戦国観光やまがた情報局
大頭堰または西川堰とも呼ばれ、舘山城の外堀の跡を利用して堀削されたものです。 |
慶長年間、城東の山上村、城南の南原窪倉に植林をしました。白旗松と呼ばれる赤松の一種で、枝は弾力性があり雪折れが少なく、幹は真直ぐに伸び成長は早く樹脂が少ないので建材として最適でした。
江戸中期の調査では2万8222本あり、その大半は幹まわり三尺以上のものであったといいます。 明治の暴風でほとんどが倒れ、現存するのはその後自生したり、鉄道防雪林として植林されたものです。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps |
米沢藩の下級武士(原方衆と呼ばれる)が暮らした屋敷が、米沢市南部の各地区(主に芳泉町・石垣町・通町)に数多く現存しています。 ...もっと詳しく |
猿尾堰の取水口近くに立つ巨碑で「龍師火帝」の文字が刻まれています。「龍師」は水神、「火帝」は火神を意味し、直江兼続が猿尾堰の鎮守として、洪水や日照りが起きないよう祈願し建立したと言われています。 ...もっと詳しく |
堀立川に注ぐ取入れ口で、猿尾の名は、その堰口の構造が猿尾留の工法を用いたところから名づけられました。
諸堰の中でも特に難しい工事だったため、直江兼続は、工事に先立って安山岩の大石を流れに据えました。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps ...もっと詳しく |
三の丸外の侍町、町人町、寺町の小路に水路を通し、城下の生活用水とするため、松川上流と大樽川中流から引き水を図り、松川からの用水路として開削したものです。
慶長7年(1602)頃から着工。南原六十在家(現芳泉町)上西岸から堰上げ、笹野街道の天神清水・大清水・新清水・吉野清水などの湧水を加え、城下南端の七軒町に導水。ここから本丸・城下南部・東部・北部へと配水することで士民の用水に供されました。 御城に入る水なので御入水と敬称したと言われています。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps ...もっと詳しく |
直江兼続の指揮のもと築かれた石積みの堤防のうちのひとつで、約140メートルにわたって続いています。
「野面積み」と呼ばれる川原石を積み上げた技法で、建造当時の姿を保っています。積み上げた石が蛇のウロコのように見えることから、「蛇堤」と呼ばれるようになったようです。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps ...もっと詳しく |
馬の名手・人見下斎入道宗次を総監として招き、「追廻し馬場」を築き、馬術を家臣に習わせました。
その馬場の広さは約7500坪あり、中通りに桜を植えたので「桜の馬場」と呼ばれました。 白子神社の東側、現在の米沢警察署付近にあたる場所です。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps |
和銅5年(712)創建。初めは蚕菅社(こすげしゃ)と呼ばれ、白子明神と称していました。県内最古の社宝として平安時代の鬼瓦が保存されています。
鎌倉時代、暦仁元年(1238)、領主長井時広が社殿を修復して置賜郡の総鎮守としました。その後蒲生時代に米沢城の鎮守となり、歴代藩主の崇敬が篤く、特に、上杉鷹山は藩主となった明和4年(1767)、藩の中興を誓った誓詞を納めています。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps |
直江兼続が天正18年(1590)、小田原征伐の折、富士山麓の社から曽我兄弟の木像を請い受け、越後直峯の城下に社を建て神達明神と名づけました。
後に米沢移封の際にこの社も移され、兼続没後は実家樋口家の屋敷神となり、7月16日の例大祭は町内あげての祭りで賑わいます。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps |
元和4年(1618)に上杉景勝と直江兼続が創建した臨済宗の寺院で、当初は禅林寺と称していました。 ...もっと詳しく |
明応5年(1496)、上杉謙信の祖父長尾能景が亡父重景の菩提を弔うため、越後春日山城の麓に建立したもので、その後上杉家の移封に伴い、越後春日山より会津・米沢に移転し、上杉家の菩提寺となりました。 ...もっと詳しく |
当初は城内御堂の避難所として建てられたものですが、上杉景勝没後、米沢藩主代々の墓所となりました。 ...もっと詳しく |
県立置賜文化ホールと米沢市上杉博物館の機能を併せ持った文化施設です。 ...もっと詳しく |
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