戦国観光やまがた情報局

山形県立図書館の1階展示コーナーでは、「12月はこんな月−直江兼続とその時代−」特集が開催中です。
天下の智将「直江兼続」の60年の生涯が、同じ時代を生きた武将達の生き様とともに展示されています。2009年1月からの大河ドラマ「天地人」放映に先駆け、郷土資料から小説まで興味のもたれたところからご覧いただけるようになっています。

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 http://www.yamagatakanko.com/
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慶長5年(1600)、長谷堂の戦いで、最上軍の武将として活躍し、敵将である直江兼続に「信玄、謙信にも覚えなし」といわしめた名将鮭延秀綱の居城跡。

現在、杉木立を抜けた小高い丘に大手門跡と石碑が残っています。城跡からは、数百年の歴史を経て変わらずにとうとうと流れる真室川や田園風景が見下ろせます。

▼交通:JR真室川駅より車で約7分で上り口、その後徒歩約5分
▼駐車場:なし
▼入場料:なし
▼所要時間:20分
▼トイレ:なし
▼問合せ:真室川町教育課 TEL0233−62−2305

▼地図:Google Maps
馬の名手・人見下斎入道宗次を総監として招き、「追廻し馬場」を築き、馬術を家臣に習わせました。

その馬場の広さは約7500坪あり、中通りに桜を植えたので「桜の馬場」と呼ばれました。

白子神社の東側、現在の米沢警察署付近にあたる場所です。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps

慶長5年(1600)、奥羽の関ヶ原と呼ばれる「長谷堂合戦」において、上杉軍の退却戦が近くの野平山古戦場で行なわれました。その退却の際、直江兼続がこの松の下で兜を置いて休んだという謂われが残っています。

▼交通:フラワー長井線荒砥駅から車で約10分
    山形自動車道山形蔵王ICから車で約50分
    山交バス 山形―長井線(長谷堂経由)細野バス停下車徒歩2分
▼駐車場:なし
▼所在地:白鷹町大字滝野森の上 国道348号沿い
▼問合せ:白鷹町観光協会 TEL 0238−86−0086

山形城主・最上義光並びに最上家の紹介、歴史館の利用案内、スタッフレポートなど
 http://mogamiyoshiaki.jp/

最上家11代当主・最上義光と山形城の資料を展示している資料館です。
義光が上杉勢との長谷堂合戦の際に身につけていた、弾痕の跡が残る兜や甲冑、指揮棒などの遺品、長谷堂合戦図屏風、山形城本丸のふすま絵等の絵画類や調度品等、多数展示されています。

▼交通:JR山形駅から徒歩で約10分
    山形自動車道山形蔵王ICから車で約15分
▼駐車場:山形市大手町駐車場(有料)
     最上義光歴史館向側・観光バス専用駐車場(無料)
▼開館時間:9:00〜16:30
▼休館日:月曜(休日の場合はその翌日)、年末年始
▼所要時間:20分
▼入館料:有り
▼問合せ:最上義光歴史館 TEL023−625−7101

▼地図:Google Maps

天文15年(1546)〜慶長19年(1614)
 最上家11代当主。山形城主。対立していた父・義守が隠居し、26歳にて家督相続。有力国人領主が各地に勢力を保持していた村山郡・最上郡にあって、政略や策略を駆使して反勢力を平定、最上氏による集権体制を築き上げる。
 天正15年(1587)庄内地方へ侵攻、大宝寺氏を討ち領有化に成功するも、翌年、越後方の本庄繁長に十五里ヶ原の戦いで敗れ、支配権を失った。
 慶長5年(1600)の慶長出羽合戦では、直江兼続率いる上杉軍に攻め込まれた。義光自身は山形城本陣を守りながら指揮を行い、堅城・長谷堂城を中心に防衛戦を展開。関ヶ原の戦いにおける西軍敗報を受け、形勢が逆転すると、自ら前線へ出撃したが、上杉軍鉄砲隊の激しい反撃にあい、兜に銃弾を受けた。
 戦後、田川・櫛引・飽海の庄内3郡を加増され、57万石を領有する大大名へと飛躍を遂げた。その後は、城下町山形の整備や最上川舟運による商業振興、庄内平野の大規模開発などに尽力した。慶長19年(1614)山形城にて死去。享年69。

