長井のさくらと記念木物語
長井市にも多くの桜が植栽されています。4月には市内かしこで愉しむことができます。先人は昔から多くの桜を植えてきました。桜などがどのように、いつ、どんな思いで育てられたのでしょう。当時の記事をそのまま掲載します。
〔出典:長井新聞 発行者:平田孫蔵 昭和31年から32年 文教の杜収蔵〕
十王堂の桜 満鉄副総裁・佐藤応治郎の祖先・門右エ門家が献木。エドヒガン。
久保の桜 当時、小屋の茶屋や舞台に葦張りの出店があった。耕作も根元近くまであったので、故鈴木琢磨・伊佐沢村長が天然記念物の指定(大正13年)を受け、根回りの耕作を禁じた。周囲に桜苗を植えた。
根を踏まないように木道を設置
東置賜郡伊佐沢村発行の絵葉書
周りの桜 大正13年
宮の白山神社境内の桜、あやめ公園高台の桜 明治37,8年(日露戦争明治37年~38年)後に細い苗木を植えた。また明治12年、長井市年表(発行:長井市立図書館 昭和46年3月20日)によれば、あやめ公園高台にに桜苗木50本を植えたとされる。
宮白山神社
あやめ公園高台東
あやめ公園高台中央
あやめ公園高台西
小出公園の桜 日清戦争招魂碑の土堤の桜は日清戦争(明治27年~28年)前に松が池を掘って(明治17年)始めて公園を造ったとき植えられた。吉野桜。他にあまり無い種類であった。
現白つつじ公園(野呂川沿い)
最上川西側の大正天皇即位記念桜 大正3年、立原和愛・桑島治三郎・中村現蔵が発起人。旧堤防南古川橋から小学校東までに苗木を植えた。中央部小出公園の東に面した所は早く花を観るため、有志で献木した。昭和8年、建設省直轄工事の堤防改修計画があったが、佐藤鶴吉長井町長が陳情し、皇室に関係することで残された。最初4間(7.2m)おきに植えた。大東亜戦争時、履物資材などの困って全部伐採の憂き目にあったが、終戦を迎え、現在の桜だけが残った。
現在の千本桜
昭和の絵葉書。周りはたんぼだった
外田山の桜、中学校(現長井高校)の桜、女学校(置賜西庁舎)の桜、郡是製糸工場の桜 大正に入って植えられた。
旧長井中学校(現長井高校)
旧女学校(現置賜西庁舎)
郡是
最上川と外田山の桜
駅前通りの桜 大正3年長井線開通時に両側に街路樹として植えられたが、11月15日の開通式に邪魔になるので、抜かれてしまった。
長井駅前。生き残りかもしれない
外山公園の桜 外田医師の先代修翁が晩年の事業として八幡社の階段北側山頂きまで歩道をきり開き桜苗を植付崩潰箇所には土止めの石垣まで作り、春秋に手入には翁自ら指揮監督し元遍照寺の所有であったが、全部買受け一切の費用を自弁して町や他人援助を求めず立派な外田山公園を創り上げられた春爛漫の花に秋の紅葉と都下。最上川の流れに長井橋遥かに白川野川の清流と西山南飯豊の秀峯から、葉山連峯の朝日山系に連なる間に長井郷平野の一眸に納まる風光は、もし京に在れば嵐山を凌ぐとも思われる。
石垣
三吉神社の桜 西根村勧進代。大正時代。青年会平林助らが、山桜の苗木数百本植え三吉公園とした。大群のウソに数年襲われ、枯れてしまった。
あやめ高台下の桜 昭和の時代、公園を拡張して高台下に植えつけたが、地下水が高くよく育たなかった。
現あやめ公園南口前
長井小学校の桜 昭和。昭和9年の記念石碑あり。長井小学校の桜ですが、道路に添う桜並木は皇太子誕生記念として小出本町振興会会長竹田嘉兵エ氏が西根村から成木した若木を運んで来て植付けたのだが、中央の一本の大木は長井大火(大正六年)後に新築した協同薬品会社長井貨物会社(現長井市役所西南)などの敷地に在った校舎を移転する前に周囲沢山あった桜を皆切倒すは、あまりにも惨いとその内の一本を私の父辰蔵が運送店の従業員を引き連れ第三部消防組の協力を得て道路を引きずり移植したのだが、幸いにも活き着して生き残つたもの。
