山形県長井市。それは、水と緑と花の奥座敷・・・・・
ゆっくりと まちなみに ふれてみませんか・・・・・
魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい
(資料:長井市史、神奈川大学工学部建築学科 西和夫 長井市歴史建造物調査報告書、文教の杜)
桑島家住宅は、かつて住宅として使われていましたが、現在は他に居を設けたため使われていません。建築年代は、御当主からの聞き取りによると昭和6年ということです。建築様式から見て、この頃と矛盾しません。
外観は木造2階建て、屋根は鉄板葺きで2階部分は入母屋造、棟の端に鬼瓦状の鉄板で作り出した棟飾りがあります。玄関は寄棟造、北側は切妻造と複雑な屋根をもちます。東面と北面の縁部分は下屋。外壁は横羽目の板張り、最上部のみ白漆喰仕上げ。建具は現在アルミサッシですが、元は木製建具。玄関入口・書斎窓枠・2階部分窓枠棟はペンキ塗り。外観は全体的に洋風の意匠です。
間取りは、南から子供部屋、玄関、書斎、茶の間、仏間、座敷、台所からなります。子供部屋は西面に奥行き1間、幅3間の棚をとり、その脇は押入れです。南面は出窓を設けています。天井は根太(ねだ)天井。壁は白漆喰塗りの大壁、腰は板張り。書斎も白漆喰塗りの大壁、腰は板張り。天井は格(ごう)天井、格間は屋久杉を使用しています。床はフローリング。玄関及び書斎は、内部を洋風の意匠にしています。
座敷は、西面にトコ、棚が並びます。トコは畳床、棚は天袋付き違い棚。地板はトコ・棚ともにケヤキ。床框(かまち)もケヤキで、トコの天井は棹縁(さおぶち)吹寄せ。座敷の壁は土壁白漆喰仕上げ、トコと棚の壁は砂壁です。天井は棹縁天井、長押(なげし)を打っています。仏間は、西面に半間幅の仏間を置き、その脇は押入れです。押入れ上には神棚。天井は棹縁天井、長押を打っています。東面、北面には4尺5寸幅の縁を通しています。天井は垂木(たるき)と野地板を見せる化粧屋根裏。また東面の縁は6間半、北面の縁は4間の一本ものの丸太を使用しています。柱は3寸8分角、設計基準寸法は1間を6尺3寸とする芯々設計です。
階段西の1階と2階の中間に小屋裏を利用して納戸を設けています。2階は子供部屋2室。階段踏込み部分のみ板敷きです。壁は土壁、その上に壁紙を貼っています。東面窓下に掃き出し口を開けています。天井は棹縁天井。
和風の座敷に洋風の書斎を設け、外観も書斎や2階等を洋風の意匠とする、いかにも昭和初期らしい時代的特色を見せる住宅として貴重な例です。保存状態も良好で昭和初期の長井における住宅史の変遷を知る上で貴重な存在です。
長井まちあるき物語 桑島住宅
長井まちあるき物語 吉田商店
山形県長井市。それは、水と緑と花の奥座敷・・・・・
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魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい
(資料:長井市史、神奈川大学工学部建築学科 西和夫 長井市歴史建造物調査報告書、文教の杜)
吉田商店は、白つつじ公園の西、あら町地区のほぼ中央に位置し、北面と東面が道路に面する角地に立地しています。敷地の東から店舗・取次ぎ・主屋・土蔵と西方向へつながり、敷地の南に水路があります。昔はこの水路の水を利用してよくスイカなどを冷やしたといいます。主屋は昭和33年(1958)に敷地奥から現在の位置に移築したものです。敷地奥の土蔵は、現在の御当主のものでなあく、建築年代は棟札に「昭和六年四月十五日 上棟式 二代 吉田新兵衛 六十八歳・棟梁 酒井吉次 二十八歳」とあり、昭和6年(1931)です。
店舗の構造は木造2階建て、切妻造り、鉄板葺き、平入り。柱を見せた真壁構造で、小屋組みは小屋梁(はり)の上に束を立てて棟を支える和小屋です。外壁は白漆喰塗仕上げ、北面のみ一部腰をモルタル洗い出し仕上げとし、北面と東面、西面の一部はトタンで覆っています。北側外壁のモルタル洗い出し仕上げの部分には「たばこ」の文字が見られ、かつてはそこがたばこ売場のカウンターになっていたのではないかと考えられます。東側に下屋を付けおろし、南面と西面には出格子(こうし)を設けています。梁間3間、桁(けた9行4間の規模で、設計基準尺は芯々6尺3寸。建築年代は、御当主からの聞き取りにより、明治期です。