関連史蹟:霞城公園・最上義光騎馬像・最上義光歴史館(山形市)
清水光氏(しみずあきうじ):1582〜1614
  最上義光の三男。のち義親(よしちか)。最上氏の一族であった清水義氏の養子となり、清水家を継ぎ清水城主となった。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦った。その後の庄内攻略戦では、叔父の楯岡光直とともに総大将を務めた。若い時に豊臣氏の人質となっていたため、豊臣秀頼との繋がりがあり、大坂の役に際して内通を疑われた。兄の最上家親に清水城を攻められ、嫡子・義継ともども自刃した。
   関連史跡:清水城址(大蔵村) 


清水義氏(しみずよしうじ):1547〜1586
  最上氏一族の清水氏6代目当主。清水城主。1565年に父・義高が大宝寺義増に敗れ、討死したため跡を継いだ。その後は最上義光と連携して大宝寺氏とたびたび争う。男子が無かったため、義光の三男・光氏を養子に迎えた。のちに娘の清水姫は義光の継室となった。


山野辺光茂(やまのべあきしげ):1588〜1664
  最上義光の四男。のち義忠(よしただ)。慶長出羽合戦後に父・義光の命により山野辺城主となり、山野辺家の名跡を継いだ。山野辺の城下町整備や治水事業を行なうなど、優れた行政手腕を発揮して領民に慕われた。兄・家親が急死し、その子家信が藩主を継いだが、家信は若年で国政を執るには力不足で、光茂を当主に推す声が強くなった。このため家臣団がまとまらず、最上家改易の原因となった。改易により光茂も池田家に預けられた。後に水戸藩の家老となり、徳川光圀の教育係を務めた。
   関連史跡:山野辺城址(山辺町)


上山光広(かみのやまあきひろ):1594〜1627?
  最上義光の五男。のち義直(よしなお)。1616年に2万1千石にて上山城主となり、上山姓を名乗った。最上家改易により黒田家に預けられ、4,5年後に自害したと云われる。
   関連史跡:上山城(上山市)


大山光隆(おおやまあきたか):1602?〜1623
  最上義光の六男。1615年に2万7千石にて庄内大山城主となり、大山姓を名乗った。最上家改易により酒井家に預けられ、翌年広島にて自害した。
   関連史跡:大山(尾浦)城址(鶴岡市)


長瀞義保(ながとろよしやす):?〜1591?
  最上義守の次男。兄・義光が天童氏を攻め滅ぼすと、その命により天童氏を盟主として義光に対抗した最上八楯の一員である長瀞氏を継いだ。
   関連史跡:長瀞城址(東根市)


長瀞光忠(ながとろあきただ):?〜?
  義保の跡を継いで長瀞城主となる。1596年湯沢城に拠る楯岡満茂が小野寺義道の攻撃を受けた際、小国光基とともに救援に赴いて撃退した。


白岩光広(しらいわあきひろ):1589〜1672
  長瀞義保の子。白岩義広の養子となり、白岩家を継いで白岩城主となった。1615年松根城を築城して城主となり、松根氏を称した。最上家親が急死した件を、楯岡光直による毒殺であると幕府に訴え出た。幕府は調査したが証拠が無く、光広を立花家へ配流する処分を下した。
   関連史跡:白岩城址(寒河江市)


