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長井の幕開け 最上川舟運 2

  • 長井の幕開け 最上川舟運 2

通船が不可能であった最上川上流部。白鷹町の黒滝を開鑿し航路を拓いた西村久左衛門は、米沢藩の御用商人であった。京都に店を構え、奈良晒(さらし)の原料となる青苧(あおそ)を米沢から上方に運んで販売することによって藩との関係が深まり、ついには米沢藩内から生産される青苧を一手に独占する特権商人となっていった。こうした中、西村久左衛門は元禄5年(1692)6月10日、荒砥から最上領長崎(現中山町)までの川筋普請を願い出るが、藩もこれを後押しした。

工事は渇水期となった元禄6年6月から始められるが、その前月に最大の難所で、開鑿工事の困難が予想される黒滝の近く、佐野原村剣先不動堂を再建して鰐口を納め工事の安全祈願をしている。黒滝は、急湍で、水面上には多くの岩が現れており、流水がそれらの岩にうち当たっては、あたかも滝のような音を響かせていたという。工事の現場には、櫓(やぐら)が建てられ、吊り上げた鉄錐を落として岩を砕く方法等で通鑿を進めた。黒滝開鑿のほかに左沢までの五百川渓谷も通鑿している。

 

橋の奥が開鑿された黒滝

 

工事は1年3か月後の元禄7年9月、1万7千両もの工費を費やして、新しい航路を開発することに成功している。そして、早くも西村久左衛門は同年9月、完成と同時に米沢米一万三千七百俵もの江戸廻送を請け負うこことなった。

 

航路わかるようだ

2016.01.06:n-old:[歴史的建造物]

長井の幕開け 最上川舟運  1

  • 長井の幕開け 最上川舟運  1

長井のまちには古い建物が残っている。確認できたもので江戸時代の蔵であったり建物が確認できる。町屋が残存し、明治以降の建造物も多く残る。歴史文化を大切にする心が長井にはあるのだ。それでは、現在に通じる分岐点はいつだったのだろうか。

それは、元禄7年(1694)の江戸時代に始まる。白鷹町の黒滝開鑿によって、宮舟場ができたことから、大きく長井のまちが変貌していく。それまでは、小桜城など軍事的なものもあったが、それほどに大きく歴史にからむところではなかった。小桜城、遍照寺を中心とした街並みと白山神社を中心とした街並みがかたまりとしてあったといわれている。

 

約300年前から営んでいた丸大扇屋

 

最上川を利用した舟運は、平安時代から行われていた。しかし、置賜の地に入ってくるのは元禄に入ってからである。朝日町から白鷹町にかけての五百川渓谷、白鷹町の黒滝があって、舟が上ってこれなかったからである。米沢藩の物資は陸路を使い山形へ、須川を下り最上川へとつないで輸出入を行っていたのだ。また板谷峠を越え太平洋のコースをとるなど、大量輸送には大変な労力とお金がかかっていた。米沢藩内には松川(最上川)が流れているが、前出のとおり藩内からの舟場がなかった。当然、藩では藩内を流れる最上川から直接しかも大量に酒田まで荷を下す必然性が生まれてくるが、そこに着目した人物が現れた。その名は「西村久左衛門」。通船を阻んでいた白鷹にある黒滝を開鑿し、下流の左沢から長崎までの航路を拓こうとしたのだ。

2016.01.05:n-old:[歴史的建造物]

あやめ公園の成り立ち 7 最終

  • あやめ公園の成り立ち 7 最終

昭和37年、あやめ公園の名前は変わらないが、大きく変貌した公園。希少な「長井古種」の発見は、古種保存園として全国の花菖蒲愛好家から注目を集めた。昭和38年には長井踊りのきっかけともなった、三橋美智也の「長井盆唄」も発表される。以降、公園も形が変わっていった。

 

現在のあやめ公園

 

公園は、昭和40年3月26日に都市公園になる。昭和41年、あやめ公園高台を整地し公衆トイレも整備した。昭和48年、これまで無料であった入園が有料となった年だ。市民は入園料を免除し、市外の観光客からいただく方法をとった。受け入れ施設として新しく「あやめ会館」を建設する。あやめ会館は最初は昭和8年、民間で整備、次に長井町で築山西に整備されている。3代目の会館は当時は団体客を重視した構成であったが、42年たった今建て替えを迫られている。翌昭和49年には無料休憩所、トイレを整備、高台にも昭和54年に無料休憩所を整備するなど次々と改修していった。昭和50年には乗務員休憩所、中央口の入園料徴収所を整備。昭和55年には、あやめ公園開園70周年にあたり築山の北にモニュメントを建てる。作家は長沼孝三氏。昭和61年、物産館を整備、平成4年には公園の約半分を改修する大事業が進められ、現在の公園とほぼ同じ状態となった。平成12年、昭和12年に建立された「あやめ公園開園記念碑」が園内中央部に移転、「山形県一名所」記念碑と共に並んで佇んでいる。

昭和55年に建立されたモニュメント 右にモニュメント、中央に長沼孝三氏

 

観光事業についても大きく変化していった。昭和51年、ミスあやめコンテストの第1回が開催された。昭和58年、独立国ブームを受けて「あやめおとぎの国」のイベントが繰り広げられ、多くの観光客と市民でにぎわった。

 

ミスあやめコンテスト 第1回は地元長井からの参加はいなかった

昭和61年、第11回で幕を閉じた

 

昭和58年の事業、あやめおとぎの国で使用された紙幣 500フローラ  

2015.07.01:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち 6

  • あやめ公園の成り立ち 6

 

