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門前の小僧、習わぬ経を読む〜読書百回、その意自ずから知る
我々の若い時代にも、年輩者から最近の若い奴という表現をされたものであるが、昭和末期から平成生まれの若い人達を見ていると、我々世代と明らかな違いがある。最近の若い人達は、教わった事は出来るが、教わらない事は一切手出しをしないことだ。
ある時、孫の学習に、経験上の様々な手法で教えようとしたら、母親から、「学校の先生に手法の異なる教え方はしないように言われている」と叱られてしまった。
明治維新後や第2次大戦の敗戦後、日本人の識字率の高さ、計算能力など基礎教育が徹底していた事は国際的にも認められてきた。それが、周囲の東アジア諸国が植民地化される中、独立を保ち得た理由であり、戦後、軍事費が必要無かったとは言え、技術立国・高度成長出来た理由と言われている。
「学ぶ」の本来の意味は「真似る」であり、「習う」と合わせ、「学習」という単語が出来た。「勉強」という単語とは明らかに異なっている。真似る学習をしてから、勉強で個人ごとに考える事が必要なのではないか。(真似た考え方しか出来ないから、教わらない事には手出しが出来ないのだと思う。)
門前の小僧の格言は、未だ字も読めない子供が、寺の門前で清掃をしていて、毎日の読経を聞いている中に意味や内容を理解する以前に御経を覚えてしまったという話である。又、読書百回の格言は、同じ本を百回も読むと、作者の意図が自然にわかってくるという話で、教育の最初は、暗記させる事ではないかと思います。
昨今の教育は、手法や、考え方を教えていると言うが、個人の自由な発想による考えを画一化して、個性が見失われてしまったのではないかと危惧している。
2011.10.19:
長井製作所
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