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長井古写真物語 53 長井小学校変遷

  • 長井古写真物語 53 長井小学校変遷
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。

 長井小学校の校舎の変遷をたどります。現在の場所にたどり着くには3回の位置変えがあり、校舎そのものは4回の建て替えがありました。


 明治43年と考えられる写真。スタンプには、「43.12.5」「学校増築・電話開通 記念」とあります。先は年月日、後は記念の内容です。この校舎は、明治15年、宮村と小出村が統合の小学校を作る事に始まります。「宮小出学校」「平章学校」と変わり、明治20年に「高等尋常小学校」、明治38年には「尋常高等小学校」と改名されました。門柱には「長井尋常高等小学校」の文字が読み込めます。現在の中村循環器科医院のところにありました。


 軽便鉄道が延長し、長井駅が出来ると小学校の位置が、現在のココスあたりに移ります。そのときの校舎が、この写真で、竣工は大正4年5月でした。校名はそのままです。しかし、大正6年5月23日の大火で類焼してしまいます。使用は2年という、たいへん短い期間でした。


 大正8年、上記と同じ場所に建坪801坪で新築。校名は同じ。


 昭和7年から9年にかけて、再び場所を移して新築されました。全体の竣工は昭和9年6月30日で、現在の小学校校舎です。第一校舎は昭和8年に竣工しています。校名は昭和16年「国民学校」、そして昭和22年「長井小学校」となるわけです。


(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)
2014.04.14:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 52 長井駅変遷

  • 長井古写真物語 52 長井駅変遷
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。


 大正3年11月15日、長井駅がオープンした時の写真。駅舎の入口の切妻屋根が上部の屋根の下に位置しています。


 年代不詳。駅舎の入口の切妻屋根が上部の屋根の上に移っています。また、新たに下屋部が増築されていることがわかります。


 昭和11年7月7日発行の市勢要覧に掲載された写真です。長井駅舎改築祝賀式は昭和11年3月9日。現在と構造そのものは変わっていませんが、入口上部の漆喰壁に「長井駅」の文字がありません。


 昭和40年台初期の写真。ほとんど変わっていませんが、長井駅の文字が入れられています。駅名が入る年代は不明。


(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です。
2014.04.11:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 51 歓迎ゲート変遷

  • 長井古写真物語 51 歓迎ゲート変遷
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。

 これまで、長井町時代からですが多くの歓迎ゲートが設置されています。現在わかっている歓迎ゲートについて年代順に紹介します。


 大正3年11月、長井駅前に建てられた歓迎ゲートです。軽便鉄道が長井駅まで開通、それを祝うゲートです。奥の建物は長井駅。(文教の杜・小口コレクション)


 昭和10年、現在の日本生命長井営業支部東に設置されたゲート。奥に長井駅が映っていますが、大正3年当時から改築されています。


 昭和12年以降、長井町時代のゲート。場所は、上記と同じと思われます。奥に映っているのは長井駅、昭和11年に建て替えられたものです。今観る事ができる駅舎です。


 昭和30年6月、中央十字路に建てられました。長井市となったのは昭和29年11月15日ですから翌年ですね。当時は山交十字路と呼ばれていました。


 昭和30年後半~昭和38年。現在の中村循環器科医院のところ。鉄骨造でネオンサインもあります。


 昭和31年ころ、あら町薬師寺入口です。町名があることから、あら町商店会で設置したものでしょう。


 昭和38年から、中村循環器科医院のところです。骨材はそのまま使われているようです。終年は残念ながらわかりません。


(トップ写真は文教の杜コレクション、ガラス瓶です)
2014.04.10:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 50 長井町役場変遷

  • 長井古写真物語 50 長井町役場変遷
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。

 長井町役場は明治27年、中央十字路南西に新築されました。行政の庁舎として、明治維新の後ようやく本格的なスタイルが構築されたわけです。今回は、同じ建物が変遷していく模様を紹介します。
●年表●
■明治17年  宮村小出村の戸長役場を摂取院に置く。(間借り)
■明治22年  第一次合併、長井町・長井村・西根村・平野村・豊田村・伊佐沢村となる。
■明治26年  役場を小出念仏堂に置く。(間借り)
■明治27年  長井町役場を新築
■昭和29年  第二次合併、1町5村、長井市が誕生。
■昭和33年  長井市役所新庁舎を新築。旧役場は分庁舎として利用。


 大正3年当時の写真です。建築は明治27年ですから、20年ほど経過しています。門柱左には「長井町戸籍役場」、右には「山形県西置賜郡長井町役場」と看板を掲げています。左側には、広報板でしょうか、「来る十一月、長井小学校・・・・」と、PRしています。


 大正14年の写真です。役場2階がの窓がガラス戸に変わっています。左の建物は電気事業部が入っています。当時は電気事業を行っていました。


 昭和11年の写真。ほぼ変わっていません。門柱から延びている鉄線に電灯でしょうか。


 長井市となって分庁舎として使用されていた旧役場。昭和34年以降の写真です。この建物が、上の建物と同じとは思えないほど、変わっています。1階に下屋が張り出し、入口もまったく変わっています。すべてガラス窓です。右側平屋建ての建物には公用車が入った車庫です。右側の胸像は、自治功労者として「横山孫助」氏です。現在はつつじ公園に移設されています。この胸像は昭和5年9月29日に建立、昭和18年には戦争による金属供出で台座だけになりました。昭和29年、型が残存していたことから復元されます。長井市となり昭和34年頃には長井市役所東に移設、そして今、つつじ公園の七兵衛つつじのととろに鎮座しています。


(トップ写真は、文教の杜コレクションのガラス瓶です)
2014.04.09:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 49 金属供出

  • 長井古写真物語 49 金属供出
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。

太平洋戦争の激化に伴い、全国で昭和17年から18年にかけて金属回収が繰り広げられました。長井でもその憂き目にあった様々なものがあります。


 昭和34年の写真で「横山孫助」翁の胸像移転時のもの。場所は長井小学校南西角。もともと、長井町役場に自治功労者として昭和5年9月29日に建立されたものですが、戦前の金属供出で台座だけになりました。戦後、山形に型が残っていたため、改めて建立されました。写真の胸像は二代目ということになります。現在はつつじ公園にあります。


 昭和34年ころの長井橋写真。木製欄干が危険な状態になっています。金属供出後は、木製でしのいでいたのでしょう。鉄製に改修されたのは昭和35年秋ですから、18年近く木製の欄干が設置されていました。


 昭和32年5月3日、長井小学校に長沼孝三作「慈愛の像」が建立されました。これは、新学制10周年を記念してPTAが寄贈したものです。この台座をよく観てください。側面を見るとわかりますが、底辺が狭く、上の方が広くなっています。この台座には、「大楠公銅像」がありましたが、供出されています。桑島五郎氏が昭和15年2月11日に寄贈したものでした。長沼氏は、台座だけとなったものを上下逆に使用したものでした。


 明治39年10月、つつじ公園南西に建立された「西置賜郡招魂碑」。明治37・38年の日露戦争の戦没者を祀ったもの。青銅製の砲身型の碑も供出されました。昭和18年7月15日に供出の壮行式を行い、昭和18年9月4日、秘密裏に運ばれたとのことです。


(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)
2014.04.08:n-old:[歴史的建造物]