楯岡光直(たておかあきなお):?〜1629?
  最上義守の三男。楯岡城主。楯岡満茂が湯沢城(湯沢市)に移り、湯沢氏を称するようになったため、その跡を継いで楯岡氏を名乗った。慶長出羽合戦では、長谷堂城を救援して上杉軍と戦った。その後の庄内攻略戦では、甥の清水光氏とともに総大将を務めた。最上家信が藩主となると、最上義光の四男・山野辺光茂の擁立に動いた。このため、最上家中は二分して混乱し改易された。改易後は細川家に預けられた。
   関連史跡:楯岡城址(村山市)


楯岡満茂(たておかみちしげ):1556?〜1639?
  楯岡城主。1586年横手城主の小野寺義道が侵攻してきた際、有屋峠で最上義康とともに戦い、苦戦の末にこれを撃退した。1595年逆に仙北地方に侵攻し、湯沢城(湯沢市)を攻め落とした。そのまま城主となり、湯沢氏を称した。
  慶長出羽合戦のときは、小野寺氏に対する守備を担当した。のちに由利郡に移り、本荘城を築城、本荘氏を称して、最上家中の最高の4万5千石を領した。
   関連史跡:本荘城(由利本荘市)


楯岡満広(たておかみちひろ):?〜?
  満茂の弟。関ヶ原合戦後、兄に従って由利郡に移る。矢島城(由利本荘市)3千石を与えられた。最上家改易により兄弟ともに酒井家に預けられた。


氏家定直(うじいえさだなお):?〜1570?
  最上家の宿老。天文の大乱時に、伊達に味方した主君・最上義守の名代として出陣した。義守とその嫡男・義光が争った際には、病身をおして調停に入り、義光への家督相続を実現させた。


氏家守棟(うじいえもりむね):?〜1591?
  定直の子。知略に優れ、最上義光の懐刀と呼ばれた。最上義守・義光親子の争いに介入する伊達輝宗との和睦交渉を担当。謀略をもって天童氏や上山氏を攻略したほか、鮭延城攻めや観音寺城攻めなど各方面で活躍した。


成沢道忠(なりさわみちただ):?〜?
  成沢城主。氏家守棟の従弟。最上義光と上山満兼・伊達輝宗連合軍が戦った柏木山合戦では、山形城南方の要となる成沢城を守備した。
   関連史跡:成沢城址(山形市)


氏家光氏(うじいえあきうじ):1565?〜?
  成沢道忠の子。氏家守棟の子が十五里ヶ原の戦いで戦死したため、守棟の養子となり氏家家を継いだ。最上義光の三女・竹姫を娶り、重臣として活躍した。慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣した。


延沢満延(のべさわみつのぶ):1544〜1591
  大力剛勇の武将。延沢城主。最上八楯の一員。はじめ天童氏に味方し、大いに最上義光を苦しめた。義光の長女を満延の子に嫁がせるという条件で、義光方に寝返った。このため天童氏は敗北。義光と力比べをしたときに、あまりの強さに桜の木にしがみついた義光を、その桜の木ごと引き抜いたという逸話をもつ。
   関連史跡:延沢城址(尾花沢市)


延沢光昌(のべさわあきまさ):?〜?
  満延の子。最上義光の長女・松尾姫を娶った。父の死後に家督を継ぎ、慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣、続いて上杉領であった庄内地方を攻略した。その後、1614年清水義親討伐に参加、最上家改易後は加藤家に預けられた。


志村光安(しむらあきやす):?〜1609
  最上義光の重臣。「いかなる強敵も彼の前には降った」と云われる最上家の知将。慶長出羽合戦の際には、長谷堂城を守備した。直江兼続率いる上杉軍2万に対し、篭城戦を展開。ついに守りきり上杉軍を撤退に追い込んだ。戦後、庄内侵攻戦に加わり、東禅寺(酒田)城主となった。
   関連史跡:亀ヶ崎城址(酒田城址)・永泉寺の供養塔(遊佐町)


志村光清(しむらあききよ):?〜1614
  光安の子。父の死後に家督を継ぎ、亀ヶ崎城主となる。最上義光が死去した後、最上家親の家督相続に反対した一栗高春に、鶴岡城内で襲われ斬殺された。
   関連史跡:亀ヶ崎城址(酒田市)


