戦国観光やまがた情報局
天地人ゆかりの新潟県・福島県・山形県の首都圏アンテナショップを巡って、
3県の温泉宿泊券や特産品が当たる「天地人スタンプラリーキャンペーン」を実施します! スタンプを全て集めると、抽選で各県の温泉宿泊券や特産品が合計69名に当たります。 さらにパンフレット(スタンプ台紙)には、各店舗で使える特典クーポン付きです! ぜひこの機会に、3県のアンテナショップに足をお運びください。 『新潟・福島・山形アンテナショップめぐり「天地人」スタンプラリーキャンペーン』 開催期間 平成21年8月1日(土)〜平成21年10月4日(日) 応募期間 平成21年8月1日(土)〜平成21年10月9日(金) キャンペーン終了いたしました。たくさんのご応募ありがとうございました。 スタンプ設置場所 山形県 おいしい山形プラザ(銀座) 福島県 福島県八重洲観光交流館(八重洲) 新潟県 表参道・新潟館ネスパス(表参道) ※詳細は下記パンフレットを参照ください。 (ダウンロード完了まで少し時間がかかります。) スタンプラリーパンフレット表面(PDF形式) スタンプラリーパンフレット裏面(PDF形式) ...もっと詳しく |
天文16年(1547)〜天正15年(1587)
新発田城主・新発田尾張守長敦の弟。新発田家は兄長敦が家督を継いだため、五十公野家を相続し、五十公野源太と名乗るが後に治長と改名。 謙信の死後勃発した「御館の乱」では景勝に味方し、戦功をあげ武名を轟かせた。 天正7年(1597)兄長敦が病死すると、生家の新発田家を相続。名を重家と改名。 「御館の乱」後の論功行賞で、恩賞を不服として景勝を見限り、信長に通じて挙兵。信長の支援を受け、新潟・沼垂などを占領し戦線を拡大していった。 しかし、天正10年(1582)信長が本能寺で自刃すると、秀吉と家康の抗争に乗じて勢力伸張を画策した重家は、両者の停戦で孤立したところを景勝に攻められ、新発田城は落城。天正15年(1587)自害。享年41。 |
今回からいよいよ幸村登場!で、その父昌幸は何だか非常にずる賢い人物に描かれていましたが、演じているのは「岩松了」さんです。役者でも数々の映画やドラマに出ています(「のだめ」のお父さんとか)が、脚本家としても有名な方です。何せ脚本の芥川賞と言われる「岸田國士戯曲賞」受賞者ですから。
実はこの方、今回の演出陣の中でも「奇才」として知られる高橋陽一郎Dの幻の名作「日曜日は終わらない」の脚本も担当。今回の出演はそのつながりでしょうか。 |
直江兼続が天正18年(1590)、小田原征伐の折、富士山麓の社から曽我兄弟の木像を請い受け、越後直峯の城下に社を建て神達明神と名づけました。
後に米沢移封の際にこの社も移され、兼続没後は実家樋口家の屋敷神となり、7月16日の例大祭は町内あげての祭りで賑わいます。 ▼交通:JR米沢駅から車で約10分 ▼地図:Google Maps |
鮭延城址の近くには、鮭延氏の菩提寺である正源寺がります。山門は、高さ13m、間口9.7m、奥行6.1m、12脚の堂々たる桜門です。
約450年前(天文5年)、鮭延典膳貞綱公(秀綱の父)の菩提寺として開かれました。 山門と山門の間に鉄道が走り、踏切があります。境内に踏切がある寺は、全国的にも珍しいものです。 ▼交通:JR真室川駅から車で約7分 ▼駐車場:有り(無料)自家用車可 ▼拝観料:なし ▼所要時間:15分 ▼所在地:真室川町大字新町22−13 ▼問合せ:真室川町教育課 TEL 0233−62−2305 |
永禄3年(1560)〜慶長5年(1600)
近江国石田村の出身。近江長浜城主であった羽柴秀吉に見出され、小姓として仕えた。その後、秀吉に従い各地を転戦、戦功があった。天正13年(1585)近江水口4万石の城主となり、文禄4年(1595)には、近江佐和山19万4千石の城主となった。 豊臣政権の中枢にあって、諸大名との取り次ぎ役や検地奉行を務め、遠征時には後方支援を担当するなど、行政官僚として手腕を発揮した。上杉景勝の上洛に際しても交渉の窓口となり、書状のやりとりを行った。この時、上杉側の窓口であった直江兼続とは、盟友関係を強めていった。 慶長3年(1598)秀吉が没すると、五大老の一人である徳川家康が台頭。三成と険悪な関係にあった武断派の武将達を取り込み、次の天下人を狙う動きに出たため、これと対立する。 慶長5年(1600)家康は上杉征伐のため会津へ出陣、これを好機と判断した三成は、毛利輝元を総大将として上方で挙兵した。上杉征伐の途上から反転してきた家康率いる東軍と、美濃国関ヶ原にて決戦に及んだものの、味方大名の寝返りに遭い敗北。捕らえられて、京六条河原で斬首された。享年41。 |
直江兼続は街づくりを行う上で先ずは山に登ってその計画を立てたと言われています。その登ったと思われる山の一つが「赤崩山」です。尾根の先端部分にはかなり古い年代の板碑群があり、直江兼続が米沢に入る前の伊達家の時代からこの場所は物見やのろし台として使われていた可能性があります。
眼下真下には松川が、さらにその下流左岸には谷地河原堤防(直江石堤)が位置しており、直江兼続の壮大な計画の第一歩がこの眺めから踏み出されたのかもしれません。 ※赤崩山に登る遊歩道が整備されています。(頂上まで徒歩5分) 登り口は、旧関根小赤崩分校のところにあります。 Google Maps ...もっと詳しく |
