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長井市 広報マンが写した半世紀3

  • 長井市 広報マンが写した半世紀3
 昭和291115日、長井市が誕生した。往時の広報マンが記録した写真が、ここ文教の杜に収蔵されている。コマ数にして2万枚。その中から昭和30年代の暮らしと町の風景を紹介します。
(提供:文教の杜ながい/長井市/小口昭氏)

 
■田下駄 耕運機で代かきをし田下駄で均し田植えをしている 子供が手伝うため田植え休みがあった 


■共同炊事 農繁期のため豊田歌丸本郷地区では共同炊事がおこなわれた (昭和36年)

 

■託児所訪問 農繁期のため季節託児所を開設 市長さんがキャラメルをもって慰問にやってきた (昭和36年)

 

■木炭の出荷 暖房や炊事の燃料は薪炭が主だった これは炭の等級分けをしているところ

 

■造花づくり 致芳森地区では冬になると木で造花を作った 彼岸や盆の墓参りなどに手向けるのに使われた


■米の出荷 農協に集められた米俵 耕運機はその名のとおり耕したり運んだりと大活躍

 

■冬の堆肥運搬 雪消しの春が近づく頃堆肥運搬が始まる 屋敷の肥塚から牛橇で運ばれた  手伝いだろうか学生服の子供が一生懸命だ

 

■活字拾い 新聞書籍雑誌の文字は活版といわれる活字印刷だった しかしここ十数年活字は消えた


■金井神の箒づくり 一本一本が手づくりのこの作業は冬仕事 丈夫で長持ちが自慢とのこと (昭和35年頃)

 

■市章誕生 合併以来永年市章が無かったことから 長沼孝三氏が「私がつくってあげよう」と・・・・ (昭和38年10月)

 

■消防演習 長井小学校校庭での消防演習 脚半はなかなお目にかかれなくなった  左の建物は第一体操場  


■移動健康診断 無医地区診療として検診車がやってきた バスへは桟橋を渡って乗り降り 

 

■健康家庭表彰式 駅前の映画館を貸しきっての表彰式 健康優良児の赤ちゃんが表彰された時代 (昭和33年)


■木地山ダム完成祝賀会 野川第二発電所の完成ともに開催 会場は長井中学校体育館 (昭和36年10月)

 

■広報板 各地に広報板が設置された それまでは板塀電柱など そこかしこにビラを貼る慣わしだった


■選挙広報車 選挙で投票を呼びかける宣伝カー 椅子がのっているが横断幕がたれないよう引っ張っている


■市役所移動相談 電話や車の普及も進んでいない 担当者が地域を回って相談を受けた (昭和38年)


■NHK夏季移動相談 当時のラジオは数少ない娯楽の一つ うたのおばさん松田トシのステージ (昭和31年)


■春の売り出し 道路は乾いているのにみんな長靴をはいている 町中以外はまだ雪が (昭和35年)


■幼年クラブ 本屋の店前 この雑誌は大正14年講談社から刊行さ昭和33年3月で終刊したという


■大八車 行商でしょうかリヤカーの一つ昔の運搬車 ソリや荷車を専門に作る大工さんがいた


■入学式 晴れて一年生 ランドセルのほかにズック入れというのがあった 胸には大きな名札が  奥の建物は長井保健所 (昭和33年4月4日)


■子ども会 豊田羽黒公民館で日頃お世話になった親を招き 劇や踊りで感謝する会が開かれた (昭和36年3月)


■舟場の奴振り 小出皇大神社の祭礼に奉納 舟運でいろんな文化も移入された

 

■パレード この時代祝賀パレードや仮装行列が盛んに行われた 中央十字路

 

■公益質屋 急なお金を用立てるための衣類や貴金属など 質入するところがあった (昭和35年12月)

 

■唐傘の寄贈 森分校に傘が寄贈された 傘には持ち主とかの文字が大きく墨書きされていた (昭和35年10月)

 

■桂谷分校 野川ダムの西にあった分校 林業木地師などを業としていた (昭和37年)

 

■写真展示 中央公民館(旧郡会議事堂)で芸術祭が開催された 天井が高い (昭和39年)

 

■芸術祭 長井文化協会の公演部門の発表会 譜面を懐中電灯で照らしている 長井小学校体操場 (昭和36年11月)

 

■横森スキー場 初めてスキー大会が開かれた八ヶ森(5年前)よりスタイルも洗練されてきた   ロープ塔なんてものはまだない  (昭和36年)

 

■つつじ公園 遠くでバレーボール大会が開かれている 当時催事には貴重な広場だった 中央の建物は演芸館  その東に弓道場があった  (昭和31年5月)

 

■交通整理 中央十字路で水道工事だろうか 後ろには山形交通のバスの運転手が

 

■ゴミ箱 木製のゴミ箱が作られた これから各地区へ配られるところ 野川辺にゴミ焼却炉が 


■早春水郷の景 雲雀が鳴きこれから新緑を迎える 好い季節どこにでもあった風景だが

2013.07.09:n-old:[歴史的建造物]

長井市 広報マンが写した半世紀2

  • 長井市 広報マンが写した半世紀2
 昭和291115日、長井市が誕生した。往時の広報マンが記録した写真が、ここ文教の杜に収蔵されている。コマ数にして2万枚。その中から昭和30年代の暮らしと町の風景を紹介します。
(提供:文教の杜ながい/長井市/小口昭氏)

 
■市役所前の舗装工事 工事の手袋がすごい 遠く長井小校庭に2年前に建った「慈愛像」が見える (昭和34年秋)


■米の供出 長井駅前の農協で 今ではめったにお目にかかれない米俵 収穫の喜びが伝わってくる


■秋の交通安全 長井小学校児童の鼓笛隊パレード (昭和36年10月13日)


■秋の交通安全パレード 児童の下校時間に合わせたものか多くの子供たちが写っている (昭和36年10月13日)


■中央十字路 自家用車は庶民にはほど遠く もっぱら自転車が庶民の足だった 時間は昼時か (昭和35年)


■レコード屋さん 駅前のレコード屋さんの店前 33回転のLPレコードが普及してきた頃だ (昭和36年頃)


■駅前の売り出し 旧暦の正月 駅前の売り出しの様子 天幕を張った出店が並んでいる ひとごみがすごい


■中央十字路から 駅前方面を望む 左の鉄塔は電柱 十字路にあり縦横に張られた電線の接触を防ぐため高くしたものか


■中央十字路の様子 中央十字路を往来するバス 右手のバスはエンジンが車体の前にあるボンネットバスだ (昭和35年頃)


