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長井古写真物語 73 長井音頭

  • 長井古写真物語 73 長井音頭

古写真から情報を読み取ります。長井の昔を楽しんでください。「長井市文教の杜」に保管している古写真のコレクションを紹介します。

 

あやめ公園が山形県一名所に選ばれた昭和5年を境に、あやめに係る様々なものが町民の手によって取り組まれました。昭和8年にはあやめ会館やカフェ・グリーンホールが相次ぎ建設。長井音頭と長井小唄が発表された年でもあります。

写真は、長井音頭と長井小唄の発表会のワンカットで、演芸館で催されました。同時にレコードも発売。

制作企画が起こってから、山形新聞紙上で歌詞を募集し、選考の結果次のように決定しています。

長井音頭: 唄・分山田和香 作詞・佐藤信行 作曲・大村能章

長井小唄: 唄・松島詩子 作詞・新野武 作曲・森儀八郎 編曲・大村能章

 

ここに至った経緯がたいへん面白いので、昭和41年発行の「長井の歩み」から転載します。

「この二つの唄ができると、芸妓置屋組合長が積極的にこの発表会を昭和8年のあやめ期間中に催したいという希望を持ったが、いろいろ経費の関係から踊りを主とした発表会に止まった。昭和8年7月、長井音頭・長井小唄舞踊発表会の名で長井芸妓置屋組合、コロンビア特約店の主催で行われた。当日は舞踊振付者若柳吉佑の出演も約束されていたので、会場の演芸館は立錐の余地もない盛況だったといわれる。発表会は、三清の橋田栄助の開会の後、佐藤鶴吉長井町長と竹本の高橋栄太郎の祝辞によって始められ、満場の拍手の中に迎えられた若柳吉佑の長井音頭・長井小唄の振付説明があり、続いて竹本の芸妓による舞踊発表会その他が終わった。この青木庄吉・多田野清次(企画者)の新しい試みは結果的にみて、予想以上の好成績を収め、レコード(500枚制作)の売れ行きもよく、先達者としての苦労も報いられた」

 

写真は、長井音頭・長井小唄の宣伝舞台。野外で催された。

 

(トップ写真は文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

 

 

 

 

2014.06.12:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 72 あやめ橋

  • 長井古写真物語 72 あやめ橋

古写真から情報を読み取ります。長井の昔を楽しんでください。「長井市文教の杜」に保管している古写真のコレクションを紹介します。

 

あやめ橋は、あやめ公園の東に隣接する橋です。現在はありません。あやめ公園の東を通る道路は長井町と長井村を結ぶ重要な幹線でした。当時、成田・五十川に往来する重要な道路です。

 

この写真は、現在のあやめ公園水上ステージ北から撮られたもので、上部に「山形県一名所当選」の文字があることから昭和5年以降のものと考えられます。右側上に木橋がありますが、これがあやめ橋。その下には池をまたぐ八つ橋が写りこんでいます。小高い丘の上には四阿があります。

 

昭和14年7月6日、朱塗りのあやめ橋の竣工式と渡り初めが行われました。水上の四釜新太郎夫婦と記録されています。欄干に佇む日傘の女性、風情を感じさせます。写真は道路側から、あやめ橋とあやめ公園を遠景に取り込んでいます。

あやめ公園東のの道路を北に進むとあやめ橋をわたり野川に架かる「野川橋」に行き着きます。野川橋を渡ると成田です。この写真は、成田側から撮られたもの。服装も時代感がありますね。明治41年のスタンプがありますが、このころの時代でしょう。野川橋が現在の位置近くに永久橋となる時期は昭和33年です。

 

(トップ写真は、文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

 

 

 

 

2014.06.11:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 71 あやめ公園 長井市編 

  • 長井古写真物語 71 あやめ公園 長井市編 

「長井市文教の杜」に保管している古写真のコレクションを紹介します。

 

長井市のあやめ公園は明治43年に開園しました。長井町時代を経て昭和の大合併で長井市が誕生(昭和29年11月15日)します。以降、あやめ公園の価値が劇的に変わった古写真を紹介します。

 

この写真は、昭和37年7月4日の撮影。花菖蒲を見ていますが、日本花菖蒲協会が観察しているワンカットです。これまで、花菖蒲の品種と株数の多さを誇っていましたが、「長井古種」の品種が発見された時のものです。花菖蒲は江戸時代の旗本・松平菖翁が、みちのくから「花かつみ」つまり野花菖蒲を取り寄せ改良したとされていました。この長井古種の発見で、この花かつみこそ長井古種ではないか、と協会で検討され、今では江戸種の原種としての結論を下しています。つまり、長井古種は日本最古の花菖蒲であるということとなります。

 

噴水の右側に立て看板が設置されていますが、それには「明治神宮菖蒲園御分譲のあやめ」と書かれています。明治神宮から昭和38年に江戸系花菖蒲27品種200株を譲り受けたことを表すための表示板です。明治神宮の江戸種古花も大切に保存育種しています。

 

(トップ写真は文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

 

2014.06.10:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 70 あやめ公園長井町編 7

  • 長井古写真物語 70 あやめ公園長井町編 7

「長井市文教の杜」に保管している古写真のコレクションを紹介します。

 

長井市のあやめ公園は明治43年に開園しました。長井町時代(昭和29年11月14日まで)のあやめ公園の古写真を紹介します。

 

昭和23年に催された「あやめ復興祭」の看板。場所は、中央十字路北にあった料亭三清前。戦前のあやめ公園は、あやめを掘り起し野菜畑となったため、戦後早々復活すべくあやめを方々から集めて植栽しました。その復活を記念する祭りです。同じ年、野川堤防にも桜を植えています。有志の寄付により植栽され、今では美しい桜並木になっています。

 

(トップ写真は文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

2014.06.09:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 69 あやめ公園長井町編 6

  • 長井古写真物語 69 あやめ公園長井町編 6

「長井市文教の杜」に保管している古写真のコレクションを紹介します。

 

長井市のあやめ公園は明治43年に開園しました。長井町時代(昭和29年11月14日まで)のあやめ公園の古写真を紹介します。

 

昭和10年、築山と滝が造成され、その前でとられた写真。現在のあやめ会館の東側に今も涼しげな風情を残しています。

 

昭和12年には「あやめ公園開園記念碑」が、公園南側に建立されました。写真は、昭和12年7月11日に記念碑の除幕式後の記念撮影。右から3番目が句を詠まれた一人、大谷五花村で明治期以降の川柳大家です。残る二句は、飴ン坊、剣花坊でいずれも川柳の大家です。この記念碑は、平成12年に公園改造に伴い中央に移設されました。

 

 詠まれた句の拓本も紹介します。

 剣花坊

人去りて 地にむらさきの 詩が残る

 

 飴ン坊

魂は ゆかりの色も よみかへり

 

 五花村

名園の 花を生かして 絵雪洞

 

(トップ写真は文教の杜コレクション「ガラス瓶」です)

 

2014.06.06:n-old:[歴史的建造物]