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長井古写真物語 44 最上川堤防千本さくら

  • 長井古写真物語 44 最上川堤防千本さくら
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 これから、長井の桜群が咲き競う時期を迎えます。最上川千本桜の古い写真を紹介しましょう。この写真は長井駅から東に直進した突き当たりの場所です。
 大正3年に植栽されたもので、当時は「大正天皇御即位記念桜」と呼ばれていました。立原和愛、桑島治三郎、中村現蔵が発起人となり、旧堤防南古川橋から長井小学校東まで苗木が植えられました。特に、白つつじ公園の東側堤防沿いには、すぐに花見ができるよう、吉野桜や八重緋桜の成木が植えられました。植栽の間隔は4間(7.2m)。昭和8年に、当時の建設省直轄工事として堤防の改修計画が立てられ、桜を伐採し改築堤する運びとなりましたが、行政の強い要望により残されることになりました。大東亜戦争中では、燃料不足から全部を伐採することになりましたが、終戦を迎え、残存しました。これが今観られる桜です。

 また、対岸の桜も見事ですが、こちらは昭和13年から3年かけて植えられた桜です。




 さくら大橋東から撮影された写真です。これは、東岸の小堤防築造を記念し、また西岸の桜に対峙するよう計画され、将来の観光地を目指しました。経費は長井町の公園予算から100円づつ3年間支出、労力は金井神青年会の土屋善五郎氏ら、無償協力を得て泉山から諏訪堰までの2キロメートルに5間(9m)間隔で植栽されました。
 昭和30年代前半の写真、桜はまだまだ細いですね。いずれも樹種はソメイヨシノです。


(トップ写真は、文教の杜コレクションのガラス瓶です)

2014.04.01:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 43 ときわ館

  • 長井古写真物語 43 ときわ館
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 現在、ヨークベニマルが立地する前にあった映画館「ときわ館」です。掲示ポスターから昭和61年の撮影と考えられますが、昭和63年にはタウンセンターとしてオープンしました。ときわ館は、昭和3年夏に開館し、そのときの映画は日活の「地雷火組」で出演者は大河内伝次郎、河部五郎、酒井米子等の名優でした。
 開館した人は、菊水館のオープン時に米沢から出張映写された小林氏で、開設当時は第七ときわ館として営業していました。昭和7年ごろには今泉に第八ときわ館を新設しましたが、昭和18年に神奈川大船の海軍軍需工場にするため買い上げられ、姿を消しました。
 ときわ館新設当初の昭和3年には、菊水館と演芸館の3館があり娯楽の少ない時代に多くの楽しみを提供していましたが現在は1軒もなくなりました。

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2014.03.12:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 42 菊水館

  • 長井古写真物語 42 菊水館
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 菊水館は長井駅前に大正12年に開館した長井町初めての常設映画館です。同年9月3日に上棟式、10月落成、11月上旬に杮落としを兼ねて開館されました。創設の主唱者は大町の外田修氏で健全映画館の必要性を説き、宮地区を代表する顔ぶれが名を連ねた株式組織を立ち上げオープンにこぎつけました。
 上映に当たっては、米沢で常設映画館「ときわ館」を営業していた小林氏に依頼、ピアノ・フィルム・映写技師・弁士・映写機など一切を持ち込んで毎週2回出張上映をしていました。翌大正13年には松竹・日活と契約、常時上映となります。長井はもとより飯豊・白鷹からもぞくぞくと訪れ活況を呈しましたが、その後経営難となり、貸館制をとり経営者が変わっていきますが、戦後テレビの普及によって映画館は斜陽化し昭和49年5月、閉館しました。

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2014.03.11:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 41 郵便局

  • 長井古写真物語 41 郵便局
長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 この郵便局は長井郵便局舎で、昭和7年に改築されたものです。本町通りの旧小池医院北側にありました。
 郵便事業は、長井の開局が明治5年7月1日で、小出粡町関野宅を小出郵便取扱所として開設したことが始まりでした。その後明治8年8月には小出郵便局と改称、あわせて郵便為替業務を開始しています。明治22年、小出電信局を合併して小出郵便電信局と改称。明治36年4月、長井郵便局と改称し小出本町に局舎を新築します。この局舎の写真はまだ見当たりません。明治43年には電話通話事務と交換事務を開始、大正5年には簡易保険事業開始、大正15年には郵便年金事業を開始しています。
 昭和7年7月、局舎が狭隘となったことから写真の局舎を建築、昭和37年まで使用されました。昭和25年普通局に昇格、電信電話業務を分離して長井電報電話局とし、電話局舎は昭和32年7月完成し移転しました。
 郵便局舎も、昭和37年10月1日に栄町(山形銀行南)に新築移転、現在はままの上(市役所南)に再移転しています。


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2014.03.07:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 40 長井公立病院

  • 長井古写真物語 40 長井公立病院

長井市文教の杜に保管されている古写真を紹介します。一枚の写真から情報を読み込みます。



 昭和3年11月、長井町・長井村・西根村・平野村・豊田村・伊佐沢村で長井公立病院組合を設立。そして昭和4年11月各々に設置していた伝染病院を一箇所で運用する共同の伝染病院が現在の場所に完成、患者の収容を始めました。
 しかし、地域住民から一般病院設立の強い要望があり、伝染病院と併設で新築することになります。昭和14年2月には、一般患者を収容し治療を行うための管理・診療棟と一般病棟が完成。昭和14年3月28日に、名称を「長井公立病院」と改め、一般診療を開始しました。この日が開院記念日となる訳ですが、その後長井市となってから「長井市立病院」、昭和39年4月1日には「「長井市立総合病院」となっていきます。
 長井公立病院の初代院長は志田蔵之助氏で診療科は内科・外科・眼科・耳鼻咽喉科・産婦人科・小児科で51の病床を備えていました。


(トップ写真は文教の杜コレクションのガラス瓶です)

2014.03.04:n-old:[歴史的建造物]