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長井の幕開け 最上川舟運7

  • 長井の幕開け 最上川舟運7

最上川舟運で、それぞれの舟場にどれほどの舟があったのだろうか。江戸時代の記録は残念ながらないが、明治初めのものが残っている。五十川村に18艘、成田村に17艘、小出村に51艘とある。宮村のデータはないが、小出村と同程度と考えられている。

宮舟場、小出舟場には、両村の舟のほかに村外からの上り舟、下り舟があり、常時数十艘もの船がへさきを並べていたであろうことが容易に想像できる。

最上川舟運は、米沢藩の廃藩(1869)によって上米蔵・上米輸送の機能は停止、以降民間で行われていたが、道路や橋梁の整備、そして、大正3年に開通する赤湯・長井間の軽便鉄道の開通によって終わりを告げた。長井における最上川舟運は黒滝開鑿の元禄7年に始まり大正3年に終焉、220年の歴史に幕を下ろすことになる。

 

大正3年に長井まで鉄道が開通  最上川舟運はここで終焉をむかえる

2016.01.20:n-old:[歴史的建造物]

長井の幕開け 最上川舟運6

  • 長井の幕開け 最上川舟運6

二人笠の続きである。

翌3月1日は、昨年来上米蔵に収納されていた上米を、下航する船に積み込む日であった。そこで収納米の検分のために行ってみると、5百俵に近い米俵があり、それを一俵ごとに改めていったために、検分を終えたのは春の日も西に傾く頃であった。宮船場よりの帰途、片倉が守っていたと伝える古城の跡を尋ねた。たまたま土地の者に遭ったので、その由来を尋ねたところ、「昔この城は、卯月(4月)のはしめに築初めて翌のとし卯月に成りけるゆへ、卯の花の城といへる」と語ってくれた。その場所は宮村にある青苧蔵の南側であると記し、さらに「国やぶれて山河あり、城春にして草青々たり、とは古翁のことは、歳さり歳きたれとも、跡取たつるわさもミへす、むなしき堀の跡に、なミたをそそく」と書き添えている。二流がみた卯の花城は堀跡で草が生い茂ってい様子が描かれている。

宮船場の後には荒砥の上米蔵も検分、長井に戻るが、成田村の佐々木宇考家での歌仙興行に加わり発句を詠み、ようやく米沢への帰途についた。

その時の情景が思い起こされて興味深い。

他に民間の舟場があり、泉・小出・成田にあったが、当時、小出・宮・成田三か村の財力を瓢箪に喩えていた。口のふくらみを小出、真ん中のくびれは宮、そして下のふくらみは成田と称されていた。財力豊かな商人が松川の交易に加わっていた。

2016.01.18:n-old:[歴史的建造物]

長井の幕開け 最上川舟運5

  • 長井の幕開け 最上川舟運5

宮船場は、どのようになっていたのか。

長井橋の南側、現在、記念板が建てられているところがそれである。米沢藩は陣屋と上米蔵3棟(梁間3間・桁間18間、54坪の藏が3棟)を建て、近在の村々から上納される上米や平米を収納し、時機を見て正部や左沢まで下した。船屋敷の敷地は1260坪。陣屋には始めのころ、藩の役人が二名派遣され常駐し、蔵守役として上米蔵の監理にも当たっていが、江戸後期には一人に。

江戸末期の絵図が残っている。文化11年(1814)に上米蔵が焼失しているが、翌12年に再建されたものの絵図と考えられているが、そこには上米蔵が27.5坪の蔵2棟と45坪の蔵1棟、それぞれの取次で結ばれ、取次には船にのせるとき用いる20坪の竹梁場がある。米以外の物品を納めたと考えられている15坪の蔵2棟も。ほかに、蔵守個人所有の土蔵付き家・小屋2棟・馬屋があった。

長井橋の北側には民間で用いられた船場があり、宮から荒砥への街道を結ぶ渡場も置かれていた。

江戸末期の上米蔵図

長井市立図書館に「ふたり笠」という本がある。下長井紀行文だが著者は米沢藩士で俳人でもある鈴木二流だが、文化8年(1811)に親友である山崎ひろしと訪れた時の紀行文が面白い。文化8年2月27日に米沢を立ち、宮船場の上米蔵行った。船の乗り始めのことや検分の様子が記述されているのだ。その内容は次のようである。

