西置賜郡役所物語

  • 西置賜郡役所物語

 江戸から明治に変わり、世の中が急変した時代があった。その時代を象徴する建造物がこの郡役所である。山形県には11棟建てられたが、現在は6棟残っている。中でも、「西置賜郡役所」は県内で最も古く、全国でも2番目に古い建物である。
           (資料:山形工科短期大学校 小幡知之「旧西置賜郡役所の概要」、文協の杜)

 
江戸幕府から政権を引き継いだ明治政府は、中央集権による国家体制確立のため、中央及び地方の行政機構の整備を急ぎ、旧来の諸藩における行政機構を大きく改変した。山形県でも藩・県の統廃合、大区・小区制の採用を経て、郡の設置と郡役所の建築が行われた……。

  旧西置賜郡役所の歴史をたどってみよう。明治初頭、日本政府は全国に「県」を置き(廃藩置県)、現在の山形県はには山形・置賜・酒田の各県が置かれた。また、各県には大区・小区が置かれ、置賜県には六つの大区と28の小区が配された。その後明治9年8月、置賜県は山形県として合併、このとき大区・小区も再編された。現在の長井市の大部分が該当する第九大区小十区に区役所を設けることになったが、その建設費は、ほとんどを地元が拠出するというものであったため、建設位置を含めて各村の思惑が絡み合い、着工までには数年の時間を要することになった。
 明治11年7月、郡区町村編成法が発布されると、この長井市付近一帯(伊佐沢地区を除く)は西置賜郡に合併され、郡として役所を建設することとなった。そのため、この段階まで着工していなかった(着工寸前だった)第九大区小十区役所建設を郡役所建設に振り替えることとし、明治11年11月、県内の郡役所としては最も早く、西置賜郡役所が完成した。
 その後、明治22年4月施行の町村制を経て、大正12年4月の郡制廃止まで、隣接する郡会議事堂(明治22年新築、明治44年10月改築)とともに、西置賜郡の行政の中心となった。郡制廃止後は、山形県や国の様々な出先機関として使用されたが、昭和17年7月、西置賜地方事務所として使用が開始、昭和56年12月に西置賜合同庁舎(現置賜総合支庁西庁舎)が竣工すると、ようやく地方行政庁舎としての役目を終え、昭和57年4月、敷地とともに長井市に譲渡された。その後、昭和59年4月には建設省東北地方建設局(現国土交通省東北地方整備局)長井ダム工事事務所として使用されたが平成元年5月、同事務所が館町北地内に建設した新庁舎に移転した後、民俗資料等収蔵施設として教育施設に位置づけられた。
 昭和62年1月には、文教の杜構想策定委員会から市長に対し、歴史的建造物を活かした整備をするよう答申が行われた。市では平成8年3月、市指定文化財に指定、平成15年には第二期の修復工事、平成22年に第二期修復工事を経てオープンとなる。平成16年には愛称を公募し「小桜館」となる。

□明治2年  版籍奉還
□明治4年  廃藩置県
□明治5年  大区・小区制成立
□明治8年  山形県・鶴岡県・置賜県が併存
□明治9年  3県が合併、現在の山形県が成立
□明治11年  7月22日、郡区町村編成法公布。大区・小区制を廃し、代わる地方単位として新たに郡・区・町村を設定、郡には郡役所を置いた。

郡役所とは  当時の郡は、県と町村の中間の行政単位であり、郡役所は地方官僚機構の末端であって、県庁の統治下、主として町村の指導監督にあたった。
□明治11年  11月1日、山形県で県内を11郡に分ける布達。明治14年にかけて、各郡ごとに棟、合計11棟の郡役所を設置。
 全国には39棟(平成16年現在)の郡役所が現存。最も古い旧安積郡役所の明示7年建築。次が旧西置賜郡役所で明治11年建築である。全国の現存郡役所中、最初期のものである。
 
西置賜郡役所

建築年代 起工:明治11年7月4日以降  竣工:明治11年11月20日以前
○明治11年7月4日 第9大区の区務所を宮村に新築すると決定。
○明治11年11月1日 宮村に西置賜郡役所が設置されることとなる。

