戦国観光やまがた情報局
本日6月3日(火)15時から、大河ドラマ「天地人」の新たな出演者の発表会見が行われます。
今回は、10数名の出演者が発表されるそうです。情報が入り次第、このページにてお知らせします。 |
平成20年5月25日(日)、『駅からハイキング「ドラマチック戎市」と「直江兼続」』が開催されました。今回の参加者は約80名。米沢駅を出発して、直江兼続ゆかりの史跡を巡りました。歩いて見て回ることで、普段は見落としがちな城下町の趣きを感じることができます。先導役は、今回のプランを企画した米沢商業高校の生徒さんです。
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平成20年5月23日(金)、山形市のグランドホテルにおきまして、大河ドラマ「天地人」の原作者である火坂雅志氏の講演会が開催されました。先月16日の講演会に続き、山形市では今年度2回目となりました。
主催の山形経済同友会の方々をはじめ、一般参加者の皆さまなど約280名が集まり、今回も会場は満員状態でした。 |
永禄3年(1560)〜慶長5年(1600)
近江国石田村の出身。近江長浜城主であった羽柴秀吉に見出され、小姓として仕えた。その後、秀吉に従い各地を転戦、戦功があった。天正13年(1585)近江水口4万石の城主となり、文禄4年(1595)には、近江佐和山19万4千石の城主となった。 豊臣政権の中枢にあって、諸大名との取り次ぎ役や検地奉行を務め、遠征時には後方支援を担当するなど、行政官僚として手腕を発揮した。上杉景勝の上洛に際しても交渉の窓口となり、書状のやりとりを行った。この時、上杉側の窓口であった直江兼続とは、盟友関係を強めていった。 慶長3年(1598)秀吉が没すると、五大老の一人である徳川家康が台頭。三成と険悪な関係にあった武断派の武将達を取り込み、次の天下人を狙う動きに出たため、これと対立する。 慶長5年(1600)家康は上杉征伐のため会津へ出陣、これを好機と判断した三成は、毛利輝元を総大将として上方で挙兵した。上杉征伐の途上から反転してきた家康率いる東軍と、美濃国関ヶ原にて決戦に及んだものの、味方大名の寝返りに遭い敗北。捕らえられて、京六条河原で斬首された。享年41。 |
天文6年(1537)〜慶長3年(1598)
尾張国の百姓の子として生まれ、天下人にまで上りつめた立身出世の代名詞的な人物。 織田信長に仕えて頭角を表し、本能寺の変で信長を討った明智光秀を破って、信長の後継者として名のりを上げる。北陸に居城を持っていた柴田勝家と後継を巡って対立。同じく勝家と対峙していた上杉景勝と同盟を結んだ。 天正11年(1583)越前北ノ庄城にて勝家を攻め滅ぼすと、信長後継の地位を確立、毛利家、長宗我部家、上杉家、徳川家、島津家などを次々と臣従させた。 天正18年(1590)小田原征伐を行う。これに伊達政宗、最上義光ら奥州諸大名も参陣し臣従、北条家も降伏し、天下統一を成し遂げた。 慶長3年(1598)上杉景勝を奥州の要地である会津120万石に加増移封。その際、才能を高く評価していた上杉家執政・直江兼続に出羽米沢30万石を与えたといわれている。この年、景勝ら五大老に後事を託して伏見城で没した。享年62。 |
米沢市「天地人推進プロジェクト」
“直江兼続”マスコットキャラクター 第2次審査は皆様の投票によって10点にしぼります! 投票はこちら米沢市ホームページ 米沢市の天地人推進協議会で 3月から募集していた“直江兼続”マスコットキャラクター。 応募作品438点の中から、第1次審査により候補作品が 以下の20点に決定しました! 2次審査は皆様の投票によって行い、作品を10点にしぼります。 投票によって選ばれた10点を最終審査し、 キャラクターを決定いたします。 ぜひ皆様の1票をよろしくお願いします! 投票者には抽選で記念グッズのプレゼントもあります。 詳しくは米沢市ホームページをご覧下さい。 投 票 要 領 主催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会 投票期間 2008年5月21日(水)〜2008年5月30日(金) 投票方法 E-mail、市内に設置する投票箱にて受け付けます。 