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長井古写真物語 63 つつじ公園 その3

  • 長井古写真物語 63 つつじ公園 その3

文教の杜保管の古写真から情報を読み取ります。

今回はつつじ公園・その3です。

 つつじ公園のシンボルである「七兵衛つつじ」の写真。北西からの撮影です。七兵衛つつじは明治29年に一部もらい受け、明治43年にすべてをもらい受け、現在の姿となりました。このときから「つつじ公園」と呼ぶようになりました。明治43年と言いますと、あやめ公園の開園した年と同じですね。つつじの本数は27本で現在は長井市指定文化財となっています。西側にある玉造りのつつじ4本は、指定文化財ではありません。残念ながら撮影年代は不明です。右奥に砲型の招魂碑と階段が見えますが、明治39年10月の整備、そして金属回収で撤去された年は、昭和18年9月4日です。昭和初期と考えられます。また、現在と異なるのは、植栽地の高さです。現在は、道路より若干の土盛り程度ですが、このときは小高い土盛りでした。写っている女性も着物姿ですね。

 

 皇大神社を東北の方角から映した写真です。境内を石柱で囲っていました。太い樹木は現在と変わっていません。神社東のつつじを植栽した築山と園路は現在と違っています。ベンチでくつろぐ男性も着物姿。

 

 皇大神社を南側から撮影した写真です。社殿も鳥居も現在のものではありません。現在の鳥居は、明治百年記念として昭和42年9月16日に建立されたものです。現社殿は昭和34年から35年に改築されたもの。境内の石垣の高さを現在のものと比べると高く、盛り土整地されたことがわかります。鳥居両側のご神木は今でも変わりませんね。

 

(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

 

2014.05.16:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 62 つつじ公園 その2

  • 長井古写真物語 62 つつじ公園 その2

古写真から情報を読み取ります。長井の昔を楽しんでください。

つつじ公園のその2です。

 つつじ公園南東から見た写真です。左側に「演芸館」が写っています。演芸館は、大正5年に山形市で開催された「奥羽六県連合共進会」の演芸館を移築したもので大正6年以降の写真となります。演芸館は、現在の文翔館(旧山形県庁)敷地内に音楽堂とともに設置されていたものです。演芸館の右側には「ひょうたん池」がありますが、いつ整備されたのかわかっていません。この時には、方形の公園が出来上がっていました。中央に茶屋が写っています。

 

 松ケ池に架かっていた「八千代橋」渡り初め前の写真です。中島に一行が待機しています。

 

渡り初め後の記念写真です。記録には、「昭和4年9月15日午前10時より、安部社掌の司祭の元、開橋式を行う。御大典記念の意を体して「八千代橋」と命名せらる。渡り初めに川崎氏母堂及両夫妻氏令息先導せらる。開橋初に参列せられたる諸氏は町長両助役収入役区会議員及区会議員候補者として推薦せられし諸氏なり」とあります。そして、参列された方々の氏名が記述されています。

 

(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

2014.05.15:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 61 つつじ公園 その1

  • 長井古写真物語 61 つつじ公園 その1

古写真から情報を読み取ります。長井の昔を楽しんでください。

 長井の花祭り、白つつじまつりが始まりました。つつじ公園は通称で、正式には松ケ池公園といいます。歴史は古く、あやめ公園より14年も前の明治29年に松ケ池公園として開園しています。市民、当時は町民と行政による開園で、往時のエネルギーが感じられます。

 

明治41年のスタンプが押されています。左に見えるのが「松ケ池」、右側に位置するのが記功碑を建立した築山、奥に見えるのが明治39年に建立された西置賜招魂碑が。この年から3年で整備され、区画も方形となりました。

 

明治30年に建立された紀功碑の後ろ側(東側)です。築山と築堤がつながっています。築堤も随分の高さがありました。四阿も。

 

記功碑のさらに東側にありました、明治39年の招魂碑。砲身型の記念碑のわきに、平成14年の強風で倒れましたポプラが立っています。右側に石柱がありますが、「五訓の森」の標柱です。ケヤキ・マツ・スギ・イチョウ・ヒノキの5種類が植えられました。現在ではその場所に「白龍山人菅原白龍先生碑」が昭和35年に建立されています。

