平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。
長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。
医療機関の大正3年と昭和9年
大正3年の地図
大正3年発行の町勢要覧「新装のながい」の地図では、医療関連のものは二か所のみ。小出に「紺野歯科医院」、宮に「寺島薬局」しか、見当たらない。データとして次の医師が掲載されている。宮に「外田修・長沼永安・中條周資」の三医師。小出には「豊竹親勝・佐藤信行(八起堂)・紺野文兵衛)の三医師、計6人の医師がいた。行政の病院は、当時なかった。
昭和9年の地図
昭和9年にようやく「長井公立病院」がでてくる。
昭和3年11月、長井町・長井村・西根村・平野村・豊田村・伊佐沢村で「長井町外五カ村伝染病院組合」を設立、昭和4年11月に各々に設置していた伝染病院を一か所で運用する「共立伝染病院」が現在の場所に完成、診療収容を始めた。しかし地域住民から一般診療の病院設立の強い要望があり、昭和14年2月、伝染病院と併設で治療管理・診療棟とを建設した。昭和14年3月28日に名称を「長井公立病院」に改称、一般診療を開始。この日が「開院記念日」となる。
完成当時の桑島眼科医院。昭和2年、初代桑島眼科医院院長・桑島五郎が洋行を取りやめてまで擬洋風建築の医院を竣工した。当時の新聞には「純洋式鉄鋼コンクリート二階建てにして高層巍々たるもの・・・」と紹介された。当時のお金で1万6千円、石造りに似せた人造洗出し(御影石・黒霞)、ゴシクック建築の名残の棟飾りやドーマーウインドウなどに特徴があるが、木造建築である。間口7間、奥行4.5間で総二階建て、延べ面積242.2㎡、高さ10mと堂々としている。設計図や仕様、設計者、棟梁などの資料がそろっていることも特徴の一つだ。
昭和6年竣工、小池医院の写真。重厚な一階部分自然石洗出し外壁の上に、木の骨組みにリズミカルな斜材、円状の木装飾が並ぶ「ハーフティンバー」の二階部分、その上に急な勾配を持つ大屋根、突き出た八角形の望楼がそびえる。当初は左奥の玄関部にバルコニー付ポーチがあった。こちらも設計者や施工者、棟梁などの記録が残る。延べ面積は237.6㎡、高さは11.5m。
桑島眼科医院は道路に面して横に、小池医院は道路に面して縦に建てられ、両建物は曳き移転された。場所を変え、今も見ることができる。