鮭延秀綱(さけのべひでつな):1562〜1646
  佐々木貞綱の子。鮭延城主。横手城主小野寺氏に仕えていたが、最上義光に攻められ降伏。その後は最上家家臣として活躍した。慶長出羽合戦では、副将として長谷堂城の守備にあたった。その最中、上杉軍に夜襲をかけて、直江兼続本陣を脅かすほどの戦果うぃ挙げ、兼続に「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめた。
   関連史跡:鮭延城址(真室川町)


庭月広綱(にわつきひろつな):?〜1650
  佐々木氏(鮭延氏)の一族。鮭延秀綱が最上義光に攻められた際、同じく攻撃を受け降伏した。
   関連史跡:庭月観音(鮭川町)


谷柏直家(やがしわなおいえ):1551〜1610
  最上義光の小姓。片桐蔵人。谷柏館主。慶長出羽合戦では、飯田播磨守らとともに畑谷城救援に向う。途中、畑谷城が落城したことを知り、追われて逃げてきた領民達を保護した。上杉軍の追撃を防ぐために殿郡として戦っていた飯田が討ち取られたことを知ると、引き返して飯田の首を奪い返した。長谷堂城に隣接する谷柏館も上杉軍の攻撃を受けたが、よき防戦して守りきった。
   関連史跡:谷柏館跡(山形市)


飯田播磨守(いいだはりまのかみ):?〜1600
  実名不詳。天童八楯のひとつで、村山郡北部(村山市本飯田)を本拠地としていた。天正年間に村山郡南部に移封となり、飯田館を築いた。慶長出羽合戦では、畑谷城の救援に向った。途中、畑谷城が落城したことを知ったが引き返さず、追われて逃げてくる領民の救出にあたった。避難の時間を稼ぐために残って上杉軍と交戦し討死した。
   関連史跡:飯田館跡(山形市飯田)・たらたら清水(最後の地/山形市)


江口光清(えぐちあききよ):1544?〜1600
  畑谷城主。慶長出羽合戦の際、最上義光から山形城に退却するよう命令されたが、城を棄てるのは武士の名折れとしてこれを拒否し、直江兼続率いる上杉軍2万との徹底抗戦に出た。約3百の兵で奮戦したものの、畑谷城は落城し、全員討死した。連歌の才があり、義光の連歌会に何度も同席している。
   関連史跡:畑谷城址(山辺町)・長松寺(供養碑/山辺町)


加藤清次(かとうきよつぐ):?〜1600
  悪戸楯主。伊達政宗の母・保春院の警護役を務めた。親友の江口光清が畑谷城で討死したことに憤激し、長谷堂合戦に参陣したが、長谷堂城の北方で戦死。
   関連史跡:掃部の碑(供養碑/山形市)


坂 光秀(さかあきひで):?〜1616
  成沢城主。慶長出羽合戦では、援軍として長谷堂城に駆けつけた。戦後、東禅寺(酒田)城主となった志村光安に代わって、長谷堂城主となった。
   関連史跡:清源寺・坂光秀の肖像画(山形市)


堀 喜吽(ほりきうん):?〜1600
  最上義光の御伽衆。筑紫喜吽とも。筑前で生まれ、兵法家として諸国を巡り、今判官と称した。連歌にも長じており、義光とともに京での連歌会に出席している。慶長出羽合戦の際、撤退する上杉軍に対し、自ら先頭に立って追撃する義光を諌めたが、逆に臆病者と罵倒されたため、単騎で突撃した。上杉軍の鉄砲隊に撃ち抜かれ、義光の馬前で戦死、義光自身も兜に銃弾を受けた。


