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あやめ公園の成り立ち 7 最終

  • あやめ公園の成り立ち 7 最終

昭和37年、あやめ公園の名前は変わらないが、大きく変貌した公園。希少な「長井古種」の発見は、古種保存園として全国の花菖蒲愛好家から注目を集めた。昭和38年には長井踊りのきっかけともなった、三橋美智也の「長井盆唄」も発表される。以降、公園も形が変わっていった。

 

現在のあやめ公園

 

公園は、昭和40年3月26日に都市公園になる。昭和41年、あやめ公園高台を整地し公衆トイレも整備した。昭和48年、これまで無料であった入園が有料となった年だ。市民は入園料を免除し、市外の観光客からいただく方法をとった。受け入れ施設として新しく「あやめ会館」を建設する。あやめ会館は最初は昭和8年、民間で整備、次に長井町で築山西に整備されている。3代目の会館は当時は団体客を重視した構成であったが、42年たった今建て替えを迫られている。翌昭和49年には無料休憩所、トイレを整備、高台にも昭和54年に無料休憩所を整備するなど次々と改修していった。昭和50年には乗務員休憩所、中央口の入園料徴収所を整備。昭和55年には、あやめ公園開園70周年にあたり築山の北にモニュメントを建てる。作家は長沼孝三氏。昭和61年、物産館を整備、平成4年には公園の約半分を改修する大事業が進められ、現在の公園とほぼ同じ状態となった。平成12年、昭和12年に建立された「あやめ公園開園記念碑」が園内中央部に移転、「山形県一名所」記念碑と共に並んで佇んでいる。

昭和55年に建立されたモニュメント 右にモニュメント、中央に長沼孝三氏

 

観光事業についても大きく変化していった。昭和51年、ミスあやめコンテストの第1回が開催された。昭和58年、独立国ブームを受けて「あやめおとぎの国」のイベントが繰り広げられ、多くの観光客と市民でにぎわった。

 

ミスあやめコンテスト 第1回は地元長井からの参加はいなかった

昭和61年、第11回で幕を閉じた

 

昭和58年の事業、あやめおとぎの国で使用された紙幣 500フローラ  

2015.07.01:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち 6

  • あやめ公園の成り立ち 6

 

昭和37年7月4日、花菖蒲の世界で新品種が発見された。それまでの一般的なあやめ公園から、「長井古種という新品種が保存されているあやめ公園」として全国に知られていった・・・ その歴史をたどってみよう。

 

長井古種は希少で貴重な花菖蒲の品種となった。花菖蒲は、江戸時代後期に品種改良され今に繋がるが、日本に自生している「ノハナショウブ」を改良したとされている。しかし、ノハナショウブから園芸種のハナショウブまでを改良することは、江戸時代の技術では不可能とされた。そこに「長井古種」が発見されたわけで、これこそが江戸に運ばれて改良されたとの見方が現在の考えだ。つまり「ノハナショウブ」と「ハナショウブ」の中間に「長井古種」が位置しているということである。それまで花菖蒲の系は「江戸系」「伊勢系」「肥後系」の三つだったが、以降「長井古種」が加わり4系となった。

 

長井古種として名付けられた第1号 「野川の鷺」 すべてがこの花から始まる

 

長井のあやめ公園は、以降、日本花菖蒲協会の鑑賞園に指定されている。

昭和38年には、名園である明治神宮から江戸種の古花27種200株を譲り受けた。この古花も園内に大切に保存されている。

 

 

昭和46年、朝日新聞社から「花菖蒲大図譜」が発刊された。本格的な花菖蒲図譜の発行で監修を日本花菖蒲協会が行っている。図譜には長井古種15種が掲載された。

昭和53年6月、日本花菖蒲協会会長・平尾秀一氏から寄稿いただいたものを掲載する。平尾氏は昭和37年以降、幾度も長井を訪れ、育成に指導をいただいた。

 

          日本花菖蒲の源流 長井あやめ公園の古品種

花菖蒲は古来、あやめともよばれ、桜と共に世界に誇る日本固有の名花であります。長井あやめ公園にも、明治神宮から特に分与を受けた品種を始め、多数の美花があります。

さて今日全国各地で季節を飾っている花菖蒲の品種は、江戸時代に旗本・松平菖翁がみちのくから「花かつみ」すなわち野花菖蒲を取り寄せて改良したのが始まりと伝えられています。