「2月27日に米沢を出立した二人は、同日、小松の金子家に止宿、28日には宮村の新野某の家に旅装を解いた。そして29日には宮より左沢に下る船の乗り始めで、賑やかな恒例行事があるので、是非席に加わるようにと蔵守の大河原、吉川の二人が言ってよこしたため、早速その座に連なった。最初にお神酒をいただいた後、多くの船頭達は互いに酒を酌み交わし、歌をうたい拍手をとり賑やかな酒宴となった。かくしていよいよ船の乗り始めとなる。人々の乗った船は松川の流れに棹さし、船の中にもまた酒の用意がなされ、四方の景色もすばらしく、実に興味深い一日であった」と記している。

※写真は長井市史より

2016.01.14:n-old:[歴史的建造物]

長井の幕開け 最上川舟運4

  • 長井の幕開け 最上川舟運4

長井に目を移してみよう。元禄7年(1694)に久左衛門が最上川五百川渓谷・黒滝を開鑿、以来、宮舟場は米沢藩にとって最も重要な輸出入物資の集積地となり、宮舟場をひかえた宮村と小出村は商人町として飛躍的な発展をとげていくこととなる。

米沢藩は、糠野目・宮・正部、左沢の四か所に船付場を開き、特に宮・正部・左沢の三か所には陣屋を設けて、役人を派遣し船荷の積みおろしの監視にあたらせた。国境の大瀬村にば番所を置いて、船の積み荷を改めさせている。

宮舟場からは、米穀・材木・蝋などの品物が輸出され、帰り船には塩・砂糖・古手物・いさば物・鉄などの必需品が輸入され、郷土にもたらされた。舟場ができることによって、多くの店ができ、まちなみが形成され繁栄していくことが想像できる。安政3年(1856年)に中山町長崎も八坂神社境内に石造の手洗鉢を奉納したが、その側面に12名の寄進者名が刻まれている。その中の8名が小出の商人であった。その名前は大和屋弥輔・同徳次・堺屋常吉・槌屋利兵衛・桔梗屋与五良・白銀屋幸三良・岩城屋喜兵衛・枡屋熊蔵。舟場ができることによって、多くの店ができ、賑わいを見せていたに違いない。

中山町八坂神社に奉納された手洗鉢  12名の寄進者の内8名が小出の商人だ

 

2016.01.12:n-old:[歴史的建造物]

長井の幕開け 最上川舟運3

  • 長井の幕開け 最上川舟運3

元禄7年9月(1694)、西村は米沢米一万三千七百俵の大量輸送を請け負うこことなるが、米は宮村から船積みされて酒田まで送られ、酒田から廻船にのせられて江戸に輸送された。宮村から酒田までの運賃は、米百石に対し「銀538匁6分」。酒田から江戸までの東廻り航路運賃は「銀780匁」、西廻り航路運賃は「銀1貫616匁4分」であった。久左衛門は、米の輸送だけでなく、江戸における一手販売までを請け負い、大きな利潤を上げていった。

 

小出村絵図 宮上米蔵  中央

 

米沢藩と久左衛門との間には輸送契約が取り交わされ、「領内の舟破損は藩の弁損、運賃は久左衛門の弁損」、「大瀬から酒田までの川通りの破船は一切を久左衛門が弁済」などとなっていた。

黒滝開鑿した元禄7年から15年後の宝永6年(1709)、久左衛門は最上川航行権はもとより船運に用いていた各所の倉や手船48艘、船具など一切を藩に没収される。その理由は明らかにされていない。1万7千両もの私財を投じた久左衛門の舟運事業は、たった15年で終焉を迎えた。以降、船運は藩直轄となっていく。

 

松川船運屏風 部分 上米御蔵

 

※写真はいずれも長井市史から

2016.01.07:n-old:[歴史的建造物]