今年4月1日より“愛の精神に生きた兼続の足跡をだどる”
びゅうばすの旅「直江兼続ゆかりの地探訪号」がスタートしました!
城下町の基礎を作り上げた米沢から、兼続の足跡を辿っていきます。
兼続が参拝したとされる神社、總宮神社は、ながい黒獅子の里案内人
のみなさんと總宮神社宮司・安部さんがご案内してくれます。
バスに乗車してガイドする「語りバス」も楽しみの一つ。なるほど・・・
兼続手植えの「直江杉」と私たちがバスをお出迎え・・・
總宮神社の見どころと言えば、まずはこの高くそびえたつ直江杉
でしょう。慶長3年に直江山城守兼続が米沢城に入った際、
下長井一ノ宮に参拝し杉を植えたと言われています。
かれこれ400年位になるのかな・・ なんとも立派です。
奉献したといわれている刀剣の他、長井ならではとも言える黒獅子、
上杉家の家臣・寺嶋長資の墓なども見学できますよ。
旅の楽しみと言えば、やっぱりご当地の食を満喫出来る事ですよね♪
バスの車内では、うこぎやみそ、高菜のおにぎりに、アッツアッツの
ジューシーな米沢牛コロッケがいただけますv^^v
私たちも神社内で長井のお菓子や地酒を販売。お土産にぴったりの
人気商品をご用意しています。ご試食・ご試飲も出来ますよ~。
なんと、びゅうばすご利用のお客様にはお土産として直江杉に
ちなんだ 「直江杉ケーキ」や「直江杉年輪パン」もプレゼント
しています♪
おいしそうでしょう?
總宮神社の見どころをたっぷり見学された後は皆でお客様をお送り。
またござっておごやいな~!
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【びゅうばす~直江兼続ゆかりの地探訪号】
2009.04.11:nagai-fan:[長井のイベント]
ご質問ありがとうございます。
疑問点の件
寺嶋和泉守正貞について
tokomaさま
ご質問いただいた寺嶋和泉守正貞について、現在、長井市報・広報
ながいに「直江兼続と長井あれこれ」を連載している安部義彦さん
に伺ってきました。書面でご返答をいただいたので、間違いがない
ように全文転載したいと思います(^_^)
尚、ご不明な点がありましたらコメント欄ではなく、お手数ですが
ながいファン倶楽部事務局までメールでご連絡ください。
よろしくお願いしますm(__)m
アドレスは jibasan@e.jan.ne.jp です。
また、安部さんの連載は長井市のホームページからもPDFファイルで
ご覧いただけます。こちらもぜひどうぞ。
(http://www.city.nagai.yamagata.jp/ →広報ながい)
安部さんにいただいた回答は以下の通りです。
「魚津城で自刃した寺嶋長資の子が正貞であることが確認できない」
ということについて
(1)「上杉家年譜」には、慶長6年8月20日に直江兼続の命により、
寺嶋和泉が下長井代官にと記されています。
(2)「紹襲録」にも代官として寺嶋和泉正貞の名があります。
これには次のようなことが記されてあります。
氏 名 寺嶋正貞
通 称 和泉
石 高 5百石 就職年月日 慶長6年8月20日
退職年月日 元和2年8月12日
備 考 上長井代官(後に下長井代官)
(3)上記のことから寺嶋長資の子の正貞が代官を務めたことがわか
ります。
(4)質問にある「和泉俊喜左衛門長親」や「下永井郷郡史日之郡奉
行」ということについてはどこに出てくるのでしょうか。調べて
みます。ちなみに当時、米沢地方の郡代、奉行一人で、春日右衛
門です。
(5)寺嶋家のこと
寺嶋和泉守某のときに上杉謙信に仕え、その子六蔵長資は魚津城
で討死、その後慶長6年に嫡子和泉(喜左衛門とも称す)正貞が
知行5百石を賜り代官となり、与左衛門吉友、喜左衛門盛秀、与
左衛門正友、喜左衛門信政と継承されたが延宝4年(1676)7月に
ある事件にかかわり改易の処分を受け、貞享元年(1684)二人扶
