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西置賜郡役所物語

  • 西置賜郡役所物語

 江戸から明治に変わり、世の中が急変した時代があった。その時代を象徴する建造物がこの郡役所である。山形県には11棟建てられたが、現在は6棟残っている。中でも、「西置賜郡役所」は県内で最も古く、全国でも2番目に古い建物である。
           (資料:山形工科短期大学校 小幡知之「旧西置賜郡役所の概要」、文協の杜)

 
江戸幕府から政権を引き継いだ明治政府は、中央集権による国家体制確立のため、中央及び地方の行政機構の整備を急ぎ、旧来の諸藩における行政機構を大きく改変した。山形県でも藩・県の統廃合、大区・小区制の採用を経て、郡の設置と郡役所の建築が行われた……。

  旧西置賜郡役所の歴史をたどってみよう。明治初頭、日本政府は全国に「県」を置き(廃藩置県)、現在の山形県はには山形・置賜・酒田の各県が置かれた。また、各県には大区・小区が置かれ、置賜県には六つの大区と28の小区が配された。その後明治9年8月、置賜県は山形県として合併、このとき大区・小区も再編された。現在の長井市の大部分が該当する第九大区小十区に区役所を設けることになったが、その建設費は、ほとんどを地元が拠出するというものであったため、建設位置を含めて各村の思惑が絡み合い、着工までには数年の時間を要することになった。
 明治11年7月、郡区町村編成法が発布されると、この長井市付近一帯(伊佐沢地区を除く)は西置賜郡に合併され、郡として役所を建設することとなった。そのため、この段階まで着工していなかった(着工寸前だった)第九大区小十区役所建設を郡役所建設に振り替えることとし、明治11年11月、県内の郡役所としては最も早く、西置賜郡役所が完成した。
 その後、明治22年4月施行の町村制を経て、大正12年4月の郡制廃止まで、隣接する郡会議事堂(明治22年新築、明治44年10月改築)とともに、西置賜郡の行政の中心となった。郡制廃止後は、山形県や国の様々な出先機関として使用されたが、昭和17年7月、西置賜地方事務所として使用が開始、昭和56年12月に西置賜合同庁舎(現置賜総合支庁西庁舎)が竣工すると、ようやく地方行政庁舎としての役目を終え、昭和57年4月、敷地とともに長井市に譲渡された。その後、昭和59年4月には建設省東北地方建設局(現国土交通省東北地方整備局)長井ダム工事事務所として使用されたが平成元年5月、同事務所が館町北地内に建設した新庁舎に移転した後、民俗資料等収蔵施設として教育施設に位置づけられた。
 昭和62年1月には、文教の杜構想策定委員会から市長に対し、歴史的建造物を活かした整備をするよう答申が行われた。市では平成8年3月、市指定文化財に指定、平成15年には第二期の修復工事、平成22年に第二期修復工事を経てオープンとなる。平成16年には愛称を公募し「小桜館」となる。

□明治2年  版籍奉還
□明治4年  廃藩置県
□明治5年  大区・小区制成立
□明治8年  山形県・鶴岡県・置賜県が併存
□明治9年  3県が合併、現在の山形県が成立
□明治11年  7月22日、郡区町村編成法公布。大区・小区制を廃し、代わる地方単位として新たに郡・区・町村を設定、郡には郡役所を置いた。

郡役所とは  当時の郡は、県と町村の中間の行政単位であり、郡役所は地方官僚機構の末端であって、県庁の統治下、主として町村の指導監督にあたった。
□明治11年  11月1日、山形県で県内を11郡に分ける布達。明治14年にかけて、各郡ごとに棟、合計11棟の郡役所を設置。
 全国には39棟(平成16年現在)の郡役所が現存。最も古い旧安積郡役所の明示7年建築。次が旧西置賜郡役所で明治11年建築である。全国の現存郡役所中、最初期のものである。
 
西置賜郡役所

建築年代 起工:明治11年7月4日以降  竣工:明治11年11月20日以前
○明治11年7月4日 第9大区の区務所を宮村に新築すると決定。
○明治11年11月1日 宮村に西置賜郡役所が設置されることとなる。