■歓迎アーチ 駅前に ネオンサインがまばゆかった 酒の銘柄はなぜか市外のものばかり 中央上部には市章のかわりに6地区を表す〇を6個あわせたデザイン そのなかに長の文字 市章が制作されたのが昭和38年で長沼孝三作 (昭和35年)


■歓迎アーチ表側 駅のほうから見たアーチ こちら側には地元の銘柄が


■消防大会 駅前通りで市の消防大会が開かれた 左手の電信柱には作業用の足場がついている (昭和36年5月7日)


■分列行進 駅前での第11回山形県消防大会分列行進の様子 (昭和35年6月26日)


■キャラバンカー 中央十字路で山交のニュースカー「うぐいす号」を仕立て あやめ祭りの宣伝をしている 屋根には大きなスピーカー (昭和33年)


■昼前の中央十字路 道路が広く見える 小さく「うぐいす号」が写っている (昭和33年)


■声援 長井中学校の生徒が大会旗を持って走っている 沿道の人が声援をおくっている (昭和32年頃)


■中央十字路 夏の風景 影の位置から真昼に近い バスの前に風を入れる窓がついている (昭和33年頃)


■山ほどのおかず 30円で山ほどのおかずが買えると書いてある 当時の米価で換算すると約120円くらい (昭和33年頃)


■消防署から 消防署の火の見櫓から中央十字路を見下ろす 季節は冬だが雪は少ない
 

■駐禁の標識 昭和36年4月1日から駐車禁止となった本町通り 標識に英語が見えるが戦後進駐軍がいたことのなごり

 
■横断幕 本町通りに春の交通安全の横断幕 人は右車は左だけどちょっとバラバラ (昭和35年4月)


■中央十字路から北 ハンドバックもって 現在のあやめ交番の前付近から撮る (昭和31年頃)


■夕暮れどき 本町通り この時間帯は自動車はほとんど走っていない (昭和33年頃)


■点滅信号機 館町南の点滅信号機  珍しく乗用車が写っている (昭和33年頃)


■あら町通り 新庁舎落成記念で自衛隊のブラスバンドの街頭行進 (昭和33年11月4日)


■あら町 薬師寺前につつじ公園入口の歓迎アーチが作られた (昭和31年頃)


■コンクール 警察署前で案山子コンクール(栄町) おかぁさん下駄を履いてこの自転車に乗るとは 


■県都市訪問縦断 現在の県縦断駅伝の前身 栄町をスタート (昭和31年5月20日)


■地区駅伝 県都市訪問縦断と同じ場所 消防署の火の見櫓が見える (昭和35年9月23日)


■十日町郵便局 三角屋根で目印になる建物だった 昭和61年頃道路拡張のため北に移転した (昭和30年頃)


■雪割り除雪 春になると地区民総出で道路の雪を割りトラックで排雪した (昭和36年3月6日)


■稚児行列 脇を歩くのは親御さんのようだ 少年の表情が神妙だが何か訳がありそう 栄町


■道路でマリつき 自転車が道の真ん中を走っている 道路にセンターラインが無い この写真は市報で交通ルールを守ろうキャンペーンで使用  人は右車は左を一生懸命PRした時代 (昭和35年)


■バスの前 市民の足はもっぱら自転車とバス それにしてもゆったりしたものです 中央十字路(昭和35年頃)


■ほっと 雪割除雪 向こうに排泄してくれるトラックが待機している 十日町末広通り (昭和36年3月6日)

 
 
2013.07.08:n-old:[歴史的建造物]

町屋のくらし

  • 町屋のくらし
 山形県長井市。その昔は商業の興りから発展したまちだ。小桜舘や白山舘はあったが、それぞれの時代では軍事的な拠点としてではなく遍照寺の存在から発展した。約五百年前、店が出来始める。
 どのようにして町屋ができたのか、丸大扇屋のなりたち、往時の生活等、のぞいてみよう。


宮村の店の始まり この宮に少し店が建って商売も行われるようになったのはいつか? ということになりますと、だいたいその年代は大永年間、1523年頃から出始めた。いったいどのような形で店が興るのかというと、履物は藁で作り、雨具は藁で箕などを作る。笠も菅で作るというような、自給自足の生活でしたから、それほど店は必要としなかったようです。
  だんだんと世の中が開けてくると、自家用品だけでは間に合わなくなり、しかも京都のすすんだ生活の様子が、風のたよりに伝わってくると、資産を持っている人は金を出し・・・・・。何が始まったかというと、宮のお祭りが九月十九日。その頃は十七、十八、十九日でしたが、それをきっかけにして約1ヶ月間、宮で市が開かれたのです。ちょうど風間書店の通り辺りでした。その頃、両側に
「坊」が六つありました。風間書店の北の後ろに茅屋根の建物がありましたが、あのような建物が六棟ほどありました。


桜の木の陰にひっそりと佇む  もともとは安部印房さん宅の前にあった


当時 市が開かれていた 現在の道とほぼ同じ

  
            
現在のまちなみ  奥に遍照寺がある

  「坊」というのは坊さんが修行して泊まったり、参詣に来た人が泊まったりしていた所だったのです。 そこで1ヶ月間、市が開かれる。農家では臼を作ったり、はしごを作ったり、日常生活で必要な道具を安く売り出すわけで、あるいは米なども出たし、小さい農家は一年分の米は作れなかったから、そこで米を買った、ということです。 その市は一年に一度だったが、それから定期的になり、例えば一の日というと、五日、十五日、二十五日と月3回行われました。それは三齋市などといわれ、その当時、十日、二十日、三十日に開かれたから、十日町の名前が付いたのではと思われます。

