My山形「地域の宝」発信

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 友人や趣味仲間大勢に、趣向を凝らした出し物で祝福されてる姿はとても眩しく、羨ましくさえ思った。そして、いつのまにか20数年も前に主役を演じた自分の姿とだぶらせていたように思う。それは私だけだったろうか。
 ところで、過去にあった私の失礼な祝辞についての続きだが・・・。(二世を二合と・・なぜ、皆さん平然としていたか)
 そもそも、その新郎はあまり気にするタイプではないが、プライバシーも考慮し、それなりの表現でお許しいただきたい。
 詳細は語れないが、○性に対しだけは特別な能力の持ち主で、お友達がたくさんいたらしい。ところが、海外からの突然の訪問客にはさすがに狼狽し、周辺の人達に対してもとてもごまかしきれなかったようだ。
 要するに、披露宴に出席された方々は私以上に「新郎自身」を熟知していたのだ。だから、少々のことでは誰も驚かなかったらしい。勿論嫁さんも周知してたらしいが、その後は、亭主関白の全く逆の路線で幸せな家庭を送っている。
 ちょっと古いと言われるかも知れないが、基本的にはそう何回もあるはずのない結婚式、紆余曲折はあるにせよそれを乗り越え、最終的には皆さんに祝福してもらうことがご両親に対しての最大の親孝行ではないだろうか。
 尚、私の失敗四方山話と今回の社員の結婚披露宴とは全く関係ありません。

  ※写真は、新郎新婦に花束を渡した、可愛い「雄蝶雌蝶」




 当たり前のことではあるが、やはり結婚披露宴というのは何回出席してもいいものである。笑いと涙とハプニング、何でもあるが、まず無礼口なのである。まさに「祝事の神髄」といえる。
 祝辞をのべさせていただいたことは今までも随分あったが、1回だけ大変な失礼をしてしまったことがある。よくでてくる話ではあるが、「早く二世をつくってください」、そう話したつもりであったが、いつの間にか「二世」が「二合」に変わってしまったのである。その時に、なにかしらのざわめきが起こった訳でもなく、意識してない自分には気がつくはずもなかったのである。そして、そのことが分かったのは、会社に出勤した翌日の月曜日であった。職場の同僚から、「結構お前も言うね」とニヤニヤした顔でそのことを伝えられたのである。そして、拍車をかけるように「わざと言ったんだろう」と尾ひれまでつく始末、「唖然」としてしまった。
 しかし、実に不思議である。本人含めなぜ出席した人たちがあまりに平然としてたのか・・・。
 その理由とは・・・・次回へ

 ※ 写真は、弊社「マドンナ」達、大御所が写ってないのが残念。





 結婚披露宴の出席は2年ぶりくらいと思う。
 唯一弊社の独身社員であったが、めでたくゴールインをした。文金高島田から純白とブルーの洋装へのお色直し、その表情は穏やかでとても輝いているのだ。
幸せを独り占めにしているような感じであるが、それでいいのだ。その思いをずっと忘れることのないよう精一杯今感じてほしいのだ。ご両親、親戚縁者、5人組み、そして友人や恩師達に祝福され、夫婦として新たに旅立とうとしているのである。
 勿論、結婚生活は楽しいことばかりではないが、気が遠くなるほど多い中から縁あってその二人が結ばれたのだから、まさしく奇跡に近いすごいことなのだ。他人ことだから物事をこんな風に冷静にみえるのかも知れないが、本当は自分に振り返って見なければならないのかも知れない。