間取りは1階が店舗、2階が8畳と6畳の二部屋があります。1階は壁を板壁、天井を根太(ねだ)天井とし、下屋を下屋天井としています。東側の下屋部分から出入りし、床は現在床板を張っておらず土間となっていますが、柱にかつての床板の痕跡が残っており、土間から11寸の高さの位置に床板が張られていたことがわかります。建物の中央東側よりの4本の柱には、柱の北面と南面の両側に縦に長い溝が見られました。これはかつて上げ戸であった痕跡で、当地域では上げ下げする板戸のことを「シトミ」と呼んでいます。下屋部分に板戸をしまう空間が確保されており、かつては3枚の板戸を上げ下げするシトミ立ての表構えであったことを表しています。また、昭和30年代までは店舗の南面から北へ1間のところは間仕切りがあり、それより南側は外部で、水路の水はかつて店舗の下ではなく外部を流れていました。西側の梁(はり)や柱には臍穴(ほぞ)や貫(ぬき)跡がいくつか見られますが、これはかつて使用していた商品棚の柱跡で、棚の奥行きは約1尺5寸です。
2階は、8畳の部屋の北側向かって左側に床、右側に地袋がつく床脇(とこわき)を設けています。6畳の部屋の南面と西面には出格子(でごうし)を設け、西面には地袋がつきます。8畳と6畳の部屋は廊下でつながれていますが、2階入口部分や廊下と6畳の部屋との接合部など後から廊下を作ったような跡が見られ、かつては8畳が二部屋あり、廊下はなかったのではないかと考えられます。
吉田商店の本家は山一醤油です。かつては配給制度の影響もあり、塩や油・豆・石油・砂糖・雑穀を扱っていましたが、昭和28年(1953)の統制により扱えなくなりました。その後、昭和32年(1957)から現当主の趣味でもあったおもちゃと貸本を扱うようになり、昭和34年(1959)に山形のシバタモデルから委託販売を始めた事が模型店のきっかけでした。現当主は4代目。
現在、長井市で上げ戸を確認できる建物はほとんど残っておらず、上げ戸の痕跡を確認できる吉田商店は大変貴重な存在です。また、道路に面して店舗が建ち、敷地の奥に向かって主屋が直角に接続するというこの地域の特色をよく表しています。
長井まちあるき物語 斎藤織物 工場
山形県長井市。それは、水と緑と花の奥座敷・・・・・
ゆっくりと まちなみに ふれてみませんか・・・・・
魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい
(資料:長井市史、神奈川大学工学部建築学科 西和夫 長井市歴史建造物調査報告書、文教の杜)
斎藤織物は、白つつじ公園の南西、館町北地区の北西に位置し、敷地のすぐ南東を野呂川が流れています。道路の北東に立地し、敷地の南西に門を構え、西に工場、東に主屋・土蔵と北東方向へつながり、南には池や大小の樹木を配した庭を設けています。敷地内には水路が巡らされており、水路の水は南から北方向へ流れています。
工場の構造は、木造2階建て、妻を切妻造りマンサード風に仕立てた屋根、鉄板瓦棒葺き、平入り。柱を見せた真壁構造で、小屋組みは三角形を単位として組まれたトラス構造です。外壁は白漆喰塗仕上げの上に下見板張りとし、南面は更にその上にモルタル目地切り仕上げ、西面は腰をトタンで覆っています。梁(はり)間4間、桁(けた)行7間の規模で、設計基準尺は芯々6尺3寸。建築年代は、御当主からの聞き取りにより、昭和40年(1965)です。
間取りは、1階に南から北へ事務所。製品置き場・原材料置き場、2階に絣加工場からなり、原材料置き場の北側は取り次ぎ・もう一つの工場となります。事務所は、床・壁・天井ともに新建材で、撚糸加工や染色加工、整経加工、図案、墨付け加工、緯絣加工、くし返し加工、機織りなど長井紬に必要な様々な加工技術の写真が解説付きで飾られています。
原材料置き場は床をフローリング、壁を新建材、東面は腰を竪羽目板張り、腰上を白漆喰塗仕上げ、西面は梁成(はりせい)が1尺3寸と2本とも大変太くなっています。柱は杉、梁・肘木(ひじき)は松を使用し、柱には以前の床高の痕跡が見られます。北側の階段には根太(ねだ)を切った跡があり、かつてはこの位置にはなかったのではないかと考えられます。絣加工場は床をフローリング、壁は腰を竪羽目板張り、腰上を白漆喰塗仕上げとし、天井は石膏ボードで塞いでいます。柱には柱番付があり、柱や梁、屋根組はすべて金具で補強しています。
この工場は、かつては郡是製糸株式会社長井工場の繭乾燥場として使用されていたもので、このあたりの太い材を郡是長井工場に提供して造られたものです。郡是長井工場は大正9年(1920)2月に羽陽館川村製糸場を買収し、創業を開始しましたが、同年7月11日の出火により全焼してしまいました。しかし、同年9月には着工のための地固めを行っていますので、翌年の大正10年(1921)には完成したと考えていいと思います。その後、現在の敷地を魚屋から買い、昭和40年(1965)に郡是の繭乾燥場を解体・移築しました。転用材が多く、二度打ちや埋木など諸所に移築した痕跡が見られます。梁が太いのが特徴で、柱位置は郡是にあった当時と変わらないといいます。奥の平屋の工場は昭和50年(1975)頃の建築です。