E-mailの場合、件名を「キャラクター投票」とし、 本文にキャラクター番号、〒住所、氏名、電話番号を記入の上、 下記までお送りください。 E-mail:tenchijin@city.yonezawa.yamagata.jp *投票は、1人につき1票。 (2票以上の投票が確認された場合は、 その方の投票は無効とさせていただきます。) 投票箱設置場所 米沢市役所 1階総合案内 JR米沢駅構内観光案内センター アスク ☆プレゼント☆ 投票者の中から、抽選で30名様に記念グッズを差し上げます。 *当選者の発表は、賞品の発送をもって代えさせていただきます。 個人情報の取扱いについて 投票により得た投票者の個人情報に関しましては、 大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会で厳重に管理し、 本投票以外の目的に使用しません。 お問合せ先 〒992-8501 山形県米沢市金池5−2−25 米沢市役所 総合政策課 TEL:0238−22−5111(内線2805/2806) |
永禄10年(1567)〜寛永13年(1636) |
天文15年(1546)〜慶長19年(1614)
最上家11代当主。山形城主。対立していた父・義守が隠居し、26歳にて家督相続。有力国人領主が各地に勢力を保持していた村山郡・最上郡にあって、政略や策略を駆使して反勢力を平定、最上氏による集権体制を築き上げる。 天正15年(1587)庄内地方へ侵攻、大宝寺氏を討ち領有化に成功するも、翌年、越後方の本庄繁長に十五里ヶ原の戦いで敗れ、支配権を失った。 慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、直江兼続率いる上杉軍に攻め込まれた。義光自身は山形城本陣を守りながら指揮を行い、堅城・長谷堂城を中心に防衛戦を展開。関ヶ原の戦いにおける西軍敗報を受け、形勢が逆転すると、自ら前線へ出撃したが、上杉軍鉄砲隊の激しい反撃にあい、兜に銃弾を受けた。 戦後、田川・櫛引・飽海の庄内3郡を加増され、57万石を領有する大大名へと飛躍を遂げた。その後は、城下町山形の整備や最上川舟運による商業振興、庄内平野の大規模開発などに尽力した。慶長19年(1614)山形城にて死去。享年69。 関連史蹟:霞城公園・最上義光騎馬像・最上義光歴史館(山形市) |
享禄3年(1530)〜天正6年(1578)
越後守護代・長尾為景の末子として、春日山城に生まれた。幼少期を春日山城下の林泉寺にて学問を学んで過ごした。14歳で元服すると、越後国内の反乱鎮圧に活躍、家臣団の信望を集める。そのため、兄・長尾晴景と対立するも、越後守護・上杉定実の仲介で、晴景の養子となり、19歳で越後守護代長尾家の家督を継いだ。 定実には跡継ぎが無く、越後守護上杉家が断絶すると、将軍・足利義輝から越後国主の地位を認められた。また、助勢を求めてきた関東管領・上杉憲政を庇護し、のちに憲政から関東管領職と上杉家の家督を譲られた。 信濃方面では、村上義清らの救援要請を受けて、武田信玄と激戦を繰り広げ、この戦国史上に有名な川中島合戦は五度に及んだ。また、関東地方にもたびたび出陣し、北条家と戦った。のちには、北陸方面で織田軍とも戦い、これを打ち破っている。 天正6年(1578)春日山城内で倒れ、急死した。享年49。このため相続争い(御館の乱)が起こった。謙信の養子の二人が争い、上杉景勝が勝利を収めた。 尊骸は、越後、会津、米沢と、上杉家の転封とともに移され、現在は米沢市内の上杉家廟所に祀られている。 |
米沢市西部、鬼面川西岸の高台に鎮座する神社。 |
米沢市南西部、大樽川(鬼面川)と小樽川の合流地点に位置する丘陵上に築かれた山城です。一説には伊達家統治時代の「米沢城」ともいわれていますが、通説では伊達政宗の父・輝宗が、政宗に家督を譲ったのち、この舘山城に隠居したといわれています。 |
独眼竜の異名で有名な、仙台藩初代藩主・伊達政宗は永禄10年(1567)、米沢城で生まれました。幼少期から青年期(25歳)まで米沢城を居城としていました。 |
樋口兼豊…高嶋政伸さん
お藤…田中美佐子さん
樋口与七…小泉孝太郎さん
泉沢久秀…東幹久さん
上杉景虎…玉山鉄二さん
華姫…相武紗季さん
菊姫…比嘉愛未さん
以上です。