「人権や多様な価値観を尊重し、差別のない社会に貢献すべき公共放送としてこのような事態を招いたことは痛恨の極み。改めておわびします」―。NHKは国際情報番組「これでわかった!世界のいま」で放映したアニメ動画について、こう謝罪した(17日付)。6月7日に放映された同番組は黒人差別に反対する米国内のデモを解説する内容で、私もたまたま見ながら「大丈夫かな」と正直思った。たとえば、こんな場面…財布を握りしめた筋骨隆々の黒人男性が粗野な口調で「黒人より白人は平均で資産を7倍も持っているんだ。そこによう!新型コロナウイルスの流行だ」などと話し、周囲には黒人の男女が群がり、暴動を連想させる様子が描かれていた。案の定、批判が殺到した。
「もっと多くの考察と注意が払われるべきだった。使われたアニメは侮辱的で無神経」(米国のジョセフ・ヤング駐日臨時代理大使のツイッタ-)―。アニメへの批判はこの点に集約されている。つまり、コロナ禍と黒人差別を結び付けたまでは良かったが、そのことを〝経済格差”にすり替えるという認識の浅はかさを露呈したというお粗末である。「人種や民族、ジェンダ―などを番組で扱う際は、協会内外の幅広い人材が、複眼的にチェックする体制をつくる」(正籬(まさがき)聡放送総局長)としきりに頭を下げるが、何を今さらという感じ。逆に国へ右ならえとばかり、「ニュ-ノ-マル」(新しい日常)へと誘導し続ける最近の放映内容に「さすが国営」と納得感すら。
「(編集委員が)ツイッタ-に不適切な投稿をしました。本社は、報道姿勢と相容れない行為だったと重く受け止め、専門的な情報発信を担う『ソ-シャルメディア記者』を取り消しました。本人が説明やおわびなしにアカウントを削除したことも不適切でした。深くおわびします」(3月13日付「朝日新聞」電子版)―。さて、こっちはわが古巣の謝罪文である。件(くだん)のツイッタ-とは「あっと言う間に世界中を席巻し、戦争でもないのに超大国の大統領が恐れ慄(おのの)く。新型コロナウイルスは、ある意味で痛快な存在かもしれない」という内容。会社側は「不適切」をこう説明する。「ウイルスの威力の大きさを表そうとしたようですが、『痛快』という言葉は著しく不適切で、感染した方や亡くなった方々のご遺族をはじめ多くの皆様に不快な思いをさせるものでした」
この文章を読みながら「表現の自由」などという大げさなことではなく、“言葉狩り”という悪夢をとっさに思い出した。新型コロナウイルスに「コロナ神」という尊称を献上し、さらに「(災厄に)価値転換の期待感」を抱く堀田善衛や私(6月18日付当ブログ参照)などはさしずめ“不心得者”として、断罪されること必至である。そういえば、足元にも「言葉がないがしろにされる」事例があった。
「第1号になっても県はその人を責めません。感染者は出ていいので、コロナかもと思ったら相談してほしい。陽性は悪ではない。陽性者にはお見舞いの言葉を贈ったり、優しく接してあげてほしい。誰しも第1号の可能性がある」―。“感染者0”を維持し続けている当岩手県の達達増卓也知事は6月15日の記者会見で、「他県から来た源義経を虐(しいた)げたとたんに奥州平泉が滅びた。県外の人を虐げないようにというのが歴史の教訓」…などとトンチンカンな比喩を持ち出しながら、県民にこう訴えた。意味不明というよりも言語表現そのものが死に瀕しているような危機感に襲われた。
私の周りにも「自分だけは第1号にはなりたくない」という声が多く、そのことが感染予防に一定の役割を果たしているのは事実であろう。しかし一方で「ゼロリスク症候群」というある種、過剰な強迫観念が背後に見え隠れすることも否定できない。行政トップが「病魔」と「罪過」とを同列で扱うこの言語感覚はもはや言葉の“自殺行為”と言わざるを得ない。「陽性は悪ではない」と声高に言えばいうほど逆に「健康第一主義」(感染者0)を補強しかねないからである。たとえば、県外からの移動に神経をとがらせた異様な光景の数々と、そうした心理的な反作用。歴史の悲劇は言葉の喪失と同時進行してきたことをいま一度、思い起こしたいと思う。
(写真は“黒人差別”を増長した感のあるアニメ動画の一場面=インタ-ネット上に公開の写真から)