 宮村に建築される区務所が新たに郡役所と定められる。
○明治11年11月20日 新築落成・開所式の通達。

  西置賜郡役所は、当初第9大区区務所として計画されていたが、その後郡役所として建築される。工期は4ヶ月、建築費は4,518円であった。



建設当初の写真  菊地新学  山形県立図書館蔵
   
構造形式 
現状
・木造 一部二階建。一、二階とも寄棟造、トタン葺。明治初期洋風建築。一階桁行15間、梁間4.5間、建築面積69.6坪。
・外装  壁は下見板張り。一、二階とも隅に隅柱。軒周りにデンティル(歯状の装飾)、軒蛇腹。基礎は外周に布石基礎2段積み、床下は野面石に束立とし、基礎の上に土台。壁は大壁造。小屋組は一、二階とも真束小屋組。玄関周りは、石製ベースの上に大面取り角柱。窓は額縁付で、一ヵ所のみ上げ下げ窓が残っていた。二階正面中央の開口部にファンライト。玄関左方に庇付きの出入り口があり、庇の持ち送りに社寺風の意匠が取り入れられている。
・内装  床板張(斜め張り)。幅木。漆喰塗りの天井蛇腹。天井の一部に紙張りの跡が残り、紙張り天井であった。壁は、木摺(す)り下地漆喰塗壁。

古写真から(明治13年頃)

  • 屋根  桟瓦葺(さんかわらふき)。
  • 窓   全て上げ下げ窓。
  • 玄関ポーチ  桟瓦葺の庇が載って軒蛇腹とデンティル(歯状の装飾)を廻し、庇上部はベランダ。ポーチの柱間には水引虹梁(こうりょう・虹のように反りがある梁の一種)が架かり、虹梁には渦・若葉の絵様が彫られ、また虹梁鼻を木鼻風にしており、社寺建築の意匠を多用。
  • ファンライト  玄関上部、二階のベランダの二箇所。
  • 彩色  壁面・柱・額縁に彩色。柱・額縁の色は濃い。
  • 別棟  向かって左方に現存しない別棟。当該部分の現状は、南東隅柱に仕口跡。土台・布石基礎にも吹き込み。この部分の下見板張も明らかに後補。別棟が接続していたことが判明。

彩色

 

 

  • ペンキが何層にも重なっていることが判明。長期間に渡る塗り直しによるもの。
  • 彩色跡
  下見板張や内部階段の手摺り子、親柱などに群青に近い青色を検出。隅柱から茶色を検出。
 
西置賜郡役所の重要性

 

 

 

  • 山形県における郡役所建築は、その建築史上の研究価値はもちろん、明治期の政治史、文化史を研究する上でも重要な価値を有していて、山形県の明治初期の近代化を考える際、欠かせない存在。
  • 特に、西置賜郡役所は全国に現存する郡役所39棟中、建築年代が二番目に古く、県内に現存する四棟の中では建築年代が最も遡り、また、県内郡役所11棟の持つ建築的特徴と多くの共通点を有していて、明治初期の建築技術・意匠を知る上で重要である。また、県内11棟と比較して、社寺建築の意匠を多く採用している点が際立った特徴であり、県内での洋風建築の成立過程を検討する上で欠かせない存在である。

 

郡役所の変遷

明治41年発行の絵葉書


昭和29年11月15日(合併)以降。山形県電気局・山形県長井森林区事務所・山形県土木の表札がある。写真は合併後の議員記念集合写真


大正12年4月に長井土木出張所がおかれた 門柱頭部が変わっている

昭和57年まで地方事務所が使用していた


現在


郡役所細部

ポーチと2階部


ポーチ天井部


ポーチ柱間の水引紅梁(みずひきこうりょう)、紅梁には「渦・若葉」の絵様が彫られ、紅梁鼻を木鼻風にしており社寺建築の意匠を多様


玄関左の入口。庇(ひさし)の持ち送りに社寺風の意匠が取り込まれている


軒周りのデンティル(歯状の装飾)


ポーチ左から


ファンライト。玄関と2階ベランダに


石畳について

 

 

  • 平成19年4月18日、旧西置賜郡役所前方(東方)から石畳が出土した。
  • 長さ57尺、幅9尺2寸、厚さ4寸。凝灰岩(高畠石)切石を敷き詰めたもの。風蝕、破損が激しい。
  • 門柱・柵の礎石と思われるものも出土。
  • 埋設時期不明。アスファルトによる表面の補修跡があることから、近年か。
  • 石畳の東西軸が旧西置賜郡役所の南北軸に対して直交していない。歩行者は斜めにアプローチすることになる。
  石畳を東に延長すると、現在の大町通りへの道とほぼ重なる。大町通りへの道の東西軸線上に立って旧西置賜郡役所を見ると、石畳は直線になるが、建物が若干斜めになって見える。明治13年当時の写真も同様のアングルで写っている。明治13年当時から石畳は建物に対して斜めになっていた。今回出土した石畳は明治創建当時のものと推測される。
 表通り付近で目地が乱れる部分がある。表通り前方部分は当初工事後に敷き換えした可能性がある。

 

2013.08.28:n-old:[歴史的建造物]