー音楽グループはもう現れないと言われるが、実際解散から30年経ってもあの時代を超える音楽の革命は起きていない。昔はビートルズもロックグループの中のひとつ、といった認識もあったが、時代が経つほど、その存在の大きさが際立ってくる。

もとい、ビートルズのメンバーで一際異彩を放っていたのがジョンレノンでした。オノヨーコと出会ってからは、特にメツセージ色の強い音楽に傾斜していったような気がします。良い歌に古いも新しいもないが、ジョンがその40年の生涯において、感じるままを歌にして残したその感性こそが、すばらしい。 ジョンの冥福を祈りつつ、「イマジン」という名曲を味わって見ようと思う。(日本語訳版)

想像してみて、天国はないって
やれば簡単だよ
足元に地獄はなく
頭上には空だけ
想像してみて、みんなが
今日のために生きてるって
想像してみて、国は存在しないって
難しくないよ
そのために殺したり死ぬことないよ
宗教もない
想像してみて、平和な人生を
想像してみて、財産はないって
できるかな
欲張りや飢えは必要ない
人はみな兄弟
想像してみて、みんなが
全世界を共有しているって
僕が夢を見てるって思うかな
でも僕ひとりだけじゃない
いつか君たちも一緒になって
世界がひとつになってほしい



ネタが思いつかないときの隠しねた「今日のお弁当」です。我が家では三人が弁当持ちなので、混ぜご飯は定番です。竹の子、舞茸、にんじん、こんにゃく、油揚げを煮付けておき、ご飯が炊き上がったら混ぜるだけ、実に簡単で美味しい。といってもワタクシが調理するワケではありませんが、毎日となるとホント大変ですね、心から感謝してます。


 最近とんと見かけなくなりましたが、ガキの頃お祭りに行くと、見世物小屋がありました。中でも圧巻は「蛇女の見世物小屋」呼び込みおじさんのダミ声口上に引き込まれ、ちょっと中を覗こうととしても、これがビミョーな隙間でなかなか見えませんでした。仕方なく、怖いもの見たさで吸い込まれるように小屋に入ったものです。
「さあさあ、蛇女だよ〜、親の因果が子に報い、幼い頃から癇が強く獣同様に育ったこの女、料理をした物は一切食べず生きた蛇しか食べません。生まれは山形県は月山の麓、山から山谷から谷へと深山幽谷を駆け回り〜 (中略)〜お代は見てからで結構だよ。さあ、さあ、さあ、さあ入って入って、間もなく始まるよ〜」なんと蛇女は山形出身だったと、子供ながらショック覚えたものでした。
 そのほか電球をかじったり、ローソクを口の中にたらしたり…目の前で繰り広げられる芸に、手で目を囲いながらその隙間から凝らして見入ったものでした。今では絶滅危惧品種の日本のお祭り芸?蛇女も、かなり高齢にさしかかってると思うのですが、まだ日本のどこかで元気に活躍されているのでしょうかね?


 昨日、ここの「昭和な時代」でも取り上げた映画「ALWAYS三丁目の夕日」観てきました。ストーリーがどうこうとかいうのではなく、出演者全部が主人公のような映画でしたが、泣ける映画でないにもかかわらず、涙腺が止まりません状態でした。
舗装されていない泥道、キリンジュース・キンチョー・グリコの鉄看板、トタンでできた家、駄菓子や、オート三輪、路地裏で遊ぶ子ら…そのどれもこれも非常に正確に再現されていて、とてつもない懐かしさに浸ってしまいました。
 今と比べると、まだ、決して便利とはいえない時代、いやとても貧しかった時代、でもそれを超えて余りある人のあたたか味あったような気がします。今、幼児への事件が続出してますが、あの頃って地域みんなで子供達を包んでいたような気がします。
登場人物は、人がよくて情にもろくておっちょこちょい売れない作家役の吉岡秀隆がいい味だしていました。「北の国から」のジュンが、こんな冴えないオッサン役やるとは…、あのうだつの上らなさ、むさ苦しさは、あれは地なのだろうか?と思うほどでした。それにからむ踊り子上がりの飲み屋の女(小雪)との切ない恋も素敵でした。
戦後の復興期。人々は、日本を発展させよう、暮らしを良くしようと、ある意味一つの方向に向かって頑張っていたんですね。そこにはまわりの協力関係も必須だったし、お互いにお互いの成功を喜び合いながら生きていた。
 我が家にテレビが来る!冷蔵庫、洗濯機が来る!今では考えられない程の感動だっただろうと思います。モノを欲しがる気持ち、何かを成し遂げる達成感はいい。でも、そのために愛を捨ててしまわないようにというメッセージを受け取ったような気がします。
 劇場を出てから再び、涙がこぼれおちました。
過去の自分。今現在の自分。未来に歩いていく自分。振り返って「あの時は美しかったんだなぁ」と思える自分がいるならば、今を美しいと感じながら生きられるはず。ノスタルジーに浸りたい人、自分を見失いそうになっている人、生き方を探したい人に「これが君のルーツだよ。命は繋がっているんだよ。」とやさしく語りかけて、大事なものに目を向けさせてくれる。そんな映画です