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長井古写真物語 38 女学校

  • 長井古写真物語 38 女学校
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 かつては、町立の女学校が長井にありました。大正9年に待望の県立長井中学校が創立しますが、町の識者の間に女学校開設を願う声が高まりました。男女の教育は車の両輪であるべし、男子偏重に偏るべからずということです。なんと、町立長井実科高等女学校を大正10年3月31日に創立。長井小学校の校舎を間借りしてスタートします。
 県立長井高等女学校の校舎は、大正14年9月に竣工、10月31日に落成式を挙行していますが、以下年表にまとめてみます。
■大正11年 新築計画を申請、8月7日に指定認可。新築認可は年度内ならず
■大正12年 敷地を高野町に求め整地。畑地の4200坪
■大正13年 長井小学校と教育会館で分散授業。教室間に合わず
■大正13年 12月1日に校舎建築工事着手。随意契約で東京市・石井権蔵と12万3千円で
■大正13年 7月31日に第1回修学旅行を東京方面に実施
■大正14年 2月11日、起工式
大正14年 3月27日、県立長井高等女学校に改称(県立に移管)
■大正14年 9月1日、全生徒を新校舎に収容し授業
■大正14年 10月30日、盛大な落成式。長井線開通以来の仮装行列
■昭和4年  7月、寄宿舎落成
■昭和6年  6月28日、創立10周年記念式行う。
■昭和18年 7月30日、大船に学徒動員
■昭和23年 4月1日、長井第二高等学校に、定時制併設
■昭和25年 4月1日、長井第一、第二高等学校を統合、長井高等学校となる
■昭和30年 4月1日、長井高等学校を分離。長井北高等学校となる。西根分校開設
■昭和32年 家庭科調理室等、鉄骨2階建て新校舎建設
■昭和37年 長井工業高等学校開設、北校校舎を共同利用
■昭和39年 4月1日、長井北・長井南高等学校を再統合、長井高等学校に。北校校舎は利用せず。
■昭和40年 旧校舎を市勤労文化学園として開設
■昭和43年 市中央公民館・市立図書館となる
■昭和46年 12月4日、長小第4校舎焼失で、47年7月まで長小の仮校舎となる
■昭和55年 3月15日、県の合同庁舎建設のため、旧校舎取り壊す

 校舎としては57年で幕を閉じましたが、女学校のみならず図書館公民館にも活用されるなど、多くの市民の思いを重ねた場所でした。

(トップ写真は文教の杜コレクションのガラス瓶です)
2014.02.28:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 37 長井大橋

  • 長井古写真物語 37 長井大橋
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 昭和6年12月、長井大橋が竣工、そのときの記念写真です。新工法による鉄橋はワーレン式トラス4連の堂々たる威容で人の目を奪ったとされています。全長32.8メートル、幅5メートル。両側にはスタンドに照明灯でしょうか、それの横には竹が添えられています。長井橋も同時に竣工していますが、最も世人の注目を浴びたのは長井町内の最上川にわずか1.5キロメートルを隔てて最新の鉄橋が二つ同時に出現したことでした。
 小出と伊佐沢を結ぶ長井大橋は、最初、明治21年6月に架けられました。長さ90メートル、幅3.6メートルの木橋でした。当時は有料で小出側に番小屋を設けて橋賃を徴収していました。明治33年の洪水で使用できなくなり明治37年に新たに架け替えています。写真左に写る木橋がそれです。
 このトラス橋も、平成19年7月1日に「さくら大橋」が開通し、9月24日の「「長井大橋のお別れ感謝の会」を経て、10月から撤去工事となり76年の歴史を閉じました。


(トップ写真は文教の杜コレクションのガラス瓶です)
 