  それはずっと続いて江戸時代まで行われましたが、だんだん専門店ができ、店が建つようになりました。
  上杉景勝が慶長六年(1601)ここに来た時、それぞれの部落の店のあるところを、書き上げさせており、宮村家業の数、という文章があるんですが、それを順序取り替えて整理してあるのがこの表ですが、他屋(たや)というのは質屋さんのことでした。
  絹とか青苧の問屋がありまして、大きな店というのが上段にあげたつもりです。酒屋、玄穀屋というのは、米屋のことです。中以下の小さい店というのは二段目にあげましたが、次に蝋燭、鬢付、菓子、八百屋、酒小売です。
  次は魚屋、干物屋でしょう。飴屋、豆腐屋、饂飩屋。これらの店は、店の形はあったけれどもだいたい自分の家で品物を加工し、あるいは集めて売る。そんなに数が売れるわけではないですから小さいのです。
  だいたい半商半農。暇なときに百姓して、晩方頃、人が買いにくると奥の方からのそのそと出て来て売る。という程度でした。だいたい六反百姓だったから、やっと自家で食べる分とちょっととれる程度でした。
  職人がその次であって、油〆、塗師、漆ですね。鍛冶屋、綿打ちというのは、今の綿じゃなくて青苧綿で、木の皮を柔らかくする綿打ちで。石切り屋、染屋、桶屋、たがやもいますけれども。「番太」というのは別枠にしてありますが、自治警察署と思っていただいてけっこうです。そのほか、伯楽、これはばくろう。浴屋というのは風呂屋のこと。医師、仏師、神主、巫女、座頭は目が見えない人、遊女、揚屋(あげや)とありますが、揚屋というのは、遊女を派遣するところで、宮もちょっとした町であり、米沢の次くらいの町だったと思います。この間、ご年輩の方と色々お話をして、「揚屋さん、女郎やさんなんてどこにあったんだ」なんて話をして。明治五年頃まで大町にありました。それが明治になり、きびしくなって町中にそういうものがあってはうまくないということで、東町の川原に集められたということです。

 
宮村家業の数
他屋(質屋)三
絹糸問屋  二
苧問屋   三
酒造家   九
玄穀屋   五
蝋燭鬢付  一
菓子屋   二
八百屋   六
酒店    四
魚屋    四
飴屋    四
豆腐屋   七
饂飩屋   三
油〆    四
塗師    四
鍛冶    四
綿打    八
石切    一
染屋    五
桶屋    三

 
伯楽    一
浴室    一
医師    一
神職    三
巫女    一
座頭    一
遊女   一三
揚屋    三
番太    一
 

屋台の出た鎮守の祭
 それまでの室町の時代、伊達の時代というのは、例えばここに宮の舘がありますが、その人は専業軍人じゃなく、自分で十町分ぐらい耕しておって、余っているところ・・・。だいたい宮村を一つ納めると、一千石ぐらいの田圃があって、それを家来や小作に与えているわけですが、戦争が始まると、その主人だった人は、戦争に連れて行かれるが、自分も百姓してますから、田植時期になるとそちらの方が心配になって、戦争の気がなくなる。
  稲刈り時期も同じで、戦争がいやになる。ですから、川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信が七年の戦いでも、七年間戦い続けたわけじゃないですよ。農閑期、農業の忙しくない時だけ出て行って、にらみ合いして、だんだん秋の収穫時になるとやめて家に戻るという状態。それはどうしてかというと、敵も見方も半農半武士でしたから、お互いのふところ具合いと苦労がわかるから、それほど重い税金は取りませんでした。最高で三割だったようです。江戸時代のひどいときは、上杉は六割とりました。ですからそれに比べるとずっと軽いです。今の税金だって勤め人の方、三割取られてますよ。もしかするとそれ以上かもしれません。所得税から退職年金の積み立て金から、医療費の共済組合費から。おそらく三割を越すと思いますが。ですから三割というのはけっして高いわけではなく、昔なりに豊かなくらしをしておったと思います。 一年に一度の村祭にはあらゆるエネルギーを消費して祭をやったと思います。後に書きましたが、
    米沢宮村鎮守祭礼は久しきこと その初め知らざれども 宗任在国のころすでにそのことありて 三日月 
    灯籠漁船の御輿を出したることなりと 住人いえり 中世より 又七月十八日夜御輿小出村白山権現まで
    渡御(とぎょ)ありて 屋台と言うものを出す 
 ですから宮から本町を通って白山神社まで屋台が出た。これは「牛の涎(よだれ)」(長沼牛翁)にも書いてかりますが、いったいこの屋台はどんなものだったのだろうか。本当にあったかどうか長年気にしておったんです。が、後で詳しく説明しますが、実際あったんですね。

 今は長井では行われておりませんが、新庄とか花巻に長井のものと同じ屋台があります。人形の頭と手を借りて、歌舞伎とか物語の、例えば「五条の大橋の義経と弁慶の戦い」の場面を想定して作って、車に上げてやる屋台です。人形屋台です。これが行われたことがわかったわけです。


     人形具の貸出帳(文政五年  1822)

  次の文章にありますが、屋台を造るのに金と労力がかかります。今日、新町だけで屋台一台出す元気があるでしょうか。「本町地区で一つ屋台作ってこい」といわれて出せるでしょうか。なかなか出せないと思います。 この頃、屋台一台を頑張って出せたということは、相当生活にゆとりがあったということだろうと思います。その生活のゆとりの原因はなんだかというと、臼ヶ沢金山というのが蚕桑の奥にありますが、寺泉の奥でも伊達時代・慶長の頃まで金が相当採れていました。新町に金堀源三郎というものが住んでいましたが、奥州の半田銅山あたりで経験して来て金堀りの名人といわれ、このへんで指導していました。
  山から新町までしょっちゅう通っておったわけで、途中三、四人で寺泉かどうかわかりませんが、通りかかると百文落ちておったんですね。誰も拾わなかった。そこでおもしろいなあと思って、二百文だと拾うべかと百文足して様子をうかがったら、拾うどころか誰かがいたずらしたのか四百文になっておったということです。これはおもしろいと思って皆でかき集めて四百文に四百文足して八百文にしてみた。でも誰も拾うものがなかった。金がたくさん採れ、人の生活が豊かになると、これほど道徳にゆとりがでてくるものかと、ウーンとうなった。と金堀源三郎の話として載っておりましたが、そのような時代があったということですね。


長沼家の祖先
 それで丸大というのは、昔のことは伝説的でわかりませんが、飯豊町の椿に長沼さんの系統が関東から流れ流れて来たことはまちがいありません。 関東の武蔵七党の中に長沼という家があり、戦争の時代ですから、戦に負けたんでしょう。おそらく一族が伊豆とか北の方では会津とか椿に流れて、そのうちの一人、初代又右衛門という人が、1600年代に、慶長のちょっとあとになりますが、椿にいてもしかたがないからと、宮に来て商売でもして一旗挙げようかということで来たらしいです。 それが非常に運が良かったというか、元禄七年、1694年ですから、だいたい六、七十年経った頃、最上川が開通して宮に舟場ができ、昔の道は荒屋敷といって今の病院の通りですが、いろんな品物がどんどん入るようになり、時代の波に乗ったんでしょう。長沼家の商売が繁盛した一つの原因ですね。