 宮村に建築される区務所が新たに郡役所と定められる。
○明治11年11月20日 新築落成・開所式の通達。

  西置賜郡役所は、当初第9大区区務所として計画されていたが、その後郡役所として建築される。工期は4ヶ月、建築費は4,518円であった。



建設当初の写真  菊地新学  山形県立図書館蔵
   
構造形式 
現状
・木造 一部二階建。一、二階とも寄棟造、トタン葺。明治初期洋風建築。一階桁行15間、梁間4.5間、建築面積69.6坪。
・外装  壁は下見板張り。一、二階とも隅に隅柱。軒周りにデンティル(歯状の装飾)、軒蛇腹。基礎は外周に布石基礎2段積み、床下は野面石に束立とし、基礎の上に土台。壁は大壁造。小屋組は一、二階とも真束小屋組。玄関周りは、石製ベースの上に大面取り角柱。窓は額縁付で、一ヵ所のみ上げ下げ窓が残っていた。二階正面中央の開口部にファンライト。玄関左方に庇付きの出入り口があり、庇の持ち送りに社寺風の意匠が取り入れられている。
・内装  床板張(斜め張り)。幅木。漆喰塗りの天井蛇腹。天井の一部に紙張りの跡が残り、紙張り天井であった。壁は、木摺(す)り下地漆喰塗壁。

古写真から(明治13年頃)

  • 屋根  桟瓦葺(さんかわらふき)。
  • 窓   全て上げ下げ窓。
  • 玄関ポーチ  桟瓦葺の庇が載って軒蛇腹とデンティル(歯状の装飾)を廻し、庇上部はベランダ。ポーチの柱間には水引虹梁(こうりょう・虹のように反りがある梁の一種)が架かり、虹梁には渦・若葉の絵様が彫られ、また虹梁鼻を木鼻風にしており、社寺建築の意匠を多用。
  • ファンライト  玄関上部、二階のベランダの二箇所。
  • 彩色  壁面・柱・額縁に彩色。柱・額縁の色は濃い。
  • 別棟  向かって左方に現存しない別棟。当該部分の現状は、南東隅柱に仕口跡。土台・布石基礎にも吹き込み。この部分の下見板張も明らかに後補。別棟が接続していたことが判明。

彩色

 

 

  • ペンキが何層にも重なっていることが判明。長期間に渡る塗り直しによるもの。
  • 彩色跡
  下見板張や内部階段の手摺り子、親柱などに群青に近い青色を検出。隅柱から茶色を検出。
 
西置賜郡役所の重要性

 

 

 

  • 山形県における郡役所建築は、その建築史上の研究価値はもちろん、明治期の政治史、文化史を研究する上でも重要な価値を有していて、山形県の明治初期の近代化を考える際、欠かせない存在。
  • 特に、西置賜郡役所は全国に現存する郡役所39棟中、建築年代が二番目に古く、県内に現存する四棟の中では建築年代が最も遡り、また、県内郡役所11棟の持つ建築的特徴と多くの共通点を有していて、明治初期の建築技術・意匠を知る上で重要である。また、県内11棟と比較して、社寺建築の意匠を多く採用している点が際立った特徴であり、県内での洋風建築の成立過程を検討する上で欠かせない存在である。

 

郡役所の変遷

明治41年発行の絵葉書


昭和29年11月15日(合併)以降。山形県電気局・山形県長井森林区事務所・山形県土木の表札がある。写真は合併後の議員記念集合写真


大正12年4月に長井土木出張所がおかれた 門柱頭部が変わっている

昭和57年まで地方事務所が使用していた


現在


郡役所細部

ポーチと2階部


ポーチ天井部


ポーチ柱間の水引紅梁(みずひきこうりょう)、紅梁には「渦・若葉」の絵様が彫られ、紅梁鼻を木鼻風にしており社寺建築の意匠を多様


玄関左の入口。庇(ひさし)の持ち送りに社寺風の意匠が取り込まれている


軒周りのデンティル(歯状の装飾)


ポーチ左から


ファンライト。玄関と2階ベランダに


石畳について

 

 

  • 平成19年4月18日、旧西置賜郡役所前方(東方)から石畳が出土した。
  • 長さ57尺、幅9尺2寸、厚さ4寸。凝灰岩(高畠石)切石を敷き詰めたもの。風蝕、破損が激しい。
  • 門柱・柵の礎石と思われるものも出土。
  • 埋設時期不明。アスファルトによる表面の補修跡があることから、近年か。
  • 石畳の東西軸が旧西置賜郡役所の南北軸に対して直交していない。歩行者は斜めにアプローチすることになる。
  石畳を東に延長すると、現在の大町通りへの道とほぼ重なる。大町通りへの道の東西軸線上に立って旧西置賜郡役所を見ると、石畳は直線になるが、建物が若干斜めになって見える。明治13年当時の写真も同様のアングルで写っている。明治13年当時から石畳は建物に対して斜めになっていた。今回出土した石畳は明治創建当時のものと推測される。
 表通り付近で目地が乱れる部分がある。表通り前方部分は当初工事後に敷き換えした可能性がある。

