長井 古写真物語3 慈愛の像
(協力:文教の杜、長井市史)
長井小学校に慈愛の像
長井小学校校庭に「慈愛の像」が建立され、その除幕式の一こまです。撮影は昭和32年5月3日。桜が満開です。児童代表(女子)がちょうど除幕した瞬間で、左側の前に長沼孝三氏が写っています。女子児童の髪は、今とさほど変わっていないようですが、男子児童は見事に丸坊主ですね。ユキヤナギも咲き、春うららの一枚です。
慈愛は、長井小学校の校是となりました。そして長井の教育の根幹としての「長井の心」に繋がっていきます。像は、今ではブロンズに替わり児童を見守ります。当時の像は文教の杜・長沼孝三彫塑館に展示してあります。
長沼先生が生前、話されたことがありました。「慈愛の像の台座のことなんだがねー。実は地面の方が狭いんだよ。普通、落ち着きがいいように地面の方が広く、上が狭いだろう? これは逆。校庭にあった台座を上下ひっくり返して使ったんだ」
よく見ると、特に横から見ると上が広く下が狭くなっています。小学校においでの際は、みてはいかがでしょうか?
さて、じゃぁ、なんの台座だったのでしょうか。これは、桑島五郎氏(桑島眼科医院初代院長)が長井小学校奉安殿前に「大楠公銅像」を昭和15年2月11日に寄贈したものでした。その後、戦前の金属回収令に呼応し台座だけとなってしまいました。
長井 古写真物語2 歓迎アーチ
(協力:文教の杜、長井市史)
歓迎アーチ(東面。東から西を臨む)
長井駅前通りを長井駅を向いて撮影した写真です。消防演習の一こまで、昭和37年ころのもの。歓迎アーチは、長井年表では昭和30年6月とされています。長井市となったのは、昭和29年11月15日ですから、翌年には整備されたようです。アーチ上部にある章は、市章のデザインと考えられますが、昭和30年、その際公募で決定しましたが正式採用とはならなかったようです。市章は昭和38年10月17日に制定され、長沼孝三氏がデザインしました。〇が六つ、これは長井町・長井村・西根村・平野村・伊佐沢村・豊田村が合併、それぞれの町と村を表しているようです。中央には「長」の文字。デザインされた方は、芳文社にお勤めの大沼喜三郎氏でした。
しかし、アーチには酒の銘柄がありますが、市内の醸造元ではありません。なぜ? 実は、この面は裏側なのです。長井駅から降りてくる方々に対しての歓迎アーチでした。それでは裏側をみてみましょう。
西面のアーチ(長井駅側から臨む)
長井駅から降りた方々が見る西面です。こちらに長井の酒の銘柄が並びます。撮影は昭和42年で、当初のアーチデザインと変わっています。また、夜景の写真もありますが、撮影年代は残念ながらわかりません。
アーチ夜景(駅側から)
まばゆいばかりのネオンサインです。今あっても、目立つのではないでしょうか。右側にあやめ、左側につつじが配されています。奥に木村家のネオンも。食パンのデザインで、印象深いつくりになっています。
長井 古写真物語1 長井駅前歓迎門
(協力:文教の杜、長井市史)
長井駅前 歓迎門
昭和10年に撮影された写真の一枚です。この中にも驚くような過去が隠れています。
1、「あやめ団子」の看板(右中) このころには、あやめ団子がありました。しかし、今のような形ではなく、まったくの別物のようでした。元祖としては、松屋さんがおみやげコンテストのようなイベントで優秀な成績をおさめたのが、「あやめ団子」でした。再現されれば面白いですね。
2、長井駅(奥) 現在の長井駅舎は昭和11年築ですから、写真の駅舎は大正3年築のものです。開業当時の駅舎はその後、大正14年3月に拡張し、大正15年には乗降所の上屋を建てています。
3、駅前道路 長井で初めて舗装された道路です。昭和8年6月4日です。道路脇に照明灯がありますが、「すずらん燈」と呼ばれ、舗装工事と同時に設置されました。
4、菊水館(中央) 大正12年にオープンした映画館です。
5、長井商工会(右・門の右) 長井商工会は、明治43年4月2日に結成されました。その後、法施行前に昭和30年4月16日創設、法施行後は昭和35年9月12日に発足しました。長井商工会議所となるのは、昭和50年の4月1日を待たなければなりません。