創業当時の商品 
 最初、何を商っていたか、三代目忠兵衛の時、取扱商品を拾ってみると、むしろ・ござ・縄・みの・脚半・傘笠・きせる・煙草・矢立・蝋燭・膳椀。・米ぬか・紙・中折・刷毛・にがり。かみそり・糸、なんでも屋でした。しいて言えば荒物が多い、そういう店でした。生活必需品を主に売っていたようですが、それがだんだん最上川交通が盛んになると、長井商人には先見の目というか、気迫というか、非常に感覚的に鋭いものがありました。

幕末の営業内容
  元禄からしばらく経って、享保の頃になると上杉藩というのは貧乏するんです。なぜ貧乏したかというと、越後におったときは二百万石の殿様だったのが、秀吉にだまされて会津に移ってもまだ百二十万石の大名でした。
  関ヶ原の戦いで負けた方に味方しましたから、結局石田三成の方に味方したということで、取りつぶしになるところを、直江兼継の機転で、三十万石に減らされてとどまるのです。上杉景勝という人は非常に律儀な人で、家来に今まで百二十万石だったのに、今は米沢の三十万石になってしまった。今まで仕えてくれてありがたいが、もうここらで駄目だと思ったら見切りをつけて他へ仕えてくれ、と言ったが百二十万石の家来がぞろぞろと米沢について来たというんですから、これは困ったことです。 
  勧進代新地というのが今もあります。山口新地とか米沢にも猪苗代新地がありますが、とても皆に給料を払えなかったのです。そこで、道路を新しく切って間口割といって、4間半づつ仕切り、ここから開墾すれば、どこまでもおまえのものだといったんですね。百メートルも行けば山だったりするところですから、そんなに土地は広がらないわけです。 そんな苦労をして家来をかかえておったんですから、今でいえば使用人が多すぎて給料が払えない状態で最初から無理だったわけです。それに上級武士が、百二十万石時代の贅沢な生活から抜け切れなかったので、非常に困りました。
 
  上杉重定の時代の享和の頃になるとバンザイしてどうにもならなくなった。その時に、上杉鷹山が高鍋藩の五万石から迎えられたことになりますが、最初は苦労したようですね。貧乏殿様の息子が、昔百二十万石の殿様のことがわかるはずはない、と重臣たちは最初からなめてかかっていた。彼らを押さえて自分の政策を行うには、かなりの苦労があったようです。その時に政治改革をやって、副業を奨励しようとしました。上杉藩の偉い人の考える政策は非常に形式的で、桑百万本・漆百万本・楮(こうぞ)百万本・・・すべて百万本なんです。畑ではない山を開墾して植えさせろと。そして米以外の収入で借金を返そうというわけですが、その百万本ずつで結局一番主になるのは漆のみから蝋を採ってローソクを作ろうという考えです。それで十万石分の利益を上げようという考え方でいたようです。その当時、九州で櫨蠟(はぜろう)という、燃えたとき漆よりも黒鉛の上がらない良質の蠟が作られて、それで漆蠟はうまくなかったらしいのですが、そういう情報には全然おかまいなしだったようです。ところが長井商人や荒砥商人は漆にはあまり本気にならなかったようです。
  京都と取引しているので丹後とか大坂・京都で生糸が相当高い値段で売れるので、養蚕をやった方が儲かりそうだという話はちゃんとわかっていて、自分で農家に蚕種を無償で与えて、養蚕を奨励したそうです。農民がそれを実行してみるとお金になるので、田圃をつぶしても桑畑にするものが増えて藩では困ったため、取締まらければならなくなった。田圃一反歩から米四俵とって、五貫文にしならなかった。桑を植えて蚕をおいて生糸までにすると、十六貫文でだいたい三倍です。しかも桑畑は手入れするのにそれほど手間はいらないのが、田圃ですと肥料を蒔くとか、草取りをするとか、労力が大変だというので桑を植える気になった。文政十年(1827)には米沢藩の中で、殿様武士のお膝元米沢では、養蚕はなかなか発展せず、水田専門にやれといわれてやったが、それも発展しなかった。しかし、長井、白鷹では飛躍的に養蚕農家が増えるということになります。

  丸大扇屋も商売のかたわら、生糸と青苧の仲買をやっていた。だいたいどのくらいの取引かというと1711年(正徳年間)に取引証文を見ると、村山の青苧がいいというので、村山から青苧をまとめて買ってきている、売上の代金では七十両というわけです。その当時一両で米二俵半ですから、今のお金すると相当のお金ですね。最上と宮内近辺と吉野周辺からは、丸大では特に多く買ったらしいですね。だいたい二ヶ所が普通ですから、年間青苧だけで百五十両の取引です。青苧というのは生糸もそうですが、非常に危険なんですね。五代目忠兵衛の時の借金証文がありました。小千谷の野口三左衛門から三百両の借金を背負うことになる。青苧を仕入れるため、小千谷の大きな店から前渡金というので、これだけ買って来いということでお金を借りるんだと思います。その前渡金の半分位村山の取引先とか、吉野の取引先とかにやるのではないでしょうか。ところが青苧が今年取れなかったからなんともならないと、言われると、丸大扇屋が結局責任負うことになって、差引残り三百両借金ということになりますね。これを返すのに、長沼家の六代目が非常に苦労したんですね。そんな時代でした。
  丸大の営業内容が六代目が三百両の金を返済する時の品物を見ると藁とか荒物類は一年間の売上賃出帳調べると五両ぐらいなんです。茶・煙草などの嗜好品に類するものが、0・五両。食品・食器類は七両二分。木綿・晒・ちぢみ・足袋等の反物呉服類が三十五両ですから。もうこの頃になると反物中心の取扱に完全に移っている気がします。


扇屋中興の祖 政盛 
 六代目忠兵衛政盛という人は中興の祖といわれていますが、なかなか学のあった人でした。その人の本を調べてみると「開平開立術聞書」という本があり、今で言うと中学校の三年くらいになるのか、高等学校に類するのか、例えば一つの例として茶碗の絵が描いてあって、茶碗のさし渡し三寸、深さ一寸五分何程入ると問う。といって、解法が細かく書いてあるというふうに、和算の勉強をしていました。ほかにもいろんな本が残っておりました。

倹約令で消えた祭り舞台 
 七代目に移りますが、先ほどの山車・屋台の話になりますが、七代目の天保の頃(1834)で、丸大に「人形具賃出帳」というのが出てきました。要点をまとめると、どこにどのくらい貸したかというのと、文化十年頃で借りている町は、新町・十日町・大町(大宿といいましたけれど)・川原町(境町、現在の栄町)・本町・あら町と六町内で一町内、一つずつ屋台を出しますから。いちいち場面転換するのに人形を買っていたんではたまらないから、丸大は五十年とか百年前から山形の人形師に人形の顔と大小さまざまな手をそろえて、お祭りの近くになると何々の人形貸して欲しいと借りに来るわけです。どんな頭がそろっておったかみると、
    大将頭(義家・秀吉・頼光)牛若丸・弁慶・菅丞相(惣髪は髪が長い)・悪人定繰九郎・巴御前・楚項羽・武内
    宿弥・武将頭(柴田勝家・佐久間玄丞・加藤清正)・老人白髪諸候頭・大小手足各種。