現在
昭和8年(1933)の建造。木が少ない
東側の桜
旧校庭から移った樹木は他に玄関前の池の松と附石(中道の故原与三郎氏寄附)丈けが残つてるのであります。
中央の松
附石
尚周囲や校舎の間に植てあるのは戦前親緑会が校庭緑化運動を起こして児童に緑かげをあたえ将来「大樹仰いで英方を待つ」とのモツト―で私と故加藤運助氏(登城町)平重助(舘町)黒沢徳蔵(新町)小学校開校以来の卒業生に呼びかけ遠くは満鉄副総裁故佐藤応次郎氏を始め一人拾銭以上の寄附金を全卒業生から集めて、元奉安庫の境内と校庭に樹木代は勿論耕土は勿論耕土人夫一切を負担して植付けた事業の一部であります。
玄関側の高い黒松は昔の富豪山五屋敷にあつたものを、時の所有者浅立奥山源内氏の寄附により生徒が手伝で二日がかりで曳き移植したもので、その他竹田清五郎、竹田嘉兵エ、海老名喜兵エ氏等有志が植付け寄贈されたものもある。
黒松
長井小の松林 グラウンド南の松林は時の町会議員丈けで各一本づつ下伊佐沢から運んで寄附されたもの。現在16本、枯株は5。
議員松と呼ばれている
最上川東岸の桜 昭和13年から3年。最上川改修工事の際耕地が僅少なので東岸には堤防の設計がなかつたのだが、町が陳情請願を重ね用地無償提供することとして、小川氾濫防止として現在の東岸小堤防が築造され尚時の最上川上流改修事務所長大温政次郎氏長井工場長故玉木又蔵氏の特別の詮議により金井神前、掃出前などの低湿地は立派な耕地に盛土していただいた。大工事が長井町地域から県政までいつてあつたので之を将来に記念し、かつ大正天皇即位記念桜と相対待する将来の大観光地を創るべく時の町長横沢仲右エ門氏の快諾を得て、当時あやめ、つつじ両公園費予算は共に五百円づつと云う僅少なもので其内つつじ公園費の内から百円を割愛することを公園委員の承諾を受け、昭和十三年より三ケ年計三百円の経費で労力は金井神青年会竹田力助君土屋善五郎君以下の無償協力を得て上流豊田村泉山下より現諏訪堰までの略二キロ五間(9m)の間隔に吉野桜苗を植えた。
最上川の改修は、昭和8年から9年までの2年間で竣工、上記のとおり「最上川改修記念桜」として植栽された。
金井神青年会が植える
古コク蔵山下の黒松 黒松は弟草刈政蔵が寄贈してくれたのを道路拡張で掘りおこされた山裾の禿かくしにと植込んだのであります。遺憾なのは昭和十七、八年の洪水で欠潰したのでその後戦争中で復旧出来ずに途切れしまつたそのままの姿。
松川橋から白川合流までの桜 昭和二十九年上流松川橋より両岸山裾にすでに五百本の桜苗を豊田、伊佐沢両青年団の協力で植付けあり工事進行を追つて桜苗を植え続ける計画を以て居り、将来は途中箕輪切開きに因む伝説高い岩切不動尊や久保の桜など観桜循環コースにしたいと考えて居ります。
管野ダムまでの桜 野川ダム未だ試植時代だが二十九年第一期工事竣工したので併せて将来の大観光地を創りたい目的で、協力会では左岸平野地区にと右岸西根地区発電所周辺から管野ダム迄の地帯に桜二千本とダム対岸に高尾の紅葉苗五百本を両地区青年団の協力を得て植付てありますが、雪害で成育するか種類の適否兎の害等の如何と試して居ります。
あやめ公園桜調べ 平成25年4月9日
太い 細い 計
高台 11 8 19 高台は明治38年後と大正8年
高台下 2 7 9
園内 27 9 36
堤防 33 0 33 昭和23年
計 73 24 97
HOME > 桜
長井のさくらと記念木物語
2013.06.20:n-old:[桜]