元禄7年(1694)に最上川舟運によって宮舟場が設置されて以来、飛躍的に商人町へと変貌していった。明治に入り、その息吹でどのように長井は変わっていったか、年譜形式で紹介する。なお、明治初期には写真は見つからずご容赦いただきたい。
明治元年9月8日
| 明治と改元する
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明治2年
| 版籍奉還
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明治2年6月17日
| 米沢藩主・上杉茂憲も版籍奉還する。各藩主を「知藩事」に任命した。
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明治3年7月4日
| 小出の川崎玄子、77歳で没す
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明治3年9月19日
| 平民に氏(姓)を称することを許す
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明治4年7月14日
| 廃藩置県を布告。旧藩主はすべて東京に住まわせ、県知事は中央政府から任命。米沢藩は米沢県となる。
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明治4年9月
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興譲館に皇学・洋学・医学・筆学・数学の五科を置く。また、五郷学校を設ける。宮内・小松・荒砥・宮・小国。米沢学校掛かりで出張教授した。 宮郷校は藩庁から借りうけた青苧倉で、平均50人前後で就学率は25%位。5人のうち4人までが文盲だった。
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明治4年11月2日
| 米沢県を置賜県と改めた。初代参事・高崎友愛
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明治4年4月4日
| 戸籍制度できる
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明治4年
| 成田小学校、福蔵院の長屋を借入、成田小学校を開設
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明治5年1月29日
| 国民の身分を皇族・華族・士族・平民の四身分と定めた
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明治5年4月9日
| 庄屋・名主(米沢では肝煎)を廃し、戸長、副戸長を置く。
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明治5年4月12日
| 小出村大火、83戸焼失。午後4時四ツ谷から出火
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明治5年7月
| 小出に郵便取扱所開設
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明治5年8月3日
| 義務教育制度定める
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明治5年11月9日
| 太陽暦採用を布告
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明治5年
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時庭小学校、小出村に区学校を設け、宮・小出・泉・時庭・九之本・平山・中村の七ヶ村連合として各村に分校を設けた 泉・時庭は両村で一分校を営み、豪農3,4戸を選び交代に教場とした 明治7年、連合分校から離脱、泉・時庭合同の1校を設けることとなり、旧郷倉を校舎とし、校名を時庭小学校とした 長小関連では、明治5年小出置賜県第五大区小二区学校を設け、小二区管内七ケ村にそれぞれ区学校を設けた。位置は不明。明治4年12月、宮村の旧あおそ御蔵を借受し区校を開設したとも伝えられる。区内の分校は明治6年に廃止した。小出村は明治6年、本町に校舎を新築することで寄付を集め、明治7年落成開業した。
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明治5年12月3日
| この日を明治6年1月1日とし、以後太陽暦を採用
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明治6年2月
| 小出村本町に啓蒙学校創立
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明治6年
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下伊佐沢小学校、龍雲寺借入。8年まで 上伊佐沢小学校、山口清右衛門から借入。8年まで 歌丸小学校6月、正覚院借入開校。7年鐘寺借入、8年6月八幡の官林に校舎を新築 平山小学校、時庭小学校の場合と同じく、区学校の分校を設け、天神寺を借入。7年、分校を廃し天神寺に平山小学校を開設 九之本小学校、観音寺を借入分校開設、7年九之本小学校として同所に独立 蔵京小学校、6月白兎村と勧進代村合同で高国寺を借入蔵京小学校を開設。9月、稲荷神社の祠掌佐藤勇所有の長屋借りて移る。11年4月、勧進代村郷倉を廃して学校に転用。14年8月、白兎村は生徒通学の便宜から分離して白兎小学校を設置 蔵京小学校を勧進代小学校と改称した 草岡小学校7月、草岡村・河原沢村が連合して洞松寺を借入草岡小学校を開設 寺泉小学校7月、願誓寺を借入開校 五十川小学校7月、正寿院を借入開設。7年8月、高橋藤次郎宅に移り、9年4月から大道寺定吉宅を借りて学校とした。 白兎小学校、勧進代村と連合し6月、高国寺に蔵京小学校を開設、14年連合から分離して白兎小学校を開設、そのため校舎を新築 啓蒙学校、宮村学校を統合し啓蒙学校と称した。旧桑島眼科医院北側に
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明治6年6月3日
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大区小区制が実施(明治5年2月から実施された戸籍法による「区制」は、同年10月新しく「大区」「小区」に変わった。置賜県は「六大区・二十八小区」に分けられた。下長井の大部分は第五大区となり、長井市は小二区・三区に編入された。
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明治6年6月28日
| 夜午前2時ころ、十日町から出火、52戸焼失
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明治6年7月16日
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河原沢村と草岡村が談合して、洞松寺を借りて学校を設置する。14年7月、通学が不便なため分離、河原沢をわけ、新町(草岡)に新築する。
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明治6年10月29日
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貸座敷並び娼妓規則がうまれ、県内8箇所許可。小出村に10軒くらいあり。
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明治6年11月15日
| 今泉郵便取扱所開業(今孝左エ門宅)
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明治6年
| 佐々木宇右衛門が、器械製糸の工場(佐々木製糸場)を創設
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明治7年11月
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草岡村高世平次、郵便取扱御用申し付けられる。伊佐沢村皆川春吉、伊佐沢郵便取扱役を申し付けられる。
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明治7年
| 小出学校1月、小出学校と称した
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明治7年
| 川村利兵衛が、製糸工場を建設
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明治8年1月8日
| 小学校の学齢を満6歳から14歳までとする。
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明治8年2月13日
| 今後は平民にも必ず苗字(姓)を用いるべき旨布告
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明治8年4月
| 宮学校4月、宮村小出村の合併学校を分離し、宮村の宮学校、小出村の小出学校に分けた
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明治8年5月
| 今河小学校、今泉・河井が分離、長泉寺に設ける
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明治9年4月
| 官庁は日曜休日、土曜半休の制を実施
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明治9年5月27日
| 明治天皇東北巡幸に先立ち大久保利通東京を発
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明治9年6月2日 | 明治天皇東北巡幸に出発
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明治9年6月9日
| 大久保利通、成田・佐々木家の製糸工場を訪ねる
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明治9年6月12日
| 大久保利通、佐々木右エ衛門と菅原白龍、最上川を下る
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明治9年7月5日
| 上伊佐沢村と大石村を合併し、上伊佐沢村とする。
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明治9年8月3日
| 山形・鶴岡・置賜の三県を合併して「山形県」誕生。初代県令は三島通庸
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明治9年9月1日
| 山形新聞創刊(鳴時社から)
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明治9年10月18日
| 草岡、勧進代、寺泉の各尋常小学校を併合、中央に一校建てる
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明治9年10月30日
| 宮村第四屯所を宮村第五警察出張所と改称
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明治10年2月14日
| 宮村第五警察出張所を宮村警察署と改称
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