長井に目を移してみよう。元禄7年(1694)に久左衛門が最上川五百川渓谷・黒滝を開鑿、以来、宮舟場は米沢藩にとって最も重要な輸出入物資の集積地となり、宮舟場をひかえた宮村と小出村は商人町として飛躍的な発展をとげていくこととなる。
米沢藩は、糠野目・宮・正部、左沢の四か所に船付場を開き、特に宮・正部・左沢の三か所には陣屋を設けて、役人を派遣し船荷の積みおろしの監視にあたらせた。国境の大瀬村にば番所を置いて、船の積み荷を改めさせている。
宮舟場からは、米穀・材木・蝋などの品物が輸出され、帰り船には塩・砂糖・古手物・いさば物・鉄などの必需品が輸入され、郷土にもたらされた。舟場ができることによって、多くの店ができ、まちなみが形成され繁栄していくことが想像できる。安政3年(1856年)に中山町長崎も八坂神社境内に石造の手洗鉢を奉納したが、その側面に12名の寄進者名が刻まれている。その中の8名が小出の商人であった。その名前は大和屋弥輔・同徳次・堺屋常吉・槌屋利兵衛・桔梗屋与五良・白銀屋幸三良・岩城屋喜兵衛・枡屋熊蔵。舟場ができることによって、多くの店ができ、賑わいを見せていたに違いない。
中山町八坂神社に奉納された手洗鉢 12名の寄進者の内8名が小出の商人だ