  歌舞伎の一場面とか物語の一場面で想定するので、これらを揃えておくと、秀吉の頭を別の名前にしても使えました。それで人形の手足、その他、刀の大小とか着物も丸大さんで作って貸し出ししていました。山の所は布で染めるとか、滝の所も花をあちこち飾る、そういう格好にすればいいのです。一回の貸出料が多い時で八百文、少ない時に四百文ということでした。 
  それから一般の町屋の生活に関わるんですが、天保の頃は飢饉が続いたんですね。1785年に宝暦の飢饉と大洪水・1785年に天明の飢饉・1835年に天保の飢饉とたくさん飢饉が続くので、米沢藩では借金も返さなければならなく、また「かてもの集」を出して、山菜、木の皮の食べ方を説明し、なおかつ、「大倹令」というのを出した。細く説明できませんが、何か大事な行事をするときや、結婚式や式のときも一汁一菜だということ。酒は一杯。着物は柄物の色のついたものは着るな。できるだけ古手で間に合わせろ。飲酒禁煙の制限で、祭・結婚式・葬式でも酒は二合以下だと。ぜいたく品の禁止として鼈甲(べっこう)製の櫛・から傘・日傘・下駄・足駄は履くな。芸能娯楽の制限で屋台・獅子踊り・神楽を普段の平服でやりなさい、ということでした。念佛踊りのときにはあのきれいな着物ではだめで、縞の着物にたちつけをはいてやれというんですから、おもしろくないというのでだんだん廃れてきたわけです。いくつかの例をあげてみます。 

  大石の祭りで神楽を上演しました。山の中だから見つからないでしょうと考えました。確かに大石では見つかりませんでした。でも上伊佐沢の神社でお祭りがあったとき、役人に見つけられ、罰せられました。肝煎も責任上処罰されました。 西大塚で女の子が、花柄の着物を着たところが、横目(監視する人)に見つかり親意図・肝煎・娘、皆罰せられました。獅子踊り・念佛踊りも平服(縞の着物にたちつけ)で行うように代官から指示があった。それで、おもしろくないというので、だんだん廃れてきたわけです。 人形貸出の記録を整理していくと何回禁止されたかというとのがよくわかります。
   文政四年に郡中洪水あり、屋台休み。
   文政五年、天徳院様御病気につき屋台休み。
   文政八年、米沢御城下大火につき屋台休み。
   文政九・十・十一年、紅葉山御普請(幕府の江戸の城の紅葉山のこと)手伝いで大倹令発令屋台休み。
   天保二年、七月松川洪水のため屋台禁止。
   天保四・五・八・九年、飢饉につき祭礼・屋台一切休み。

  18年間に十三回休み。だいたいこの頃から廃れはじめて、屋台も、念佛踊りもこの地方から消え失せた。そして、明治以後、やっと念佛踊りや獅子踊り、舟場の奴振りも復活しました。江戸時代の後半はそういう時代だったようです。


質素だった日常生活
 いよいよ町屋のくらしの話になりますが、私も小学校に入る前まで、長井の播磨屋で生活しましたから、ダンナシ(金持ち)の生活というのは解っていますが、金持ちほどケチというか粗末なものでした。警察官とか中学校の先生とかの子供のほうがずっと食べ物も良く、いい洋服を着ていました。うらやましく思いました。弁当は日の丸弁当や納豆味噌の弁当でした。それがダンナシの生活でした。それぐらいケチらないと貯まらなかったんじゃないでしょうか。月給とりの人の生活の方がずっと良かったと思います。丸大扇屋の生活を調べてみると、どこの家もパターンは同じようでした。今の長沼孝三先生(平成5年没)の彫塑館が建っている所も野菜畑でした。どこの家でも後ろは野菜畑にしていました。まわりの土地を貸していましたから、だんだん狭くなったと思いますが、生活に不自由しないように大豆・キュウリ・ダイコン・ナス・ウリは家で作りました。 
  少し金が貯まると味噌蔵を造って、大きな樽に味噌を作って、食べるのが三年味噌、底の方にナス・キュウリ・ウリを味噌漬けにしておかずにする。醤油なんて口にしたことはなかった。味噌漬けにした後に味噌に水分がういてたまるのをたまりとして醤油のかわりに食べていたようです。一汁一菜でした。おそらく旦那さんは茶の間でちゃんとしたお膳で食べたでしょうが、奥さん以下長男もみんな台所で食べていたと思います。お膳は旦那さんとは別で黒い小振りのお膳でした。茶碗やそのほか一揃いついていて、ご飯を食べ終えると、お汁にお湯を注いでかき回して全部飲み干す。そんな事が記憶に新しいです。鯉は自家用で飼っていて、お盆とか正月には鯉の甘煮を食べたものです。めったに食べられないものでした。
 

 旦那さんが一人で食事を茶の間でとっていた

旦那さん以外は台所で食事を

池 台所から流れてくる残飯が鯉の餌だった

  丸大屋敷では、内蔵と味噌蔵は古いものですが、文政元(1818)年に自分の家の失火で店・母屋を焼いています。それでも店はすぐ再建しました。これが金を儲ける人の根性だと思います。しかし、明治二十三年まで母屋は仮住まいでした。風間さんからお婿さんを貰う時になって、ようやく母屋を建てたのです。金を蓄えた。商売人の考え方が一般人とそのぐらい違うんです。 
  飢饉が続いて商売の利益が少ない時、生活費をきりつめ、借金を返すことをまず第一とし、商品を仕入れて儲けるために売ることを第一とします。商売上の利潤を商品だけに再投資するのじゃなく、幕末からは土地に投資していたようです。収入の半分くらいは、土地に投資していました。地主というのはいい商売だったようです。その当時、一反歩から四俵採れると、二俵小作米があがりました。百姓の年収の半分がただで入ってくるんです。こんなにいい商売はないですね。播磨屋さんは田圃の収入を上げるために、寺泉とか勧進代とか鮎貝、平野とかの周辺部のなるべく安い土地を買った。 