6、道路にセンターラインがない 初めて信号機が設置された場所は、中央十字路です。それも昭和37年9月1日。まだまだ車社会になるには年月を要しました。人は右、車は左。今は当然のことですが、昭和23年8月にGHQから勧告があり、その後、人も車も左から現在のようになりました。写真は昭和10年ですから、人が左側を歩いていることは、当時は正しかったのです。
長井まちあるき物語 常楽院 宥日堂・客殿
ゆっくりと まちなみに ふれてみませんか・・・・・
魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい
(資料:長井市史、神奈川大学工学部建築学科 西和夫 長井市歴史建造物調査報告書、文教の杜)
常楽院 宥日堂
常楽院本堂として現在も使われている建物です。本尊は不動明王、脇侍が文殊菩薩と普賢菩薩。常楽院は大正6年5月3日の大火によって全焼し、再建のための「大正六年六月弐拾五日」付けの「宥日堂建立勧進主旨」が本堂に掲出されています。また「大正七年七月、寫御祝宥日尊堂、新築、龍岡草耕道」と書かれた額縁があり、これによって建築年代は大正7年であることが明らかです。御住職からの聞き取りによると、「大正7年宥日堂として建ち、部屋4つに台所くらいの庫裏(くり)があったが、50年ほど前にその庫裏を潰して、現在の元長井警察署の建物をもらってきた」とのことです。
外観は、木造平屋建て、寄棟造り、屋根鉄板葺き、南面に破風(はふ)を付け向拝(こうはい)としています。北東隅にも破風が付き、普賢菩薩を外から拝めるようになっています。セガイ状に軒を出した板天井とし、外壁は真壁の漆喰仕上げ。北面のみ外部にトタンを張っています。建具は現在アルミサッシです。
間取りは、内陣と外陣からなります。客殿と角度を少しずらして接続させており、これが何のためであるかは不明です。本堂と客殿の境は板敷きと押入れとなっています。柱は4寸3分角、設計基準寸法は1間を6尺3寸とする芯々設計です。
建物はマツ材とスギ材両方が使われていますが、ほぼスギ材で作られています。天井は棹縁(さおぶち)天井、壁は白漆喰仕上げ。柱と天井縁の間に舟肘木(ふなひじき)を入れています。左右対称形の造りですが、北東隅に普賢菩薩を置き、外から拝めるようになっている点が独特です。内陣は板敷きで、西面、東面南側に半間空いている箇所は、元は壁であった痕跡が残っています。
北東隅 普賢菩薩を外から拝めるように
材木や構造を見ると、全体的に非常に急いで作られたようで、大火の後に早い再建が求められたと考えられます。本堂内には「安政六年己未星八月吉日」の年紀を箱にもつ、「大般若経」が一番から六番まで残されており、幕末期の大般若経があることも珍しく、建物と共に大変貴重な存在です。
宥日上人 火伏せの井戸 敷地内にある
客殿
元は大正9年築の長井警察署の建物
客殿は、かつて長井警察署であった建物です。長井警察署は「長井市史」によると宮栄町(現山形銀行長井支店)に大正9年に新築されましたが、場所的にも機能的にも適当でなくなったため、小出ままの上へ昭和34年3月18日に新築移転されました。御住職からの聞き取りによると「私が高校2、3年生のとき移転したので、約50年ほど前になる。栄町にあった警察署建物が競売にかかり、先代が規模を小さくして安く買い、現在の敷地に移転した」とのことです。建築年代としては、長井市史に書かれた旧長井警察署建設年代の大正9年となります。
外観は、木造平屋建て、寄棟造り、屋根鉄板葺き、南面に玄関があります。客殿は本堂と棟を少しずらして建てています。南西隅に下屋を出し、便所。外壁は下見板張り、上部は白漆喰仕上げです。建具は現在アルミサッシですが、一部木製建具が残っています。
間取りは西から水場、台所、付属部屋、便所、物置(4畳半)、客殿(10畳)、物置(12畳)、客殿(20畳)からなり、客殿と玄関の間に廊下があります。柱は4寸角、設計基準寸法は1間を6尺とする芯々設計です。
