卯の花姫物語 3-③ 御山の様相

当時の山嶽崇拝と御山繁昌の様相
 斑目四郎武忠は厨川落城の際、城中に囲っておいた美人が千人いたと云う噂があったので、必ず其中の一人として卯花姫もいるだろうと思って、そればかり血眼になつて八方を探したがおらなかった。生捕りの軍兵を責めて姫をどこに匿したと云うて聞いても知っている者がいないと云う有り様。いないのは当たり前の事である。絶対秘密にしていた貞任がそのまま死んで終わったから余人が知っている筈がなかったのである。
 当てが外れた彼は焦りに焦って、家来共になどはかり八つ当たりに当たり散らしておると云う。これまでは出羽の豪族清原武則が愛子と云う単なる者でさえもあれ程の強情者の彼は、今となっては段違いの地位である。奥州両州の鎮守府将軍の最愛の末子で、然かも戦勝の殊勲者であると云う地位である。
 八方に家来を放って厳重に捜索したがどうしても捜し当てる事が出来なかった。
 出羽の国朝日山の御山繁昌に付いての伝説や古文書等は其の地方にも随所に残っておるが大たい大同小異のものである。各方面の登山口即ち最上口、庄内口、置賜口、小国口、越後口、等々、其各々宿坊町が繁昌したと云う伝説は後の鉱山が繁昌したと云う説と殆ど同じ様なものである。
 以上述べた伝説の大要を記して見れば其の様なものである。何百軒もの人家が建ち並んで凡ての商店もある、寺町もある、遊郭もある、御役所もあって御仕事もあった繁昌の町になった場所跡だと云う伝説になっておる状態は何ずれの場所も殆ど同じ様なものである。
 今からそれを推察するには大たい何十分ノ一と考えれば当たらずとも外れの程度と考えてよいのである。寺町通りと云うのは宿坊町繁昌の場所だとすれば坊舎の建っておる処其場所の事が即ちそれであるが、鉱山町の場合だとすると死んだ人が出る度毎に里のお寺から和尚様をいちいち頼んでくる様な事は山では出来ないので、そこの内で少しの頭のいい気のきいた人がまあ・・・いい加減の唱い言とをして引導を渡してくれて葬って終うと言う。そこを差して寺町と云う。御仕事場と云っても、同様に悪いことをした者が出たとて一々里のお役人などを呼んで行くのは面倒臭いからそこのおもたった連中相談して重い奴は、殺して埋めて終う軽い奴はひっぱたき付けて追い払って終うと云う其一定の場所を差して御仕事場跡と云う。又そうした相談の場所を御役所跡と云うておるのである。
2013.01.05:orada:[『卯の花姫物語』 第3巻 ]