持で再興を許されたが仁兵エ某の時に米沢を出奔して断絶となっ
た。まとめますと、初代、和泉(喜左衛門とも称す)正貞⇒⇒⇒
2代与左衛門吉友⇒⇒⇒3代喜左衛門盛秀⇒⇒⇒4代与左衛門正友
⇒⇒⇒5代喜左衛門信政⇒⇒⇒仁兵エ某
長井遍照寺関係で開基檀徒になっているのは5代の信政で、長井
に残っている寺嶋家は2代から分かれた分家筋の寺嶋家です。
(6)追伸
寺嶋長資関係の資料を探しているのですが、なかなか見つかりま
せん。ただ、米沢市の吉江文書のなかに、長資が魚津篭城中に吉
江長忠あてにあてた書状があるようです(天正10年4月4日の日付)
ご質問いただいた寺嶋和泉守正貞について、現在、長井市報・広報
ながいに「直江兼続と長井あれこれ」を連載している安部義彦さん
に伺ってきました。書面でご返答をいただいたので、間違いがない
ように全文転載したいと思います(^_^)
尚、ご不明な点がありましたらコメント欄ではなく、お手数ですが
ながいファン倶楽部事務局までメールでご連絡ください。
よろしくお願いしますm(__)m
アドレスは jibasan@e.jan.ne.jp です。
また、安部さんの連載は長井市のホームページからもPDFファイルで
ご覧いただけます。こちらもぜひどうぞ。
(http://www.city.nagai.yamagata.jp/ →広報ながい)
安部さんにいただいた回答は以下の通りです。
「魚津城で自刃した寺嶋長資の子が正貞であることが確認できない」
ということについて
(1)「上杉家年譜」には、慶長6年8月20日に直江兼続の命により、
寺嶋和泉が下長井代官にと記されています。
(2)「紹襲録」にも代官として寺嶋和泉正貞の名があります。
これには次のようなことが記されてあります。
氏 名 寺嶋正貞
通 称 和泉
石 高 5百石 就職年月日 慶長6年8月20日
退職年月日 元和2年8月12日
備 考 上長井代官(後に下長井代官)
(3)上記のことから寺嶋長資の子の正貞が代官を務めたことがわか
ります。
(4)質問にある「和泉俊喜左衛門長親」や「下永井郷郡史日之郡奉
行」ということについてはどこに出てくるのでしょうか。調べて
みます。ちなみに当時、米沢地方の郡代、奉行一人で、春日右衛
門です。
(5)寺嶋家のこと
寺嶋和泉守某のときに上杉謙信に仕え、その子六蔵長資は魚津城
で討死、その後慶長6年に嫡子和泉(喜左衛門とも称す)正貞が
知行5百石を賜り代官となり、与左衛門吉友、喜左衛門盛秀、与
左衛門正友、喜左衛門信政と継承されたが延宝4年(1676)7月に
ある事件にかかわり改易の処分を受け、貞享元年(1684)二人扶
持で再興を許されたが仁兵エ某の時に米沢を出奔して断絶となっ
た。まとめますと、初代、和泉(喜左衛門とも称す)正貞⇒⇒⇒
2代与左衛門吉友⇒⇒⇒3代喜左衛門盛秀⇒⇒⇒4代与左衛門正友
⇒⇒⇒5代喜左衛門信政⇒⇒⇒仁兵エ某
長井遍照寺関係で開基檀徒になっているのは5代の信政で、長井
に残っている寺嶋家は2代から分かれた分家筋の寺嶋家です。
(6)追伸
寺嶋長資関係の資料を探しているのですが、なかなか見つかりま
せん。ただ、米沢市の吉江文書のなかに、長資が魚津篭城中に吉
江長忠あてにあてた書状があるようです(天正10年4月4日の日付)
寺嶋和泉守正貞の疑問点
①長房は長尾景虎(上杉謙信)公より名号寺嶋の姓を賜ったとある(上杉家譜世臣)。長資の義父。
②長資は魚津城で自刃。長資は吉江宗信の長男で寺嶋家に入嗣、次男景泰は中条家に入嗣。魚津城で親子3人自刃した。(尚、宗信は祖父との説もある)
③立て看板には、長資の子で下長井郷代官寺嶋和泉守正貞とある。しかし、正貞の名は確認できない。何故かと言うとその次には、和泉俊喜左衛門長親とある。また、下永井郷郡史日之郡奉行ともある。
④この時代は激しく改名しており、繋がりが解明出来ない。
⑤以上の疑問点に詳しい方のご教授をお願いします。