長井のまちには古い建物が残っている。確認できたもので江戸時代の蔵であったり建物が確認できる。町屋が残存し、明治以降の建造物も多く残る。歴史文化を大切にする心が長井にはあるのだ。それでは、現在に通じる分岐点はいつだったのだろうか。
それは、元禄7年(1694)の江戸時代に始まる。白鷹町の黒滝開鑿によって、宮舟場ができたことから、大きく長井のまちが変貌していく。それまでは、小桜城など軍事的なものもあったが、それほどに大きく歴史にからむところではなかった。小桜城、遍照寺を中心とした街並みと白山神社を中心とした街並みがかたまりとしてあったといわれている。
約300年前から営んでいた丸大扇屋
最上川を利用した舟運は、平安時代から行われていた。しかし、置賜の地に入ってくるのは元禄に入ってからである。朝日町から白鷹町にかけての五百川渓谷、白鷹町の黒滝があって、舟が上ってこれなかったからである。米沢藩の物資は陸路を使い山形へ、須川を下り最上川へとつないで輸出入を行っていたのだ。また板谷峠を越え太平洋のコースをとるなど、大量輸送には大変な労力とお金がかかっていた。米沢藩内には松川(最上川)が流れているが、前出のとおり藩内からの舟場がなかった。当然、藩では藩内を流れる最上川から直接しかも大量に酒田まで荷を下す必然性が生まれてくるが、そこに着目した人物が現れた。その名は「西村久左衛門」。通船を阻んでいた白鷹にある黒滝を開鑿し、下流の左沢から長崎までの航路を拓こうとしたのだ。