 

2013.08.28:n-old:[歴史的建造物]

長井市 広報マンが写した半世紀 Ⅹ

  • 長井市 広報マンが写した半世紀 Ⅹ
昭和29年11月15日、長井市が誕生。往時の広報マンが記録した写真が、ここ文教の杜に収蔵されています。コマ数にして2万枚。その中から昭和30年代の暮らしと町の風景を紹介します。
(提供:文教の杜ながい/長井市/小口昭氏)


■木の松川橋  伊佐沢村松川橋開通は大正4年10月25日  下伊佐沢と西大塚を結び後 昭和23年9月15日の台風で流失した  (昭和34年)



■オーディオ時代到来  毎月2000円払い込みでサウンドをお楽しみくださいと売り込み  オーディオライフの到来  左と右が違う音に感激  (昭和39年)



■新装長井市立病院  一部改築工事が完了し近代的な病院となる  前身は昭和14年一町五カ村連合伝染病院  昭和29年に市立病院となった  (昭和37年2月)



■ワンちゃんも遊ぼ  大八車は大人八人分の仕事をするからだと  犬にリードをつけなくても仲良く一緒に 
 


■面子 パエンコをしている  パッチンとも  坊主頭にゴムの短靴(たんくつ)ズボンにシキシアテをしている  後ろにはウコギ垣が見える  (昭和39年春)



■慈愛の像の除幕  うららかな春の日  長沼孝三作「慈愛の像」が母校長井小学校に建つ  後に「慈愛」は校是に  慈愛の像の土台石は元々校庭にあったものを上下逆にして利用  上より下が短い  (昭和32年5月3日)



■長井町役場  昭和29年11月15日に一町五カ村が合併長井市が誕生する  役場は後に除きゃくされた  胸像は横山孫助像  現在は白つつじ公園に 


 
■大石分校  伊佐沢北部大石地区にあった分校  1年から3年生がここで学んだ  昭和40年12月1日に廃止となり その後スクールバスで伊佐沢小学校に通った  (昭和32年)



■自転車隊  雪消後の好日に勢ぞろい  自家用車を持つことなどまだまだ遠い時代だった  堤防の上はもちろん砂利道



■市議会議員記念写真  長井土木出張所(現小桜館)前で  昭和29年の町村合併で市議会議員89人に  昭和30年5月5日の第一回市議会議員選挙まで続く  (昭和30年春)



■天上川  増水のため地区民出動  羽田市長が見回り  (昭和34年)



■被災地への支援物資  太平洋沿岸を襲ったチリ地震津波  昭和35年5月24日  被災地へ支援物資を送るため受付場所となった市役所  (昭和35年)



■津波を報じた新聞  めったにない大きな地震と津波の被害を各紙一面で大きく報じた  (昭和35年)



■のど自慢  NHKあやめのど自慢  長井中学校体育館で開かれた  (昭和39年6月)



■あやめの宣伝バス  旧山形県庁前  あやめ祭りのPRをとボンネットバスに幕を張り福島と仙台にも出動  (昭和35年)



■相撲巡業長井場所  千代の山第14代横綱  長井小学校グラウンドで郡是・東芝・組合製薬の提供  市役所新庁舎の地固めも (昭和31年6月16日)



■七夕飾り  本町商店街の七夕祭り  それぞれのお店で飾っていた  さぞかし時間と経費がかかったろう  賑やかだ  (昭和35年)



■県大会報告パレード  長井中学校野球部が県大会準優勝  体操などを含めると長井が総合優勝した  長井南高等学校から長井市役所まで凱旋  (昭和39年夏)



■中央商店街  長井の中心部の商店街  多くの看板と消防署の火の見櫓が見える  (昭和39年7月)



■豊田泉保育所  宝光院  養蚕農作業などで親は多忙だった  特設の滑り台で遊んでいる  季節託児所とも呼んだ  (昭和35年頃)



■成田出身の野形山  二段目まですすんだ  市長室で羽田市長と握手  (昭和34年)