(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

2014.05.13:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 60 両羽銀行

  • 長井古写真物語 60 両羽銀行

長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み取ります。

  両羽銀行は明治29年に創立、幾多の合併等を重ねました。そし昭和40年4月1日に山形銀行と改称しました。長井にはといいますと、明治30年3月29日、宮十日町に出張所が置かれ、明治34年8月には両羽銀行長井支店と改称しました。大正15年9月に栄町に移りましたが、写真がそれです。銀行のプレートが真新しく、玄関わきの立て看板には建て替えをするので迷惑をかけます、仮の建屋はと案内しています。

(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

2014.05.01:n-old:[歴史的建造物]

長井まちあるき物語 まるはち酒店

  • 長井まちあるき物語 まるはち酒店

山形県長井市。それは、水と緑と花の奥座敷・・・・・
ゆっくりと まちなみに ふれてみませんか・・・・・
魅力あふれる 深い建物を醸し出す風景に 足を運んで下さい

(資料:長井市史、神奈川大学工学部建築学科 西和夫 長井市歴史建造物調査報告書、文教の杜)


  まるはち酒店は、昭和13年創業で現在も酒店として営業しています。建築年代は創業と同時期とされ、御当主からの聞き取りによると「昭和初期に私の祖父が建てた」とのことです。22年くらい前に現在の状態に改修したが、柱などは動かさず、間取りもそのまま。建築様式から見ても昭和13年頃として矛盾がありません。
  店舗外観は、木造2階建て、入母屋造りの南面に切妻造りの屋根が接続しています。また西面には木造平屋建て、切妻造りの主屋が接続します。屋根は鉄板葺き。入母屋造の店舗北側は、軒先下に板を打つ洋風意匠ですが腰を下見張り、上部を白漆喰仕上げとする和風の意匠を見せています。店舗南側の軒先下は垂木(たるき)と野地板を見せる和風の意匠です。2階の建具は木製建具で、2階部分は外観、建具ともに当初のままとのことです。現在1階道路側は塗り込められ入口が半間下げて設けられていますが、これは近年の改修であり、かつて道路面に対して木製建具が入り、すぐに店に入れたとのことです。その様子は古写真からも確認できます。東面南側にはかつて主屋に繋がる玄関でしたが、現在は屋根のみ残っています。
  間取りは、東に店があり、西へ客間、寝室、茶の間、台所と続きます。店は、床・壁・天井ともに新建材で覆われていますが、構造はそのまま残っており、柱位置もそのままです。南側半間はかつて主屋へ繋がる玄関、土間でありそこから主屋へ出入りしていました。客間は6畳で、壁は砂壁。天井は敷目板張りですが、これは近年の改修によるものです。北面及び西面は7寸成(セイ・縦方向の寸法)の差物を使い、建具は腰板付き障子戸。南には現在簾戸(すど)が建てこまれていますが、本来は北面、西面同様の建具を建てていたとのことです。茶の間は10畳で西面中央に仏壇を置き、北側上部に神棚を置いています。壁は砂壁、天井は敷目板張り。茶の間はかつて8畳で、西側半間は廊下、もとは突き当たりに便所がありました。廊下と部屋境には他と同じく腰板付き障子戸が入っていました。柱は3寸6分角、設計基準寸法は1間を6尺3寸とする芯々設計です。
  2階は客間、4畳半、10畳の3室。客間は8畳で北面に1間幅のトコ、脇に地袋付きの棚があります。トコの壁は、黒砂壁、棚の北面は開口部としガラス戸が4本入っています。天井は棹縁(さおぶち)天井。壁は白漆喰仕上げ。
  店及びその西に続く主屋は改修が加えられているが、構造体はそのままであり、建物の配置は典型的な構成(店が道路に平行で主屋はそれに直行する)となっています。この地域の屋敷構えの様子や全体構成をよく示しており、昭和期に入ってもこの構成が踏襲されていることを示す点で貴重な存在です。

2014.04.30:n-old:[歴史的建造物]