現御当主は三代目で、斎藤家が織物業を始めたのは約60年前からで、当初は館町の北の方で営んでいました。郡是長井工場の繭乾燥場が、当初のままの構造で使用されており当地区の生業の様子をよく示す点で貴重です。
長井まちあるき物語 薬師寺薬師堂
山形県長井市。それは、水と緑と花の奥座敷・・・・・
ゆっくりと まちなみに ふれてみませんか・・・・・
魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい
(資料:長井市史、神奈川大学工学部建築学科 西和夫 長井市歴史建造物調査報告書、文教の杜)
薬師寺は、あら町地区の北西に位置し、敷地のすぐ西を木蓮川が流れています。境内の中央に薬師堂・本堂と北方向へつながり、南東に位牌堂を配します。それらの周辺には江戸時代における長井の文化を語る俳句・川柳などの文化人の墓碑類が数多く見られます。現当主の佐藤真琴氏は四代目で、佐藤家は大正11年(1922)に遍照寺の住職となり、その後、明治38年(1905)から薬師寺に移り、代々受け継いでいます。薬師堂には薬師如来・西国三十三観音像・不動明王など数多くの仏像が安置され、祭礼は8月1日、賑やかに行われます。位牌堂には、室町時代初期の作とみられる釈迦如来座像が安置され、「釈迦如来座像は、像高1尺8寸。木造、古色、彫眼、肉髻珠欠失、白毫後補。当初は彩色されていたかと思われ、もとは花作の釈迦堂の本尊であったが、釈迦堂が荒廃しので薬師寺に移された」と長井市史にあります。長井市の文化財に指定され、運慶作という言い伝えもあります。
構造は、木造、入母屋造り、鉄板葺き、妻入り。柱は四角柱、入側柱2本のみ円柱とし、外壁は白漆喰塗仕上げ、南面と西面には補強材として上から竪板を張っています。長井は西風が強いため、平成になってから張り付けられました。側廻りは足固貫(ぬき)・内法貫・頭貫で固め、柱上に出三斗(でみつと)を組み、軒は一間です。東側正面に一間の向拝を設け、東側と南側に二方に板敷きの縁を廻し、南側縁の突き当たりには羽黒山の不動明王が安置されている小部屋が付属しています。不動明王は、西根の廃寺の際に破棄されかけたものをお坊さんが担いで運んできたといわれています。また、かつてはこの位置に脇障子(しょうじ)が付いていました。間口2間半、奥行3間の規模で、設計基準は真々7尺。建築年代は、御当主聞き取りにより明治6年(1873)です。薬師堂は慶応元年(1865)9月5日、明治5年(1872)4月12日の大火により二度焼失しています。また、この堂には慶仁2年(1468)の扁額や寶暦12(1764)の棟札なども確認できたが、それらは寄進されたものだといいます。
内部は、天井を竿縁天井。畳と天井は近年張り替えたもので、向拝も近年になってから作られたものです。生活の利便性を考え、薬師堂の北側一部の壁をガラス戸に変え、本堂とつなげられています。舟肘木(ひじき)が途中で切れているものがあり、以前は建物がそこまでしかなく、あとは外部であったことが考えられます。
「長井薬師堂は、奥羽三十六薬師霊場のうち二十八番霊場です。薬師如来は大医王と呼ばれ、東方にある浄土におられ、瑠璃(るり)と呼ばれる宝石がごとく美しく輝いている世界の主人公。ここの薬師如来像は普通の像と異なり、胎蔵界大日如来そのものが薬師如来の姿として衆生を救うお姿と思われます。手の印相が少し宝形に見え、薬壷の置かれている手のひらの中心に竹の釘が上向きに残されています。薬師如来の厨子(ずし)に天文24年(1555)の銘があります。
竹田太橘の句碑。幕末俳壇の老大家として、郷土俳諧の全盛期をリードした
長井古写真物語 59 ポスター2種 パート3
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み取ります。
花のながいシリーズのポスターを紹介します。いずれもデザインがおもしろい。
あやめとつつじを同時にPRしていました。「花の長井」をタイトルにしています。つつじは、蝶をモチーフにしていておもしろい。開花期を見るとつつじとあやめが逆になっています。直す前のデザインかもしれません。長井市の文字がありますので、昭和29年11月15日以降の制作となります。
昭和35年の制作ポスターです。長井のあやめと、表現するのはこの年代からです。
(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)