■草履つくり  豊田の島貫さん冬仕事で草履つくり  そばにはニワトリの餌がある  (昭和39年)



■長井町商店街主催  三橋美智也ショーが長井中学校体育館で開かれた  レコードA面に長井盆歌 B面には大津美子の長井ブルース  レコード発売は昭和38年  (昭和34年)



■洪水  河川改修もままならず大雨が降ると水増しはつきものだった  手前の並木は川岸補強のためだが秋には稲杭のかわりに  (昭和33年)



■長井家畜診療所  田の害虫駆除防除は稲作に欠かせない  この頃から背負い式の機械が登場した  (昭和32年)



■体育館でコンサート  長井南高等学校講堂でソプラノ歌手大谷洌子コンサートが開かれた  音響は素敵だった?  この4年後の昭和34年には新体育館が建った  (昭和30年秋)




■県美展巡回展  会場は中央公民館(長井北高校講堂)で開催  このときの日本画県展最高賞は高内桂司さん彫刻は金田義宏さん  前売り大人50円当日は70円だった  (昭和39年9月15~17日)



■田んぼの絵描きさん  この時代絵描きがスケッチしている光景は珍しかった  ちびっ子ギャラリーがいっぱい  (昭和36年秋)



■公共事業  戦後失業者の雇用対策でいろいろな公共事業が行われた  場所は高野町の側溝工事  (昭和30年秋)



■祝瓶山のつり橋  つり橋を渡るにはコツがいる  おまけに下が丸見え  渡ったあとは不思議な達成感が  (昭和39年)



■公明選挙かかし  この一票売るまい買うまい誘いまい  選び方一つで決まるよい政治  幸せを築く力だこの一票  あやめわんぱく隊出動  (昭和32年)



■ダットサンイズミヤハイヤー  場所は長井駅前  あれ?サイドミラーがない  (昭和34年)



■袋飛び  致芳小学校の運動会  米を入れた麻袋を使っての競争  どこでも定番の競技だったが今は見れなくなった  (昭和39年9月)



■牛乳給食  育ち盛りの中学生の体位向上のためにと10月7日から市内5校で牛乳給食が始まった  子供たちには評判が悪かった脱脂粉乳からの開放  (昭和38年10月)



■仮想山車行列  山形県畜産品評会  長井小学校235点出品中央十字路など目抜き通りで行列  自家用車もまだ少なく町行く人も多い  山交バスはいつまで待っていたのか  (昭和32年10月19日~21日)
 
2013.08.20:n-old:[歴史的建造物]

長井市 広報マンが写した半世紀 Ⅸ

  • 長井市 広報マンが写した半世紀 Ⅸ
 昭和291115日、長井市が誕生した。往時の広報マンが記録した写真が、ここ文教の杜に収蔵されています。コマ数にして2万枚。その中から昭和30年代の暮らしと町の風景を紹介します。
(提供:文教の杜ながい/長井市/小口昭氏)


第一回成人式  会場は長井小学校体操場  みなさんがきっちり正座  632人が成人した  (昭和30年1月)



■第9回成人式  会場は中央公民館(旧郡会議事堂)  現在の小桜館北方の立派な建物だった  (昭和38年1月)



■スキー大会  横森スキー場での市民スキー大会  小中学生・一般が約200名参加  (昭和39年2月16日)



■卒業式1  長井小学校の卒業式  児童数も多かった  約250人が卒業  (昭和40年3月)



■卒業式2  致芳中学校の卒業式  戦後のベビーブームに生まれた生徒達  135人が卒業  (昭和40年3月)



■就職者壮行会  市内中学校を卒業し就職する人たちを激励する会  会場は長井中学校体育館  (昭和37年3月)



■最上川堤防の桜  長井駅から東方に延び堤防にとどく場所は  現在左手に日産自動車  (昭和37年)



■キッチンカー  食生活改善事業で栄養士や料理人が市内を巡回  移動料理講習会を開催した  (昭和39年5月)



■あやめ写生大会  毎年恒例行事だった  飽きていたずらして遊んでいる子もチラホラ  (昭和39年6月)



■第2回市民音楽祭  市内の小学生から一般団体などが楽器演奏を  多くの団体が参加した  (昭和39年夏)



■第2回音楽パレード1  主に市内の小中学生が出場  先頭は憧れのバトンガール  (昭和38年8月)



■第2回音楽パレード2  致芳小学校の鼓笛隊パレード  中央十字路を堂々と行進  遠くまで見えないくらい参加団体の多さに驚く  (昭和38年8月)



