ある方と話していて
過去の出来事に対しての意味づけが人それぞれだということに気がついた。
自分は「すべては最善のために起きる」とか「試練は宝」という言葉が好きなように
どんなに辛かった出来事、イヤだったと感じた出来事も
ここから学ぶべきことがあるはずだと考えたり、その時には感じることができなくても
あとになってからあれは必要があって起きたことだったんだなとか
その経験から自分のこれから果たすべき役割があるはずとか
そんな風に捉えるクセがついていた。
もちろんどんなにそう思おうとしても思えない出来事もあるのは確かであるのだけれど。
でも人によっては、消したい出来事でしかなく、思い出したくもない出来事であり、過去のそういう出来事を必死に隠して生きているという人も多くいるんだって。
触れられたくもないし、触れたくもない過去の出来事。
それだけ苦しくて辛かったということなのだろうと思うが。
だけど、どうなんだろう・・・
どうせわかってもらえない、何がわかるっていうんだ、 とか
わかってもらいたくもない とかいう気持ちがずっと付きまといツラくはないのだろうか。
本来 人間は認められたい生き物であるはず。
過去の一部分を否定して生きることはより苦しみを増さないのだろうか。
傷が疼いて苦しくてたまらなくなるときがないのだろうか。
いや、過去の自分と今の自分は別人であるというような感覚なのだろうか?
私にはあれこれ想像することしかできないのだけれど。
過去に対しての意味づけ、捉え方は人それぞれなんだなってつくづく。
もちろん生き方はみんな違っていいのだから、どれが正しいとか間違いとかはないけど。
自分はなぜ肯定的に意味づけしようとするのか。
きっとその方がいいと感じることがあったり、
生きててこっちが楽だなって思ったからだと思うんだけど。
色々考えてみて思ったのは
「過去を肯定的に意味づけすることにより、今の自分も肯定することができて 心が楽になり、苦しみから解放されるのではないか」ということ。
向き合うことでより苦しみが増大する場合もあるだろうから、無理に全てに向き合う必要はないと思う。向き合うのに「時」があるのだと思うし。今なら向き合えるとか、今が向き合わなくてはならならい「時」だと自然に感じたときに向き合ってみるとか。
むしろ逆に、向き合わないほうが楽に生きれる人だっているかもなぁ。
過去と他人は変えられないというけれど、意味づけによって
起きた出来事自体は変わらなくとも
「辛い過去」は→さまざまな学びと気づきや出会いをくれた「宝物のような過去」に変えることができるし
「自分にとって苦手な人」は→自分のこだわりやとらわれている部分とか執着に気づかせてくれたり、反面教師であったりする「感謝すべき人」に変えることができる
やっぱり生きるのが苦しいより、楽しいほうがいいですもん。
心の底から笑いたいじゃないですか!
なんてことを考えてみたりした夜
この記事へのコメントはこちら