HOME >  ◇最上家家臣団(は行)

藤田丹波(ふじたたんば)

 生年不明~没年不明 越中土肥氏の家臣。守右衛門。土肥半左衛門と共に慶長出羽合戦の庄内攻略戦に加わり、最上家に移った。最上義康襲撃に関わったとされる。最上家親による半左衛門の処断後も最上家に残る。最上家改易後は庄内藩酒井家に仕えた。
2018.05.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

原田大膳(はらだだいぜん)

 生年不明~没年不明 楯岡満茂の重臣。1千石を領したという。小野寺方の岩崎城(湯沢市岩崎)に夜襲を仕掛けて落城させ、岩崎城主となった。後世の軍記物である「最上記」では、酒田城攻略戦の場面に寄せ手の一人として登場する。
2018.04.06:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

本間出雲守(ほんまいずものかみ)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると2千石を領したという。慶長十年(1605)に山形市の山寺(立石寺)の姥堂を修理したと伝わる。また、山寺地区の伊澤家には本間出雲守が所有した算盤が伝わっているという。
2018.03.19:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

羽島茂兵衛(はしまもひょうえ)

 生年不明~寛永九年(1632) 高橋但馬守の子。高橋勘解由とは腹違いの兄弟。継母との折り合いが悪く、若いときに父の家を出奔したという。最上家改易後、福井藩松平家に仕えた。
2018.03.13:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日野数馬(ひのかずま)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると1千石を領したという。同じく1千石を領したという日野備中守光久の一族か。最上家改易後は、山形藩鳥居家に百五十石で仕えたという。
2018.02.18:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日野惣左衛門(ひのそうざえもん)

 生年不明~没年不明 後世の軍記物である「最上記」によると3千石を領したという。同じく3千石を領したという日野将監光綱の一族か。
2018.01.03:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

半田助左衛門(はんだすけざえもん)

 生年不明~没年不明 東根城主・東根景佐の家臣。慶長出羽合戦の際、東根城は上杉家尾浦城将・下吉忠の部隊からの攻撃を受けた。東根城主の景佐は、主力を率いて山形城防衛に出向いていたため、城の守勢は少なかったが、奇略を用いてよく防戦したという。この時、東根城を攻めた部隊を率いていた新関新五右衛門に対し、助左衛門が一騎打ちを挑み、相手の馬が水田に足をとられた隙に討ち取った。この戦いは、鷺の森合戦と呼ばれ、その時の戦利品であるホラ貝が東根市荒宿の戸村家に伝わっているという。
2017.11.24:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]

日野光綱(ひのあきつな)

 天正五年(1577)?~寛文六年(1666)? 将監を称す。岩波楯(山形市岩波)3千石を領したと伝わる。慶長十九年(1614)、最上家親の命により最上義光三男(家親の弟)清水光氏を攻めて自害させた。義親の遺領は最上家の蔵入地となったが、実質的には光綱が管理するところとなり、新庄(新城)沼田城主となった。最上家改易後は、津藩藤堂家に預けられた。
2017.10.10:mogapro:[ ◇最上家家臣団(は行)]