  丸大扇屋は町の真ん中の畑・田圃を買った。それが、明治から大正になると畑・田圃が住宅地不足のために宅地化された。そうすると、「反」なんぼのものが、「坪」なんぼですから、こんなにいい儲けはない。頭が良かったんですね。長井の金持ちは次々倒産している場合が多い中で、丸大さんは着実に資産を伸ばしました。あら町の丸川さんは当時、米沢一の金持ちだと言われながら、戦前に倒産しています。山五さんは長井では丸川さんに次ぐ大金持ちだったのですが、倒産しています。それは水田からの小作料で収入を得、生糸相場に手を出した人はだいだい失敗しています。アメリカの生糸相場に左右されたんですね。蚕も運の虫だと言われました。丸大扇屋でも明治の初め頃には五月の初めから六月にかけて、畳を全部はがして蚕を置いただろうといわれています。 どれだけの節約をしたか、大福帳を拾ってみました。文政六年のを見ると、娘のきんさんの結婚式の七つ目のお祝いというのがありまして、調べてみたのですが、餅米一斗蒸かしてるんです。お客様は仲人のおつるさん、丸中のおこと、おさん、小松からおようさん、向かいのおこんさん、伊左衛門隠居と六人が呼ばれました。お膳についたものは、にしん汁、にしんの平(平たいどんぶり)、にごり酒とお蒸かし。今考えると実に質素です。引物は仲左衛門さんに酒三盃とふかし二重。仲人の清左衛門さんに豆腐二丁と蒸かし一重。千松、伊左衛門、清助と続きます。これは山清さんと比べてみても質素な気がしました。 
  天明五年、忠兵衛さんが死んだ時のお見舞いを調べてみると、最高が四百文で最低が五十文とか蝋燭五丁です。六貫二百六十文で米百五十キロですから、四百文というと米にして十キロ。今のお金でだいたい4,000円くらいですか。最高のお見舞いで4,000円くらいですね。今親戚だお20,000円とか50,000円とか多いですね。寺の支払いはいくらかというと、摂取院・遍照寺で一貫百文のお布施、礼返しが二百三十文。一貫百文は米で三十キロ。10,000円くらいでしょうか。今と比べものにならないくらいですね。この当時の中級のお金持ちの付き合いというのはこの程度だったようです。 
  天保五年の家族構成をみますと、家族十二人。召使二人で、まだ店の番頭はこの頃使っていなかったようです。また、伊佐沢の鈴木重信さんの祖先で鈴木光里さんの娘、とくという人が天保五年に嫁入りするんですが、その時の嫁入り道具の一覧表があります。金目の品物だけ拾っても、鼈甲のかんざし、こうがい、象牙、ギヤマンのかんざし、紅粉、傘、下駄、足駄、日傘などです。見せびらかすのではなく、タンスや長持ちの中にそっと入れて、見つからないようにしましたが、もっと上級な家などは商人の力が強くなって、殿様の言うことなんか誰も聞かなかったようです。


天保五年の家族構成
父       又左衛門    七二
母                 六八
主      長沼忠兵衛  四二
妻                四三
弟       林四郎      二八
娘           つね        二二
娘               りう         一六
子               米吉        一三
子               大助          八
娘               よそ           四
召仕         六左衛門      三四
召仕             庄蔵           二一
                     (計男七人 女五人)
 

趣味としての俳諧 
 ここでずいぶん俳諧が流行して、竹田太橘(たいきつ)さんとか、川崎玄子(げんし)さんとか有名な方が出ましたが、七代目忠兵衛政成さんという人も老後隠居してから俳句をたしなんでおり、「好茶園」という名前で句を詠んでいました。それだけではなく、「百歌述解」とか「幕末世情之事」なんか丹念に書いた本があります。アメリカがやって来てこうなったとか、幕府がこういう条件で条約を結んだとか、桜田門でこうなったとか、結構このころの時代の人は、世の中の動きに関心が深くて、すべて記録していたようです。商売だけで何も知らないというような時代ではなかったようです。「籍懐玉」という本は彼の俳句を丹念に綴ったものですが、その当時の事情なんかも書いてあります。その一部を載せてありますが、「嘉永六子の年、大早、地をからし赤土のごとく稲苗なし。七月十二日初めて大雨降る。」   
    ゆるゆると 民和らぎし きょうの雨   
    きのうきょう 枯野と見しが きょうの雨   
    老いの身と なりても梅の花匂う  
    梅の香に ゆかしき恵の ひざしかな                 
                           兎園

 友達の兎園という人が遊びに来て一緒に詠んだのだろうと思われます。兎園は宮におったお医者さんですが、子孫は台町の齋藤孝太郎さんです。骨董屋の兎園堂というのが屋号なのですが、先祖の俳句の雅号なのでそういう名前をつけたようです。七代目忠兵衛もこういっていいます。
  「俳句にのめりこみ、家産を失う程のことでなく、余技として楽しむべきだ」とちゃんと心得ていたのです。この時代、俳句にのめりこんで家産をなくしたという人が多いんです。竹田太橘さんは大きな米屋でした、四十過ぎてから子供に家業を譲って、自分が前から好きだった俳句を勉強するために、江戸まで何回も行っています。俳句で家をつぶす程かなり一生懸命だったようです。山清さんの家でも左琴という俳句読みの方がおりますが、家産を失う程のことはなかった。あくまでも趣味、余技として行った。 
  丸大扇屋が本当に経済的に良くなったのは明治五年以後です。けっして贅沢はやっておりませんでした。一番に一生懸命紬を織って売った。自分の家でやるのではなく、新町の農家の人に生糸を与えて賃織りさせていたのですが、三十四年から四十年あたりにかけて、大阪とか東京の品評会あたりに盛んに出しておりました。


最上川舟運の名残

車箪笥には証文など重要なものを入れていた

 火事についても二回くらい焼けており、車箪笥は火災のときのためのものです。着物を入れておくのではなく、金を貸した証文とか重要書類を入れておくものです。綱がついてありますがぐいぐい引っ張って出したものです。
 丸大扇屋の仏壇に嘉永五年と書いてありますが、最上川を通して大阪から買ったのでしょうか。大変いい仏壇です。前の庭にある燈籠は、雲州燈籠といいまして、雲州ですから出雲の国、今の島根県で作られたものです。大阪から瀬戸内海を通って下関を通り新潟から酒田に来る船が千石船といいますが、今のトン数でいうと150トンくらいの木造船でした。昔佐渡に行くおけさ丸が600トンで揺れることがありますが、その四分の一の大きさでした。空になると浮き上がって危険なので、帰りの船に積むものがないと石とか塩とかたくさん仕入れて重石のかわりにして持ってきたのを安く売ったようです。その意味で雲州燈籠というのはこの辺に多いんだろうと思います。
  丸大扇屋が、明治以後水田を貸家として貸せるようになり、その数は四十数件に上り、家賃も相当なものでした。家賃や小作料を納めに来ても、台所で用を足すというのがその頃の格式でした。地主であり、大商人であり随分格式の高い家だったようですが、生活は非常に慎ましやかな家でした。