2014.02.27:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 36 演芸館

  • 長井古写真物語 36 演芸館
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 つつじ公園にあった演芸館、大正期の写真です。開館は大正6年。この建物は、山形県庁の落成を記念し県庁を中心に開催された「奥羽六県連合共進会」の会場で建設された演芸館を長井町と有志が払い下げを受け、そっくりそのまま移築したものです。県庁は明治44年の山形市北部大火で焼失したため新築されました。
 共進会は、物産陳列を主とした、いわば産業展のようなもので東北6県から3万7千点の陳列がありました。大正5年9月22日から10月31日の40日間で、延べ30万人の人出と報じています。演芸館はその中の催しに使用されたようです。3つの会場が設けられましたがそのメーン会場である県庁敷地の第一会場南西角に、その演芸館は設置されています。
 演芸館はつつじ公園のひょうたん池西側にあり、白亜の威容を誇り大正年間は長井名勝に数えられました。当初は株式で運営されていたようです。旅回りの芝居演芸等の興行に利用され、長井小唄の発表会などにも利用されました。経営も幾多の変遷を経て、第二次世界大戦後はアパートに転用されるなどしましたが、公園整備に合わせ昭和49年に解体されました。


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2014.02.26:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 35 あやめ会館

  • 長井古写真物語 35 あやめ会館
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 長井市のあやめ公園には、食事や休憩する場所としてあやめ会館があります。第1期の会館が上記写真。撮影年月日は不明です。このあやめ会館は昭和8年6月22日に竣工披露会が催され、以降、個人客・団体客に利用されました。建設場所は、あやめ公園高台入口です。木造2階建てで、1階は土間で売店。16区画で構成され、建物からはみ出すようにトイレと和室がありました。2階は休憩、宴会ができる大広間がありました。
 昭和5年に山形新聞社主催の名所県一を決める人気投票イベントであやめ公園が県一位となって以来、多くの観光客が訪れるようになりましたが、団体客や家族づれで休憩する場所がないことから、宮区の芳賀作右エ門の出資で建設されました。運営も宮区の有志が北斗会を結成、運営に当たりました。あやめ会館の名称は、懸賞募集の形で決められました。応募数百通の中から、高橋忠吉の「あやめ会館」が選ばれ、賞品として米1俵が贈られています。以降、この名称が使われています。
 写真には、右上に「うなぎ丼 三十五銭 会館内」の入口案内と、その下に「御自由に階上で御休憩下さい」の縦看板が見えます。また、左側には、「ウテナクリーム」の旗、その下に「ウテナ化粧品」の横看板が見ることができます。化粧品も販売していたんですね。ウテナ化粧品は昭和2年の創業。
 この会館は昭和18年まで使用され、その後誘致企業である東京芝浦電気長井工場の事務所として移築改装され、利用されています。
 第二期のあやめ会館は、長井町で建設されました。昭和29年、滝がある築山の西側に平屋建てのあやめ会館が整備されました。予算は95万円。現在のあやめ会館は昭和48年に新築され、今も使用されています。下記写真は二期あやめや会館です。

(トップ写真は、文教の杜コレクションのガラス瓶です)


第二期あやめ会館

第二期あやめ会館内部(昭和35年)
2014.02.25:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 34 西置賜郡立図書館・物産陳列館

  • 長井古写真物語 34 西置賜郡立図書館・物産陳列館

長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 西置賜郡立図書館・物産陳列館は、大正天皇即位御大典記念事業で、西置賜郡営として大正4年11月12日に開館したものです。2階が図書館、1階は物産陳列館でした。場所は宮区新栄町(現中村循環器科医院付近)で洋風二階造り、長井町の名所として、郡の文化の象徴となる建物でした。
 図書館の書籍は、私立置賜郡図書館の蔵書の内、仏門に関するものを除く全部を寄附されました。大正11年の調査書では、図書冊数が2,710、閲覧人員は21,858人(男・117,715、女4,143)とされています。図書は郡制廃止後(大正12年4月)は西置賜郡教育会に引き継がれ、二代目の郡会議事堂だった建物に移されました。

1階部の陳列館は、織物を含む西置賜の物産を一同に陳列していました。

 大正12年4月、郡制廃止によりこの建物は置賜織物同業組合事務所に譲渡され、事務所と織物の陳列館となりました。同業組合の前身は、明治36年9月19日に誕生した西置賜郡紬織物同業組合です。その後明治43年4月に置賜織物同業組合と名前を変え、昭和16年12月まで続いていました。
 そしてこの建物は、昭和32年に中央会館に譲渡され利用されています。


(トップ写真は文教の杜コレクションのガラス瓶です)
 

2014.02.24:n-old:[歴史的建造物]