やがて島式ホームが見えて来た。ウサギの駅長・もっちぃが勤務する宮内駅である。三羽の兎の彫り物を見つけると幸せになるという言い伝えがある熊野大社は、ここから歩いて10分ほどの所にある。ホーム建屋に廃レールが使われていたり、国鉄時代の「指差確認」の看板が残るなど昭和の風情が残る駅舎を眺めながら、駅前広場を散策すると童謡作家結城よしをの代表作「ないしょ話」の句碑が建てられている。
ないしょ ないしょ
ないしょの話は アノネのネ
ニコニコ ニッコリ ネ 母ちゃん
お耳へ こっそり アノネのネ
坊やのお願い 聞いてよネ
よしを(本名・芳夫)は大正9年(1920年)宮内町に生まれた。歌人であった両親の影響を受け、詩や文章を書くのが好きな子であった。よしをは5人兄弟の長男であり、家が貧しかったため、母に甘えることを強く自制した子どもだったという。昭和9年に尋常高等小学校を卒業すると、山形市内の本屋に住み込み店員として働いた。この頃から童謡や童話などを書き始め、「ナイショ話」は昭和14年の作品である。
よしをは昭和16年(1944年)に徴兵され、昭和19年1月には南方輸送任務に就いたが、船内でパラチフスが発生し、よしをも罹患した。よしをは小倉の陸軍病院に送られ、両親に看取られながら、24歳の若さで亡くなった。よしをは、制作した童謡を本にしてほしいと両親に頼んだそうである。よしをの最初で最後のお願いだったのかもしれない。亡くなる我が子の枕もとで母は童謡を歌ったという。その歌は「ナイショ話」であったろうか。「臨終の子に童謡を聞かせつつほほ伝う涙妻は拭わず」と父が詠み、母もまた「乳首吸う力さへなし二十五の兵なる吾子よ死に近き子よ」と詠んだという。
こんな片田舎にも時代に翻弄された家族の悲しい物語があるのである。「ないしょ話」の隣に「童謡と昔話のまちかど」と題した碑がある。碑には「この小さな広場で皆さんが少しの間いこい、私たちの街の昔に思いをめぐらしていただくことを願っています。」と刻まれている。町にはそれぞれの歴史があり、私たちに語りかけてくるものがあるはずである。列車から降りて、街を歩いてみて欲しいものだ。
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