ただし、ここで言う「花かつみ」は今日、私達が山野で自生をみる野花菖蒲と同じであったとは考えられません。今日、野花菖蒲と松平菖翁が遺した花菖蒲の間には、花の色彩や形や大きさにおいてあまりにも遠い隔たりがあるからです。

日本花菖蒲協会の権威ある先生方は、この点を種々の角度から検討された結果、今日あやめ公園に伝わる一群の古品種こそ松平菖翁の品種の元となったものであり、隔言すれば松平菖翁の品種と「花かつみ」を繋ぐものであり、むしろ「花かつみ」そのものではないかという結論を下しています。すなわち、長井あやめ公園の古品種は日本最古の花菖蒲であることが証明されたのです。

これらの品種は近年まで無銘のまま伝えられてきたのでしたが、長井市においては、以上の事情に鑑み、これらの花菖蒲に、小桜姫・長井小町・長井小紫・朝日の峰・郭公鳥・麗人・藍島・三淵の流れ・・・・・などの名を与え、今後永久に保存栽培すべく努力しています。

 

以上が起稿文である。今、長井市は長井古種34種、長井系24種を大切に保存育成している。

 

昭和46年に発刊された「花菖蒲大図譜」

 

 

図譜には長井古種15種が掲載されている 写真は「日月」「出羽娘」「麗人」「藍島」「三淵の流れ」

 

「長井小町」が1ページにわたり掲載されている

 

 

 

2015.06.26:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち 5

  • あやめ公園の成り立ち 5

戦後、あやめ公園の復興に力を注いだ長井では、大きな転機を迎える・・・・ その歴史をたどってみよう。

 

戦争で荒れ果てたあやめ公園を、多くの人々の協力で徐々に蘇る。昭和29年にはあやめ会館を整備し、同年1町5カ村が合併、長井市が誕生する。そして、公園にとっては大きな転機を迎える昭和37年。

 

現在の花菖蒲の元と考えられている「長井古種」が発見された

 

日本花菖蒲協会の井上清会長、田阪美徳副会長、此田光助副会長をはじめ、三十余名に方々が、長井あやめ公園に観察旅行で訪問された。それは昭和37年7月4日のことである。前日の7月3日には、長井あやめ鉢作り展示会の出品作220余鉢の審査会も行われた。その当夜の懇親会の席上で、地元愛好会から「ぜひ、今一度公園をご覧いただき、特色花を一品、記念に選出していただきたい」と申し出た。翌7月4日、三鹿野季孝、岩鶴一良、後藤和三郎、平尾秀一の各氏をあやめ公園に案内する。暑い一日であった。午後の酷暑の中で「珍しい花がある」「何種というのだろうか」「他所にはない花だ」との声が聞こえた。そこで花銘を着けていただくようお願いしたところ、先生方の協議の結果「長井古種」花銘「野川の鷺」で意見の一致をみたのであった。

長井古種の誕生である。トップに用いた写真こそ「野川の鷺」で、命名第1号である。そして三十数種の長井古種が発見されるが、それまで多くの品種が植栽された「あやめ公園」が、長井古種の発見で、希少種の江戸系古花よりも古い品種を保存している「あやめ公園」として生まれ変わることとなり全国に知られるようになった。

 

昭和37年7月3日朝 はぎ園 日本花菖蒲協会の記念撮影

 

 

 

 

2015.06.24:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち 4

  • あやめ公園の成り立ち 4

昭和5年に山形県一名所に「あやめ公園」が選出され、以来飛躍的に来園者が多くなっていった・・・・。その歴史をたどってみよう

 

昭和10年に整備 上部に「山形縣長井のあやめ 大瀑布」とある

 

昭和10年の長井駅前に設置された歓迎ゲート

 