■市民水泳大会  長井小学校のプールで行われていた  写真は表彰式  奥に病院が見える  (昭和41年夏)



■七夕まつり  当時各地で七夕まつりが催された  ここは本町通り  賑やかなこと  (昭和37年8月)



■海水浴1  各地区の子ども会で夏休みを利用した海水浴が盛んだった  新潟県間島  (昭和40年夏)



■海水浴2  引率の人  呼子に拡声器は必需品  (昭和40年夏)



■祝瓶山市民登山1  長井山岳会などの主催で例年行われた  (昭和37年9月)



■祝瓶山市民登山2  祝瓶山荘前で記念写真  それにしても参加者が多い  (昭和37年9月)



■第2回歩こう会1  市役所前朝6時発  焼却場を経由して萩公園まで歩いた  50人が参加  (昭和40年9月)



■第2回歩こう会2  実りの秋は田園風景の中を歩いた  田圃では稲刈り作業が始まっている  (昭和40年9月)



■西根の運動会1  場所は旧西根中学校校庭  南の高台は天然のアルプススタンド  (昭和39年秋)



■西根の運動会2  お母さん方のマリ入れ  よく見ると運動着を着ていない  普及するのはまだ先  (昭和39年秋)



■県美展移動展1  会場は北高校  現在は置賜総合支庁西庁舎  展示している絵画が高くて首が痛そう  (昭和39年9月)



■県美展移動展2  当時は展示パネルがなかった  大工さんに造ってもらった大きな木の枠に布を貼って  県美展は昭和21年にスタート(昭和39年9月)



■水石盆栽展  殖産銀行と山形相互銀行の長井支店で開催された  日頃の丹念な世話と愛情がしのばれる  (昭和39年9月)



■長井踊りパレード  市制10周年時のパレード  この熱気と賑やかさ  (昭和39年9月16日)



■念佛踊  長井踊りパレードに    (昭和39年9月16日)



■菊花展  花の長井にふさわしい花を愛で育てる心意気が伝わってくる



■第一回市民体操祭  長井工業高校東にしんせつされた市民グラウンドの披露を兼ねて開催された  (昭和41年10月10日)



■ミス長井カーニバル  市制5周年を記念して開催  新しいミス長井が選ばれた  (昭和34年11月)



■第2回長井芸術祭1  公演部門と展示部門があり  長井は芸術活動が盛んと知れ渡っていた  (昭和38年11月)



■第2回長井芸術祭2  華道展  各流派がそれぞれに力作を披露  (昭和38年11月)


 
■交通安全パレード  長井小学校鼓笛隊と5・6年生650人が目抜き通りをパレード  (昭和36年10月13日)



■第一回文化財展  長井市指定文化財を中心に公開  文化財の大切さをPR  (昭和38年11月)



■木炭品評会  市役所前で  家庭の暖房などは炭が一般的だった  (昭和37年11月)

2013.08.19:n-old:[歴史的建造物]

長井市 広報マンが写した半世紀 Ⅷ

  • 長井市 広報マンが写した半世紀 Ⅷ
 昭和291115日、長井市が誕生した。往時の広報マンが記録した写真が、ここ文教の杜に収蔵されている。コマ数にして2万枚。その中から昭和40年代の暮らしと町の風景を紹介しよう。
(提供:文教の杜ながい/長井市/小口昭氏・歴代広報マン)


■中央十字路1  北東角には山形交通の待合所があった  (昭和42年)



■中央十字路2  南西角にはやま長・梅屋があった  その西にクルテスという店があった  (昭和42年)



■駅前十字路1  マイカーは少ないが長井駅前通りは人通りが多かった  信号はまだない  (昭和42年)



■駅前十字路2  駅から東に向かいすぐの十字路  朝のラッシュ時



■駅前十字路3  駅前十字路1に同じ場所から東を望む  駅前にパチンコ屋が3軒あった



■春の消防大演習で表彰  火事現場協力で5人が表彰された  豊田中学校3年の大場君  (昭和42年5月2日)



■仮装行列  時折仮装行列があった  それぞれの団体や会社などの出し物でにぎわった



■最上川渡し舟  昭和42年8月の羽越水害で流された舟が復旧  市内五十川・森を渡す



■船頭さんの小屋  羽越水害で壊され復旧  船頭さんは小屋の窓からお客さんが来るのを見ていた



■東五十川 宥日上人産湯井  年明け初の「みずのえたつ」の日に火伏せの水を汲み家にかけると火事にあわないと  (昭和42年2月2日)



