これは福島第一原子力発電事故のだいぶ前に書かれたものなのです。
→http://www.geocities.jp/aichan822/hanngennpatu2.htm
私は家族にいわゆる障害者がいたけれど、不幸なんて思ってはいない。
不幸と思ったとき、感じたときがなかったか?それはあります。
でもそう思ったのは、堤 愛子さんの文章にもあるように、社会のしくみに問題があるのかもしれないと思う。
毎年、障害者のための寄付を募る番組がありますが 自分たちより下に見たかわいそうな状態から救ってあげる“やさしさ”になってはいないだろうかと、いつも考えさせれる。
堤愛子さんも以下のように綴っておられます。
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日本では、障害者を見ると、「かわいそう」という意識と「自分がめんどうをみなければ」と抱え込んでしまう意識が、まっ先に働いてしまうのだと思う。またそれが、日本流の「やさしさ」なのだろう。
しかし、「かわいそう」という意識や「めんどうをみなければ」という意識は、けっして「対等」ではなく、障害者を「下」に見た意識だと思う。それこそが、日常的なやさしさの中に潜む「優生思想」なのだと思う。
でも、どのような「障害」をもとうと、充実した人生が送れれば、ちっとも「かわいそう」なことはないのだ。現実には「充実した人生」を送るには、あまりにも障害者をとりまく条件整備は不十分である。「かわいそう」な現実は、確かにいっぱいある。
私は、「かわいそうだから」が障害者との出会いのきっかけであっても、いっこうにかまわないと思う。大切なのは、「かわいそう」な状態を固定化したところで関係を結ぶのではなく、どうしたら「対等」になれるかを、いっしょになって考えることだ。
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