嘉永五年  大坂から買ったと考えられている


雲州燈籠  四基あるうちの一つ

長沼市太郎 
  長沼市太郎さんという最後の代の方は、昭和二十年に亡くなられ、大変な文化人でした。私とよくおつき合いいただきました。私は後輩で、名前も同じでしたので、かわいがっていただきました。郷土史に関心があり、「金剛会文庫」を一集から三集まで出して、「牛の涎」などの古書の中の郷土に関する文を全部活字に著しました。
  「金剛会」という謡の会を開いて若い人の精神修養のために役立てたり、非常に人望が厚い人でした。また、生真面目な方で、戦争に協力する団体(大政翼賛会)でも上の方にまつり上げられていましたが、本当はいやだったようですね。戦争がひどくなると、統制で店の方も閉めなければならなくなり、自分が組合長の立場では、最後まで店を開けているわけにもいかずに、いろいろ気苦労が多かったようです。 
  その後もばあちゃんがちゃんと商売をなされましたが、亡くなられ無住となりました。それで、割合昔の姿が保たれておった。後に、土地、屋敷を市に寄付されたことは大変ありがたい文化遺産といえるでしょう。

置賜の典型的な店屋造り 

  屋敷の建物の配置は、道路に面して店、店蔵、その間に出入りする小間屋門、雪国のように雪よけのために上越市の高田では「雁木(がんぎ)」といっていますが、雪が積もるとだんだん戸板を重ねて行き、雪が入らないようにしました。家財道具をしまう内蔵があり、味噌蔵があり、小作米や籾をしまう納屋があり、屋敷内に畑があるというようなかたちですね。長井、西置賜の家の配列は店の方から取り継ぎがあって座敷・茶の間・台所と模式的なんですね。しかも台所に汲み上げ井戸が残っており、流しは入水をいれて使っていたのが今も残っている。
 
ダイドコ 奥に流しがある

 
風呂場

   
                           
右奥が上段の間 手前が二の間

 
小間屋門をくぐると母屋に通ずる
 
  明治期の長井の代表的な建物というのは、ここ丸大扇屋と山清さんと岩城屋さんしかなくなりました。若い人の代になり、建て替えをしてしまうので、市にでも寄付していただかなかったら、江戸末から明治にかけての代表的な店屋の構造を持った建物は残らなかったのではないかと思います。
  一昨年、ギャラリーの旅行で妻籠・馬籠をみてきましたが、見事に昔の建物が残っておりました。電柱も地下埋設していました。その時思い出したことですが、山清さん、山一さんの工場・母屋・山一お茶屋さん、川崎八郎衛門さんと山清さんの一角ですが、江戸時代そのままです。おそらく現在、人が住んでいるのでそのまま残ることはないと思います。若い人の代になるとおそらく無くなるだろうと思います。山一お茶屋さんの旦那さんは、こだわって昔のものを残そうとしていますが、そういう人はわずかだろうと思います。

あら町に残る町屋  山清  現在はやませ蔵美術館として入館することができる


山清の南側に位置する山一醤油  奥に醸造蔵がある


山清の道路向かいには山一お茶屋が

  丸大扇屋はこのようなかたちで残りました。もし、お孫さんが夏休みに帰ってきた時など一緒に連れて来ていただいて、昔炉端で生活したことや、井戸水をこうして汲み上げて生活した話をなさったり、茅葺屋根は以外に涼しいとか、昔の住まいというのは、わりあい自然の気候を活かしながら、うまくやってきた。というようなことを、想いおこしていただければと思います。昔のたたずまい、昔の暮らしを偲んでもらいたいと思います。
(竹田市太郎 山形県文化財保護指導委員/長井市文化財調査会会長 平成9年公開記念講演より)
2013.07.04:n-old:[歴史的建造物]

丸大扇屋  建物物語

  • 丸大扇屋  建物物語
丸大扇屋 建物物語
 丸大扇屋は300年前から代々呉服商を営んだ商家です。長井は京都や大坂との舟運による交易で栄えました。昔の町屋の様子は、時代と共に変わり、当時の姿を残しているところは大変少なくなりました。そんな中、幕末から明治、大正にかけての昔の様子を残す丸大扇屋は、貴重なものとして平成3年、市の文化財に指定され改修工事を行い、平成15年には県指定の文化財となりました。
ここでは、それぞれの建造物について概要を案内します。
(資料提供:文教の杜ながい)

店①  嘉永元年(1848)の棟札(むなふだ)が残っている。この棟札は、建物を造営するときに、おはらいのために記したもので、板の札に建造年号や棟梁(とうりょう)の名前などが記録されている貴重なもの。

 店は舟場から宮の町の中心部に通じる主要な道路に面している。別の記録には西暦1818年、店から出火して母屋まで類焼したとの記録がある。そのために建て替えられか、すでにどこかにあった建物を移転して使ったことも考えられる。
 平成の改修工事では、一部分が戦後ガレージに改造されたものを、店の様子を復元。全体を7cm嵩上げし、コンクリート瓦だった屋根を焼瓦に葺き替えた。


店の内部




店蔵②  嘉永元年(1848)の棟札が残っている。建造以来ほとんど改造していない。全体的に沈下が見られるが、強度、構造上に問題はないようだ。この建物は、商品の呉服類をしまっておく蔵だった。また、店と店蔵は隣接しているというスタイルは、他にも良く見られる。平成の工事では屋根のトタンを葺き替えた。

店蔵と店の間に母屋への入り口がある

 
 

母屋③  明治23年(1890)の建造と記録が残っている。囲炉裏(いろり)のある板の間は、建造当時は土間だったものを、数度にわたって板敷きにして、また裏縁はのちに増築したものだ。これらは、柱の傷や解体して調べてわかったものだ。天井裏の柱にその当時の大工さんの名前が書いてあり、新蔵を建てた棟梁の名前もあった。平成の改修工事では、できるだけ昔の姿に復元し、公開されている。




囲炉裏の奥に台所が見える


母屋の帳場箪笥と帳場格子


ダイドコ  入り水  


上段の間  欄間もすばらしい


内蔵④
  この蔵は棟札がなかったが、幕末の建造と思われる。おもに日常の生活に使う道具をしまっておいた蔵だ。平成の改修では西側に土台が15cm沈んでいたが、これ以上の沈下がないと思われるので、床だけを平に張り替えた。一階のみ展示室として公開している。