■あやめ公園立体看板  高台下  立体看板が面白い  (昭和42年7月)



■あやめ公園写生大会  市内の小中学生が集まってきた  天気が良いと暑くて大変  (昭和42年7月)



■あやめモデル撮影会  毎年撮影会が開かれた  こちらも暑そう  (昭和42年7月)



■あやめ公園夜景  300本あまりのぼんぼりがお客様を待ち受ける  (昭和42年7月)



■あやめまつり盆栽展示  市内愛好者が200点あまり出展  場所は近くの遍照寺  (昭和42年7月1日~3日)



■あやめ公園で踊り  公園内での長井踊り  娯楽の少ない時代でとても賑わった  (昭和42年7月)



■西根児童館バス  南北に長い地区なのでバスを導入  値段は130万円と



■谷地橋架橋1  昭和41年11月11日起工  橋脚ができた  左に現橋が見える



■谷地橋架橋2  最新式のPSコンクリート製  長井工業高校・原セメントが見える  昭和43年春完成



■旭電機工場建設  昭和41年誘致した配電用付属品をつくる旭電機  今泉原に工場建設  昭和42年春完成



■野川水防訓練1  谷地橋下流  土のうを使った水防と水難訓練  (昭和42年6月28日)



■野川水防訓練2  谷地橋下流  人工呼吸など長井署の担当に学んだ  (昭和42年6月28日)



■たばこ葉の栽培  苗床をつくり種を播き苗を育てる  温度管理が大変だった



■致芳教育山手入れ  地区所有の山があり杉を植え  大きななったら学校のために使った



■大石沼のジュンサイ採り  いかだに乗って若芽(葉)を摘む



■耕地整理  寺泉  昔の田は小さく耕作には難儀した  向こうに白川奥の山は吾妻山
2013.08.16:n-old:[歴史的建造物]

長井まち歩き物語4  馬頭観音堂

  • 長井まち歩き物語4  馬頭観音堂
山形県長井市。それは、水と緑と花の奥座敷・・・・・
ゆっくりと まちなみに ふれてみませんか・・・・・
魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい

(資料:長井市史、神奈川大学工学部建築学科 西和夫 長井市歴史建造物調査報告書、文教の杜・長井市年表)



  馬頭観音堂は、あやめ公園の南東、横町地区のほぼ中央に位置しうっそうとした杉木立のなかにあります。堂の西には總宮神社、東には遍照寺、東南には鐘楼堂を配しています。また、境内には多くの小詞があります。
  構造は木造、三間宝形造り、銅版葺き。柱は八角柱、南面中央の2本と入側柱2本のみ円柱で、壁は横羽目板張りになっています。南側正面に一間の向拝を儲け、四方に板敷きの縁を廻しています。この堂には数多くの絵馬が飾られており、年代が確認できる一番古いものは明治23年(1890)のもの。他に棟札や享保14年(1729)の扁額など多数納められています。
  間口3間半、奥行2.75間の規模で、設計基準尺は真々6尺、建築年代は遍照寺文書から明和7年(1770)と確認できます。内部は見る事はできませんが、北側中央に幅6尺、奥行4尺、高さ10尺3寸の厨子があります。厨子上の天井高は11尺9寸ですから、この堂はこの厨子を収める為に設計されたと考えられます。厨子の中には60年に1回開帳する「馬頭観音像(昭和62年8月に山形県有形文化財に指定)」祀られています。像は、伝承では鎌倉時代に羽黒の僧運慶に彫らせたと伝えられていて像高は6尺5寸。寄木造りで全身には漆が施され、衣には彩色が見られる巨像です。平成26年がその60年に一度のご開帳があります。この建物はかつて坊中にあり、参道東(風間書店の北側)に位置していました。
  火打窓や釘隠し、虹梁、頭貫、木鼻などの細部意匠が特徴的で諸所に改変も見られますが、江戸末期頃のこの地域的特色、建築技法を知る上で重要な建物です。


向拝の上部


正面には二箇所に火打窓が対称に


北面


北面の火打窓


明治26年に奉納された絵馬  正面上部に


古写真  昭和35年  屋根が茅葺で向拝上部の屋根形状が現況とは大きく違っている
  
2013.08.15:n-old:[歴史的建造物]