昭和37年7月4日、花菖蒲の世界で新品種が発見された。それまでの一般的なあやめ公園から、「長井古種という新品種が保存されているあやめ公園」として全国に知られていった・・・ その歴史をたどってみよう。

 

長井古種は希少で貴重な花菖蒲の品種となった。花菖蒲は、江戸時代後期に品種改良され今に繋がるが、日本に自生している「ノハナショウブ」を改良したとされている。しかし、ノハナショウブから園芸種のハナショウブまでを改良することは、江戸時代の技術では不可能とされた。そこに「長井古種」が発見されたわけで、これこそが江戸に運ばれて改良されたとの見方が現在の考えだ。つまり「ノハナショウブ」と「ハナショウブ」の中間に「長井古種」が位置しているということである。それまで花菖蒲の系は「江戸系」「伊勢系」「肥後系」の三つだったが、以降「長井古種」が加わり4系となった。

 

長井古種として名付けられた第1号 「野川の鷺」 すべてがこの花から始まる

 

長井のあやめ公園は、以降、日本花菖蒲協会の鑑賞園に指定されている。

昭和38年には、名園である明治神宮から江戸種の古花27種200株を譲り受けた。この古花も園内に大切に保存されている。

 

 

昭和46年、朝日新聞社から「花菖蒲大図譜」が発刊された。本格的な花菖蒲図譜の発行で監修を日本花菖蒲協会が行っている。図譜には長井古種15種が掲載された。

昭和53年6月、日本花菖蒲協会会長・平尾秀一氏から寄稿いただいたものを掲載する。平尾氏は昭和37年以降、幾度も長井を訪れ、育成に指導をいただいた。

 

          日本花菖蒲の源流 長井あやめ公園の古品種

花菖蒲は古来、あやめともよばれ、桜と共に世界に誇る日本固有の名花であります。長井あやめ公園にも、明治神宮から特に分与を受けた品種を始め、多数の美花があります。

さて今日全国各地で季節を飾っている花菖蒲の品種は、江戸時代に旗本・松平菖翁がみちのくから「花かつみ」すなわち野花菖蒲を取り寄せて改良したのが始まりと伝えられています。

ただし、ここで言う「花かつみ」は今日、私達が山野で自生をみる野花菖蒲と同じであったとは考えられません。今日、野花菖蒲と松平菖翁が遺した花菖蒲の間には、花の色彩や形や大きさにおいてあまりにも遠い隔たりがあるからです。

日本花菖蒲協会の権威ある先生方は、この点を種々の角度から検討された結果、今日あやめ公園に伝わる一群の古品種こそ松平菖翁の品種の元となったものであり、隔言すれば松平菖翁の品種と「花かつみ」を繋ぐものであり、むしろ「花かつみ」そのものではないかという結論を下しています。すなわち、長井あやめ公園の古品種は日本最古の花菖蒲であることが証明されたのです。

これらの品種は近年まで無銘のまま伝えられてきたのでしたが、長井市においては、以上の事情に鑑み、これらの花菖蒲に、小桜姫・長井小町・長井小紫・朝日の峰・郭公鳥・麗人・藍島・三淵の流れ・・・・・などの名を与え、今後永久に保存栽培すべく努力しています。

 

以上が起稿文である。今、長井市は長井古種34種、長井系24種を大切に保存育成している。

 

昭和46年に発刊された「花菖蒲大図譜」

 

 

図譜には長井古種15種が掲載されている 写真は「日月」「出羽娘」「麗人」「藍島」「三淵の流れ」

 

「長井小町」が1ページにわたり掲載されている

 

 

 

2015.06.26:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち 5

  • あやめ公園の成り立ち 5

戦後、あやめ公園の復興に力を注いだ長井では、大きな転機を迎える・・・・ その歴史をたどってみよう。

 

戦争で荒れ果てたあやめ公園を、多くの人々の協力で徐々に蘇る。昭和29年にはあやめ会館を整備し、同年1町5カ村が合併、長井市が誕生する。そして、公園にとっては大きな転機を迎える昭和37年。

 

現在の花菖蒲の元と考えられている「長井古種」が発見された

 

日本花菖蒲協会の井上清会長、田阪美徳副会長、此田光助副会長をはじめ、三十余名に方々が、長井あやめ公園に観察旅行で訪問された。それは昭和37年7月4日のことである。前日の7月3日には、長井あやめ鉢作り展示会の出品作220余鉢の審査会も行われた。その当夜の懇親会の席上で、地元愛好会から「ぜひ、今一度公園をご覧いただき、特色花を一品、記念に選出していただきたい」と申し出た。翌7月4日、三鹿野季孝、岩鶴一良、後藤和三郎、平尾秀一の各氏をあやめ公園に案内する。暑い一日であった。午後の酷暑の中で「珍しい花がある」「何種というのだろうか」「他所にはない花だ」との声が聞こえた。そこで花銘を着けていただくようお願いしたところ、先生方の協議の結果「長井古種」花銘「野川の鷺」で意見の一致をみたのであった。

長井古種の誕生である。トップに用いた写真こそ「野川の鷺」で、命名第1号である。そして三十数種の長井古種が発見されるが、それまで多くの品種が植栽された「あやめ公園」が、長井古種の発見で、希少種の江戸系古花よりも古い品種を保存している「あやめ公園」として生まれ変わることとなり全国に知られるようになった。

 

昭和37年7月3日朝 はぎ園 日本花菖蒲協会の記念撮影

 

 

 

 

2015.06.24:n-old:[あやめ]