「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦
慶長出羽合戦
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直江軍が登ったとされる富神山の山頂です。
最上軍の拠点である山形城を攻める際に、山頂から眺めようとしましたが、城には霞がかかって全く見ることができませんでした。 10日待っても霞が晴れず、その間に関ヶ原での石田軍敗北の報が入り、上杉軍は撤退を余儀なくされました。 そのことから、この山を十日見山(とかみやま)、そして山形城を霞ヶ城(現在の霞城公園)と言われるようになったとも言い伝えられています。 →「富神山」周辺のムービーはこちら 史跡マップ>>こちら ...もっと詳しく |
義光は、置賜・下長井地方に通ずる要衝の地である畑谷に、家臣である江口五兵衛を配置して置賜との境を守らせていました。
江口氏は東黒森山の尾根続きの館山に山頂を本丸として、各所に空堀を配した山城を築き、その任にあたりました。 直江軍は主力約2万を率いて荒砥から進撃し、山形城を目指して途中の畑谷城に迫りました。 旧暦の9月13日早朝、江口氏は手勢を指揮して迎え撃ちましたが、約二時(4時間ぐらい)の戦いで敗れて自刃して落城しました。 直江兼続は撫で斬りを命じて500個余の首を取ったと手紙で伝えています。 →「畑谷城」周辺のムービーはこちら 史跡マップ>>こちら ...もっと詳しく |
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最上義光の妹で、伊達政宗の母親である保春院(義姫、お東の方)の警護役として仕えた武将加藤掃部左衛門清次を祀った塚。
清次は親友江口光清が畑谷城で上杉軍に討たれたことに憤激し、長谷堂の戦いに参戦しました。 長谷堂城の北方約1kmのところで戦死。 ![]() 史跡マップ>>こちら |
(C) 山形市・最上義光歴史館
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