永正21年(1524)〜慶長14年(1609)
綾姫。上杉景勝の生母で、上杉謙信の姉でもある。父は越後守護代長尾為景、母は虎御前。 坂戸城主長尾政景に嫁ぎ二男二女をもうけた。長男義景は10歳で早世、二男顕景は後の景勝、長女は上条城主・上条政繁に嫁ぎ、二女は上杉景虎(北条氏政の七男で謙信の養子)に嫁いだ。 夫政景の死後、才気煥発な少年樋口与六(後の兼続)を見出し、喜平次(景勝)の小姓として推挙。その後謙信の招きで、景勝とともに春日山城へと移り、景勝は謙信の養子となった。 仙洞院は、「御館の乱」で景勝と景虎(二女の夫)が争うことになり辛い立場に置かれながら、動乱の時代を景勝とともに歩んだ。 その後、景勝の移封に伴い会津そして米沢城へ移る。慶長14年(1609)2月15日、米沢城二の丸で死去。享年85。墓は米沢市林泉寺にある。 大河ドラマ「天地人」では、仙桃院、二女は華姫となっている。 |
只今開催中の川崎さいか屋「第18回山形県の物産と観光展」では、大河ドラマ「天地人」コーナーを設け、「愛」の兜やのぼり旗、ポスター等を展示し、PRしております。
6/24(火)まで開催しておりますので、是非ご来場ください。 ■さいか屋川崎店「第18回山形県の物産と観光展」 会 期:平成20年6月18日(水)〜24日(火) 開催時間:午前10時〜午後8時(最終日は午後4時まで) 会 場:さいか屋川崎店6F催事場 |
さいか屋川崎店での「山形県の物産と観光展」開催にあわせ、物産展PRと天地人ゆかりの地・山形のPRを行いました。
「愛の前立て」が光る直江兼続の甲冑を着込んだ事務局職員が、関係機関を訪問させていただきました。 川崎地区マスコミ訪問 平成20年6月17日(火) 訪問先:川崎市役所、川崎商工会議所、毎日新聞社、読売新聞社、東京新聞社、神奈川新聞社 |
生年不詳〜慶長17年(1612)
武勇に優れた武将でもあり、和漢古今の文学にも通じた風流人。派手な姿、振る舞いを好む傾奇者としても有名。 加賀の前田利家の義理の甥であり、実母が利家の長兄・利久に再嫁したため、その養子になったと言われている。本来は前田家を継ぐ身であったが、織田信長が利家を跡継ぎとするよう命じたため、父とともに浪人となった。のちに能登の大名となっていた利家に仕えた。 利久が死去すると利家との折り合いが悪くなり、前田家を出奔。京都で様々な文化人と交流し、なかでも文武両道に秀でた直江兼続と親交を結んでいた。 上杉景勝が会津120万石に加増移封されると、上杉家に1千石で仕官した。慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、兼続に従い出陣。長谷堂城からの撤退戦では殿軍(しんがり)を務め、追撃する最上軍相手に奮戦し、上杉軍を見事に撤退させた。 戦後、数多の仕官の話を断り、上杉家に残った。米沢近郊の堂森の地に「無苦庵」という庵を結び、悠々自適な晩年を過ごしたといわれる。 |
大河ドラマ「天地人」の放送記念イベントとして、全国まちづくりシンポジウム2009「天地人のこころを現代に活かす〜歴史を活かしたまちづくり〜」が開催されます。
大河ドラマ「天地人」の脚本を担当している小松江里子さんと、NHKチーフプロデューサーの内藤愼介さんによる「天地人」対談のほか、「天地人」ゆかりの3市の市長によるパネルディスカッションが開催されます。 開催日:平成21年9月27日(日) 時 間:開場 午後0時30分 開演 午後1時 終了予定 午後3時30分 第1部 「天地人」対談 「大河ドラマ『天地人』と地域の活性化」 特別ゲスト:小松江里子氏(大河ドラマ「天地人」脚本家) 内藤愼介氏(大河ドラマ「天地人」制作統括) 第2部 パネルディスカッション 「天地人を活かしたまちづくり〜次の一手〜」 コーディネータ:堀内史子氏(旅館招湯苑・女将) パネラー:菅家一郎氏(会津若松市長) 井口一郎氏(南魚沼市長) 安部三十郎氏(米沢市長) 会 場:伝国の杜 置賜文化ホール(米沢市丸の内1−2−1) 入場料:無料(入場整理券が必要です) 定 員:500名 主 催:全国まちづくりシンポジウム実行委員会 共 催:大河ドラマ「天地人」米沢市推進協議会、米沢市歴史団体連絡協議会 後 援:米沢市教育委員会 入場整理券の配布方法について 米沢市役所・伝国の杜・置賜総合文化センターにて整理券を配布しております。 お問合せ:米沢市天地人推進室 電話0238-22-5111 内線2809 ...もっと詳しく |
大頭堰または西川堰とも呼ばれ、舘山城の外堀の跡を利用して堀削されたものです。 |
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天下布武を目指した型破りな戦国武将として名高い。
尾張斯波氏の家老織田信秀の嫡男。18歳で家督を継ぐ。永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元を破ると天下統一に向けて勢力を拡大し、長篠の戦い(1575)で武田勝頼を破る。
その後上杉家家督争いの「御館の乱」に乗じて、上杉領である能登・加賀を攻略。天下統一まであと一歩に迫りながら天正10年(1582)6月2日、本能寺で家臣明智光秀に急襲され自害。享年49。
信長は合理主義に徹し、才能ある家臣は身分を問わず登用昇格させた、まさに能力主義者であった。