宮船場は、どのようになっていたのか。
長井橋の南側、現在、記念板が建てられているところがそれである。米沢藩は陣屋と上米蔵3棟(梁間3間・桁間18間、54坪の藏が3棟)を建て、近在の村々から上納される上米や平米を収納し、時機を見て正部や左沢まで下した。船屋敷の敷地は1260坪。陣屋には始めのころ、藩の役人が二名派遣され常駐し、蔵守役として上米蔵の監理にも当たっていが、江戸後期には一人に。
江戸末期の絵図が残っている。文化11年(1814)に上米蔵が焼失しているが、翌12年に再建されたものの絵図と考えられているが、そこには上米蔵が27.5坪の蔵2棟と45坪の蔵1棟、それぞれの取次で結ばれ、取次には船にのせるとき用いる20坪の竹梁場がある。米以外の物品を納めたと考えられている15坪の蔵2棟も。ほかに、蔵守個人所有の土蔵付き家・小屋2棟・馬屋があった。
長井橋の北側には民間で用いられた船場があり、宮から荒砥への街道を結ぶ渡場も置かれていた。
江戸末期の上米蔵図
長井市立図書館に「ふたり笠」という本がある。下長井紀行文だが著者は米沢藩士で俳人でもある鈴木二流だが、文化8年(1811)に親友である山崎ひろしと訪れた時の紀行文が面白い。文化8年2月27日に米沢を立ち、宮船場の上米蔵行った。船の乗り始めのことや検分の様子が記述されているのだ。その内容は次のようである。
「2月27日に米沢を出立した二人は、同日、小松の金子家に止宿、28日には宮村の新野某の家に旅装を解いた。そして29日には宮より左沢に下る船の乗り始めで、賑やかな恒例行事があるので、是非席に加わるようにと蔵守の大河原、吉川の二人が言ってよこしたため、早速その座に連なった。最初にお神酒をいただいた後、多くの船頭達は互いに酒を酌み交わし、歌をうたい拍手をとり賑やかな酒宴となった。かくしていよいよ船の乗り始めとなる。人々の乗った船は松川の流れに棹さし、船の中にもまた酒の用意がなされ、四方の景色もすばらしく、実に興味深い一日であった」と記している。
※写真は長井市史より