客殿(10畳)は、天井が棹縁天井、壁は白漆喰仕上げ。北面、西面、南面には雪見障子(しょうじ)、東面には襖(ふすま)4本を通しています。この襖は他のお宅からもらってきたとのことであり、この建物に合わせて作られたものではないために大きさが合っていません。南面、東面にはめられた透かし彫り欄間は警察署時代のものではなく、この建物に合わせて後付けされたものです。北面、南面の差物に根太(ねだ)の痕跡があることから、かつてここに中二階が存在したと思われるが、廊下側を見ると根太の相手となる痕跡がないことから、かつてここに中二階があったとは考えにくいと思います。移築の際に、材が入れ替わった可能性が考えられます。玄関は、警察署時代のままとのことです。床はモルタル仕上げ、壁は腰を縦羽目板張りとし、上部が白漆喰仕上げです。天井は棹縁天井。玄関外の石段も当初からのものです。
来歴、建築年代がはっきりしており、以前は警察署であったという建造背景も長井の歴史を知る上で貴重な存在です。
客殿と宥日堂は角度が少しズラして接続している
長井まちあるき物語13 旧桑島眼科医院
山形県長井市。それは、水と緑と花の奥座敷・・・・・
ゆっくりと まちなみに ふれてみませんか・・・・・
魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい
(資料:旧桑島眼科医院 曳き移転版、置賜文化フォーラム、二宮正一氏)
昭和2年、初代桑島眼科院長・桑島五郎が、洋行を取りやめてまで擬洋風建築の粋を集めて竣工しました。昭和3年の新聞には「新医院は純洋式鉄鋼コンクリート2階建てにして高層巍々たるもので、実に長井町に一つの美観を添えたるものである」と紹介されています。材料も吟味されており、当時のお金で1万6千円をかけ、旧県庁舎(大正5年竣工、現文翔館)を忍ばせます。ゴシック建築の名残の棟飾りやドーマーウインドウ、石造りに似せた人造石洗出しの外壁などの特徴があり、日本建築学会の「日本近代建築総覧」にもリストアップされています。視察に訪れた東京大学の伊藤先生からは①昭和初期医院建築の貴重な遺構、②筋違いなどの耐震工法の採用、③建築当時の資料一式の残存、の3点について高い評価を得ています。今回の曳き移転・保全により将来にわた利用されることとなりました。
タオルかけだろうか 柱部のデザインがおもしろい
間口7間、奥行き4.5間、総2階建てで、正面2階に鉄製のバルコニー、玄関部に化粧持ち送りの庇(ひさし)がついています。新聞では「鉄鋼コンクリート」と紹介されていますが、実際は木造の骨組みです。ただし、外の洗出し壁は5cmもあり、その下地はらせん状の鉄網へ砂利を入れたモルタルで固めた強固なもので、鉄鋼コンクリートと表現されたとうりです。二宮正一氏によると、筋違いが一般の建築に取り入れられるようになったのは、関東大震災以降で、その対応の早さに驚くとのこと。筋違いを提唱した佐野利器博士は白鷹出身でありその因果関係もあるのでは、と話されています。また、建物南面の妻面・アーチ模様ですが、設計されていません。この模様が何を意味するのか、誰が考えたのかは不明です。また、玄関の両端に丸玉飾りが設計されていましたが、竣工時の正面写真にはありませんでした。どんな意味で丸玉が設計されたのか不明です。
なぞが深まるばかりです。
建築概要 昭和2年竣工時
●建築名 桑島眼科医院
●建築主 桑島五郎
●設計者 吉岡惣作
●棟梁 稲垣茂兵衛
●左官 飯沢道蔵
●建具 早川木工場
●ペンキ 片山信次郎
●面積 延べ面積:242.2㎡ 一階床面積:104.3㎡ 二階床面積:137.9㎡
●高さ 軒高さ:7.4m 最高高さ:10.0m
●仕上げ 屋根:銅版葺き 鼻隠し:銅版包み 軒天井:人造石洗出し 外壁:人造石洗出し(御影石・黒霞) 開口部:木製上げ下げ窓 内部床:縁甲板張り 内部腰:羽目板張り 内部壁:漆喰塗り壁 内部天井:羽目板張りの上塗装