里見民部(さとみまんぶ):?〜1614
  実名不詳。最上義光の誘いに乗り、上山城主・上山満兼と誘いを拒んだ兄・内蔵助を斬殺した。父の義近(越後守)が代わって上山城主となる。慶長出羽合戦では、上杉軍の別働隊4千を約5百の兵で奇襲し、撃退した。上杉側に城を明け渡す約束をしていたが、義近が軍奉行として山形城に入った(人質に取られた)ため、逆に奮戦したとも云われている。最上義康の廃嫡事件に関わり、上山城を退去。加賀前田家などへの士官を義光に妨害され、各地を流浪した末に尾浦城主・下吉忠に預けられた。将来に禍根を残すとして、義光が遺言し、義近、民部、民部の子の権兵衛(光正)など主従23名が切腹させられた。
   関連史跡:上山城址(上山市)・天澤寺の里見主従墓地(鶴岡市)


草刈正辰(くさかりまさたつ):?〜1600
  志摩守を称す。慶長出羽合戦の際に、上山城へ援軍として派遣された。山中に伏兵して上杉軍を待ち伏せし、隊列が延びたところを奇襲、大将・本村親盛を討ち取り、上杉軍を壊滅状態に追い込んだ(物見山の戦い)。勢いに乗じて、上杉側の拠点・中山城攻略のため攻め込んだが、上杉鉄砲隊の反撃を受け、戦死した(広河原の戦い)。
   関連史跡:首塚(両軍の戦死者を祀る/上山市)・広河原古戦場跡(上山市)
平成20年5月23日(金)、山形市のグランドホテルにおきまして、大河ドラマ「天地人」の原作者である火坂雅志氏の講演会が開催されました。先月16日の講演会に続き、山形市では今年度2回目となりました。
主催の山形経済同友会の方々をはじめ、一般参加者の皆さまなど約280名が集まり、今回も会場は満員状態でした。
三の丸外の侍町、町人町、寺町の小路に水路を通し、城下の生活用水とするため、松川上流と大樽川中流から引き水を図り、松川からの用水路として開削したものです。

慶長7年(1602)頃から着工。南原六十在家(現芳泉町)上西岸から堰上げ、笹野街道の天神清水・大清水・新清水・吉野清水などの湧水を加え、城下南端の七軒町に導水。ここから本丸・城下南部・東部・北部へと配水することで士民の用水に供されました。

御城に入る水なので御入水と敬称したと言われています。

▼交通:JR米沢駅から車で約10分
▼地図:Google Maps
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八乙女神社縁起に「慶長年中(1596年頃)直江山城守が荒砥城補修の時、稲荷神社を修理宗敬せり」と記されています。
また、最上出陣(長谷堂合戦)の際、直江兼続が御楯稲荷神社で戦勝祈願した時、白狐が現れ道案内をしてくれたといい、その道は「狐越街道」と呼ばれ今に残っています。場所は八乙女八幡神社(旧荒砥城址)境内にあります。

▼交通:フラワー長井線荒砥駅から徒歩5分
    東北中央自動車道南陽高畠ICから車で約40分
▼駐車場:隣接の荒砥地区公民館駐車場を利用(無料)
▼拝観料:なし
▼所要時間:15分
▼所在地:白鷹町荒砥甲109八乙女八幡神社境内
▼問合せ:白鷹町観光協会 TEL 0238−86−0086

慶長14年(1609)、眼を患った某僧が五色の湯に入って治ったという話を耳にした直江兼続は、生来病弱で両眼を病んでいた嫡子景明のために、五色温泉に湯壷を開きました。浴舎や小屋を設け、足軽60名に警護させ、長い湯治を行ったとされています。

▼交通:JR板谷駅から車で約15分
▼地図:Google Maps

享禄3年(1530)頃〜慶長16年(1611)
 臨済宗僧侶。美濃の人。甲斐国で武田氏の帰依を得ていた快川らに教えを受けた。伊達氏の菩提寺であった東昌寺の縁により資福寺に入った。伊達政宗の師として知られる。政宗の青少年時代のようすを、両者の書状からうかがうことができる。