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野辺沢満延(のべさわみつのぶ)

 生年不明~天正十九年(1591) 剛力無双の武将。最上家随一の豪傑。能登守。野辺沢(延沢)城主。はじめ国人領主連合「天童八楯」の一員として天童氏に味方し、大いに最上義光を苦しめた。満延の子に義光の長女を嫁がせることが決まり、義光に味方するようになった。これにより天童八楯が瓦解、天童氏は敗北した。満延の剛力ぶりを試そうとした義光が、そのあまりの強さに桜の木にしがみついたところ、その桜の木ごと引き抜いたという逸話など、数々の伝説を持つ。
2017.04.15:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

氏家親定(うじいえちかさだ)

 文禄四年(1595)~寛永十五年(1638) 記録に残る系図によると氏家(成沢)光氏の三男か。隠岐守。左近丞。尾張守を称した兄(名は不詳)が若くして亡くなったため氏家家を継いだとみられる。妻は最上義光の三女竹姫。兄に嫁いでいたという竹姫は親定に再嫁したものか。最上家改易後は萩藩毛利家に預けられた。
2017.04.13:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

成沢光氏(なりさわあきうじ)

 生年不明~没年不明 成沢道忠の子。名は邦綱(くにつな)とも。氏家守棟の子・光棟が十五里ヶ原の戦いで戦死したため、守棟の養子となり氏家家を継いだという説がある。左近と号し尾張守を称したという。慶長出羽合戦では、長谷堂城救援のため出陣した。最上家家老として1万8千石を領したという。
2017.04.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

成沢道忠(なりさわみちただ)

 生年不明~没年不明 氏家守棟の従弟という。名は道仲とも。成沢城主5千石とされる。庄内余目の安保氏を攻めたときには先陣の大将を務めたという。慶長出羽合戦の際は、畑谷城落城の知らせを聞いた最上義光により、山形城三の丸飯塚口の警固に派遣された。のちに最上義康の廃嫡事件に関わり、その際、最上家を退去したのではないかといわれている。現在は、山形市蔵王成沢の三蔵院に子孫から寄進された成沢道忠公像がまつられている。
2017.04.09:mogapro:[ ◇最上家家臣団(な行)]

氏家光房(うじいえあきふさ)

 生年不明~没年不明 相模守を称す。氏家定直や守棟の一族の者かと思われる。山形平清水の大日堂に諸願成就を感謝して鉄鉢を寄進している。この鉄鉢には慶長六年(1601)十一月二十八日の銘があり、山形市指定有形文化財になっている。
2017.04.05:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

氏家光棟(うじいえあきむね)

 生年不明~天正十六年(1588) 氏家守棟の子。光棟も尾張守を称したとも。天正十六年(1588)本庄繁長率いる上杉・大宝寺連合軍が庄内地方に侵攻し、これを迎撃した十五里ヶ原の戦いにて戦死した。
2017.04.04:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]

氏家守棟(うじいえもりむね)

 生年不明~天正十九年(1591)? 氏家定直の子。尾張守。知略に優れた最上義光の腹心。数々の献策にて義光を支えた。天正最上の乱では、最上義守・義光親子の争いに介入する伊達輝宗との和睦交渉を担当。最上統一戦においては、計略をもって白鳥氏や天童氏を攻略したほか、鮭延城攻めや観音寺城攻めなど各方面で活躍した。
2017.03.31:mogapro:[ ☆最上四天王 ]

氏家定直(うじいえさだなお)

 生年不明~元亀元年(1570) 最上家の宿老。伊予守。氏家家は代々、羽州探題最上家の執事を務める家柄である。天文の乱時に、伊達稙宗に味方した主君・最上義守の名代として出陣した。義守とその嫡男・義光が家督をめぐって争った際には、病身をおして調停に入り、義光への家督相続を実現させた。
2017.03.30:mogapro:[ ◇最上家家臣団(あ行)]