勢いのついた長井町は、公園内に築山と滝を造成する。それが昭和10年だが、現あやめ会館の東側にあるのがそれだ。同年には、地元の歌を発表する。「恋のぼんぼり」と「あやめ踊り」だが、つつじ公園にあった演芸館で「東海林太郎アトラクション」興行も行う。東海林太郎は、当時抜群の人気を誇っていた歌手だ。昭和12年、「あやめ公園開園記念碑」が建立される。昭和10年に建立すべく活動し昭和12年7月11日、長井川柳社主催「あやめ川柳大会」で除幕式が執り行われた。この記念碑には、当時全国に名を知られた大家の句が句が刻まれている。井上剣花坊「人去りて地に紫の詩が残る」。近藤飴ン坊「魂はゆかりの色もよみかへり」。大谷五花村「名園の花を生かして絵雪洞。それぞれ揮毫がそのまま刻まれている。昭和13年、整備費用200円をかけて水泳場をつくる。しかし、第二次世界大戦に入り、昭和17年には園内を町民に貸し付け芋畑となってしまう。昭和18年、料理屋や貸座敷の転業廃業が相次ぎ、あやめ会館の建物も売却された。

 

長井駅前菊水館前の「東海林太郎アトラクション」宣伝風景

 

 

昭和12年あやめ公園開園記念碑の除幕式 右から3番目に大谷五花村

 

そして終戦、あやめ公園の復活に町民が燃える。芋畑となった公園を蘇らせようと、長井町内、近隣に協力を呼びかけ花菖蒲を寄付してもらった。明治神宮の花菖蒲も譲り受けた。昭和23年、多くの人々の努力と熱意で復活したあやめ公園、華々しく「復興祭」を行った。それを記念して、現公園北駐車場の野川堤防に桜を植えた。いま、見事な花を咲かせている。昭和27年、あやめ育成家が集まる「あやめ鉢作り愛好会」が結成されるが、この団体がその後のあやめ園の歴史を変えることになるのだ。あやめ公園の宣伝では、昭和28年に初めて県外にキャラバンを実施。宣伝カーに踊り子の乗せ、福島・仙台・郡山におもむき、長井踊りで宣伝する。昭和29年、11年ぶりにあやめ会館を行政で建設。同年、一町五カ村が合併し長井市が誕生した。

 

昭和23年開催 あやめ復興祭  三清楼前の看板 現きらやか銀行付近

 

あやめ公園復興を記念して植樹された 昭和23年

 

行政で建設したあやめ会館 初代のあやめ会館より小さい

 

あやめ会館広間 いろんな見世物が催されたのだろう

 

2015.06.22:n-old:[あやめ]

あやめ公園の成り立ち 3

  • あやめ公園の成り立ち 3

あやめ公園は、昭和に入ってから飛躍的に観光客が多くなっていく。それは・・・・。その歴史をたどってみよう。

 

あやめ公園の拡大に合わせ、昭和5年、山形新聞社主催「山形県一 十秀決選リレー投票」があり、果敢に長井町が挑んだ。それは、県内の観光地の県一を決めるもの。町あげての活動によって、見事「山形県一名所」となった。その記念碑は現在公園の中央部にあるが、このことが契機となって、多くのお客さんであふれることになる。また、中央にある噴水は、県一になった記念に整備されたもの。国鉄側も大々的に宣伝に乗り出す。その1枚が、今回観光協会で復元したあやめのポスターだ。長井駅に臨時列車が到着すると当時の佐藤鶴吉町長は、羽織袴で出迎え、歓迎の花火を打ち上げたという。掛け小屋も増え、最盛期には45もの見世物がかかった。

しかし、受け入れが不十分で、見世物と茶店はあるが本格的な会館はなかった。昭和8年高台南に、民間の北斗会が「あやめ会館」を建設。合わせて、高台西にはグリーン支店が出来、にぎわった。飛躍的な時期でもある。

 

現在のあやめ公園北口付近からの撮影 右中ほどに名所県一碑が写る

 

名所県一を記念して整備された中央噴水 中央に記念碑 

 

大正8年に建設されたあやめ会館 名称は公募で決まった

 

あやめ会館の北面

 

 

あやめ会館一階の平面図

 

 

グリーン支店 高台西にあった

 

 

山形運輸事務所で制作したポスター

 

 

2015.06.18:n-old:[あやめ]