 「暑さ寒さも彼岸まで」、私達が幼少の頃から伝え聞いてきた含蓄のある言葉である。本格的な春を迎えるに当たり、必ずこの彼岸を迎え、過ぎなければ本当の春は来ないのである。
 学生諸君にとっても、入学試験や採用試験等があり、その進路が決まる時でもあるが、別れや新たな出会いの時でもある。そして、誰もが必ずや通らなければならない道でもあるのだ。この変化する節目の時期ということでは、まさしく「彼岸」と同じなのである。
 卒業式ほど、先生方と生徒の絆を強く感じる時はない様に思う。確かに、式そのものは、ストーリーがあって窮屈、且つ厳粛な趣きであることは間違いないが、実は、筋書きのないドラマそのもであると私は思う。何回もリハーサルを重ね、いよいをもって本番を迎えるのだが、やはり本番は全てにおいて事情が異なってくるのだ。生徒達も、保護者も、来賓の方々も、そして先生方も今までの色々な学校生活での思い出や成長していく姿、情景が各々脳裏を横切り、卒業式という特別な舞台のお膳立てをしてくれるのだ。だからこそ、本番でしかあり得ない光景が生まれ、筋書きとは異なる演出になるのだと思う。
 私はまだ、小学校と中学校の卒業式しか経験はないが、いつも入場してきた場面から既に涙がでてくるのである。それは嬉し涙でも勿論悲しい涙でもない、その場でしか感じ得ない「感動の涙」そのものなのである。

   ※写真は、先生方の余興の一場面である。





 鳩レースはヨーロッパが非常に盛んである。日本は約3万人と言われているが、ドイツはその2倍の約6万人である。(ドイツの人口8,250万人)その平均年齢は約54歳でほぼ同じ、そして、時流とともに愛鳩家が減少の一途をたどっているのも同じである。若い人達が入会してこないのである。
 100キロレースから始まり、最終的には1000キロ以上も離れた地点から放鳩し、自宅に戻るのをひたすら待つというのだが、その「待つ間」の期待と不安が何ともいえない魅力に変わるのである。
 生き物を飼うということは、目的種類に関係なく休日はないのである。鳩については、餌や水をやる、掃除をする、消毒をする、薬を投与する、運動させる、訓練する等々、実に手がかかるのである。現在の気忙しい生活環境と昨今の住宅事情を考えれば、その条件をクリアできる人は限られてくるのかも知れない。そういった事がさらに愛鳩家の減少に拍車をかけているのだろう。
 しかし、もし、自分が手塩にかけ一生懸命育てた鳩が遠方(約1,000km)より戻り、その瞬間を目撃できたとするなら、誰もが異口同音ではないだろうか。
 たまには、休日をのんびりと、空を見ながら過ごすのも明日への活力につながなるのでは・・・
 お手伝いしますよ。「こころの洗濯」を・・・。

 ※写真は、子鳩と我が娘




 新しい家族が加わると、今までの生活のパターンが一変する。当分の間は、この子猫達中心にまわっていくのは間違いないだろう。半ばあきらめるしかない。
 最近、「アニマルセラピー」という言葉をよく耳にするが、「心を癒す」「和ませる」「穏やかにする」など、老若男女問わず精神的なケアに役立っているのだそうだ。確かに、生活は豊かになったものの、反面心が貧しくなったなどといわれ、低年齢化する犯罪や毎年3万人を超える自殺者等、心の病が起因する事件、事故があとをたたない。とても悲しいことである。
 そもそも私は動物大好き人間で、カラスを飼ってたこともある。嫌われもののカラスではあるが、実は人間に非常になつく動物で、一旦なれてしまうと放し飼いでもよいのである。中学校時代は、私の肩の上にちょこんと乗り、通下校時を共にしたものだ。唯一の欠点は、いたずらが大好きで、学校にやってきては授業中にガラス窓をつついたり、畑野菜の新芽を掘り返し全滅させてしまったり、そして極めつけはお隣さんに土足?で入り込み、食事中??コをしてきたり、やりたい放題暴君ぶりを発揮したのである。そのことが今は亡き父の逆鱗にふれ、私が学校に行っている間、無理やり「婿」にだされてしまったのである。残念ながらその嫁ぎ先を知ることはなかった。
 どんな動物でも、家族と同様の愛情と思いやり、そして時には叱咤をもって接していくことでより相互の信頼感が生まれてくるものと思う。そして、我々人間が動物から学ぶことがたくさんあるということに早く気がつくべきかも知れない。