内蔵の外観

 

新蔵⑤  明治31年(1898)の建造で、四棟の蔵で一番新しい。一階は蔵座敷に、二階は書籍や家財道具の収蔵に使われていた。蔵のつくりも完成度が高くなった時代で、建造当時からほとんどくるいや傷みがなかった。構造材、床板、壁板はほとんどクリを使っている。一階は蔵座敷を復元、二階は展示室となっている。

新蔵の外観


味噌蔵⑥  天保3年(1832)の棟札がある。ここの蔵で一番古い年号。柱のほとんどが根継ぎ(腐った部分を新しい柱で継ぐこと)をされているので、この蔵もかつて大きな修理工事があったか、他から移転されたものと思われる。一階の北側は土間になっていて、味噌や醤油を作るところだった。南側と二階は農具などを入れておいたようである。現在は歴史史料の保管収蔵に使っている。

 中央が味噌蔵


東南からのぞむ
 

新座敷⑦  図では②⑤⑥の蔵の東側が、直線に並んでいるが明治の終わりごろに敷地を東に拡張した。そこに建てたのが離れの新座敷で大正2年(1913)の建造である。まるごと一つの山の木を吟味して、材料を集めたといわれている。床下も高く、空気が流れ建物を長持ちさせている。

 

長沼孝三彫塑館⑧  ここで生まれ、東京で活躍された彫刻家長沼孝三氏の作品を紹介する美術館で、平成4年(1992)に新しく建ったもの。まわりの歴史的な建造物になじむように外壁の素材を選んでいる。彫塑館が建つ前は、ここは畑だった。

 

籾み蔵⑨  籾(もみ)や藁(わら)などを入れておくもので、板蔵とも呼ばれている。建造年は不明だが、大正以降に解体移転して持ち込まれたものである。







 

2013.06.25:n-old:[歴史的建造物]

丸大扇屋物語

  • 丸大扇屋物語
丸大扇屋物語 
         
   舟運で栄えた長井そして幕末から明治にかけての京文化ただよう町屋のただずまい・・・・・。旧長井町の北部十日町で、古くから反物商を営んだ丸大扇屋の建物群が平成15年5月、県指定文化財となりました。町屋の歴史を年表と写真で紹介します。(資料提供:文教の杜ながい)
 
 丸大扇屋の建物が、平成15年5月9日、県の文化財に指定されました。古くは天保3年の年号が書かれた祈祷札(きとうふだ)が残る味噌蔵から、大正2年に建てられた新座敷まで全部で7棟です。指定に当たり建物を調査された東東北芸術工科大学の宮本長二郎教授は、「丸大扇屋は創立以来の由緒が明らかで、屋敷構えは大正3年以前の豪商の姿を伝え、その後の増改築が少ない点でとても珍しいものです。また母屋以下の各建物は、建設された近世・近代の各時期の先進的な様式技法を示し、伝統的な木造建築の近代化の課程を追うことができる点で、学術的に貴重で、意匠的にも優れている」と調査で述べています。

  これらの建物は、これからもふるさとの宝として、後世まで伝え、生涯学習やまちづくりに活かしていこうと思います。また、市内には市民運動で残ったものを含め歴史的建造物が多く残っています。これからもまちの顔として大切にしたいものです。


北口(風間書店側)から中に入ると、左に店蔵、右に店、前方右に母屋、正面にに新蔵(座敷蔵)があり、またたく間に時代を逆戻りしたかのようだ。


母屋正面の庭は、舟運でバラスト(舟を安定させるための底荷)代わりに積まれ運ばれた雲州(うんしゅう、島根県東部)灯篭が四基ある。庭の造りにも京文化の影響が随所に見られる。一番大きな石は、市内西根川原沢産の白い石で苦労して運んだ話が伝わる。



店と店蔵の間から屋敷に入る。間口が狭く奥行きが長い地割は京都風の影響だ。隣の新町、小出のあら町にも見られる。

 
味噌蔵は何度も修繕、あるいは材料が再利用された跡があり、棟の下の牛梁(うしばり)などの様式から18世紀までさかのぼるだろうと推測される。この建物は市内の古文書、歴史、教育資料を収蔵している。


母屋(おもや)の帳場箪笥(ちょうばだんす)と帳場格子(ちょうばごうし)、当時の家具や食器類もそのまま残っているのは貴重だと評価された。


母屋の前の雁木(がんぎ)造り、新潟県など雪国に多い構造だが、通りに面していないのは、珍しい。
 
 
丸大扇屋の

1640(寛永17年)このころ初代長沼忠兵衛が椿(現飯豊町)から宮へ出、店を構える。初めは荒物、紙など商う。
1694(元禄7年9最上川舟運、宮まで開通
1711(正徳元年)青苧、生糸、真綿を仲介
1757(宝暦7年)宝暦の大水
1764(明和元年)丸大扇屋と称する
1785(天明5年)天明の飢饉
1800(寛政12年)この頃から木綿、古手、糸、綿などを商う
1818(文政元年)店から出火、母屋も焼失
1832(天保3年)味噌蔵にこの年の年号が記された棟札が残る
1836(天保7年)天保の飢饉
1844(弘化元年)7代目忠兵衛宮村肝煎になる
1848(嘉永元年)店、店蔵にこの年の年号が記された棟札が残る
1862(文久2年)十日町に市神の石塔立つ
1889(明治22年)小出村と宮村が合併、長井町となる
1890(明治23年)第3回内国博覧会に長井紬出品
母屋を建造
1898(明治31年)新蔵を建造
1913(大正2年)新座敷を建造
1914(大正3年)赤湯・長井間鉄道開通
1920(大正9年)生糸織物株価大暴落
1930(昭和5年)世界恐慌日本に波及
1934(昭和9年)東北大冷害
1944(昭和19年)東京江戸川区の学童疎開受け入れる
1945(昭和20年)太平洋戦争敗戦
1954(昭和29年)長井市誕生
1988(昭和63年)丸大扇屋を市に寄贈
1990~1991(平成2~3年)全体の改修が行われる
1991(平成3年)丸大扇屋が市指定文化財に
1992(平成4年)長沼彫塑館開館
1995(平成7年)丸大扇屋資料館として公開
1997(平成9年)山形経済同友会から景観デザイン賞を受ける
2003(平成15年)丸大扇屋が県指定文化財に
 
2013.06.24:n-old:[歴史的建造物]