作家、太宰治の短編『散華』は―「玉砕(ぎょくさい)という題にするつもりで原稿用紙に、玉砕と書いてみたが、それはあまりに美しい言葉で、私の下手(へた)な小説の題などには、もったいない気がして来て、玉砕の文字を消し、題を散華(さんげ)と改めた」という文章で始まり、こうな風に筆が進む。「もうひとり、やはり私の年少の友人、三田循司君は、ことしの五月、ずば抜けて美しく玉砕した。三田君の場合は、散華という言葉もなお色あせて感ぜられる。北方の一孤島に於いて見事に玉砕し、護国の神となられた」
文中の「三田循司」は花巻生まれで、東京帝国大学(当時)を繰り上げ卒業をした後、昭和18年5月30日、太平洋戦争の激戦地・アッツ島で玉砕死した。学生時代から文学を愛好し、太宰を師と仰いで交流を続けた。循司さんはは戦地から太宰にこんな文面のはがきを送っている。「御元気ですか。遠い空から御伺いします。無事、任地に着きました。大いなる文学のために、死んでください。自分も死にます。この戦争のために」―。太宰ははがきを手にした時の気持ちを『散華』の中にこう記している。「死んでくださいと、いうその三田君の一言が、私には、なんとも尊く、ありがたく、うれしくて、たまらなかったのだ。これこそは、日本一の男児でなければ言えない言葉だと思った」
10数年前、循司さんが通った旧制岩手中学(現岩手高校)時代の同窓会が太宰から宛てられたはがきの存在を知り、そのことが当時の地元紙に掲載された。現在、日本現代詩歌文学館の学芸員をしている八木澤卓さんがこの記事を目にとめ、太宰の生誕百年に合わせて、2009年に特別展を開催。同時に『三田循司詩抄/太宰治短編「散華」』と題した小冊子(図録)にまとめた。その後、遺族から寄贈の申し出があり、現在、同文学館に6通のはがきが保管されている。当時の経緯について、八木澤さんは「出身地の花巻ではこのことに関心を寄せたような動きはなかった」と話している。
循司さんの父親の勇治さんは製糸会社や映画館を経営する実業家と知られ、戦前から花巻町議(当時)や県議を務めた。また、弟の悊さん(故人)は国会議員だった故北山愛郎さん(元花巻町長)の地元秘書を務めるかたわら、花巻市議を5期歴任した。残念ながら、太宰と循司さんとの知られざる「秘話」を伝える資料は地元・花巻には残されていない。当然、市民の多くはこんな”友情秘話”を知る機会も少ない。そして、目の前の「新図書館」構想にはそんな心温まるような理念のひとかけらも感じられない。ふと、思い出した。かつて、北山さんの選挙の時、私の母親などのオバア連中が「愛郎さん、愛郎さん」と言って、選挙カ-の追っかけをしていたことを―。かつて、このまちにも「斎藤五郎」がいたのである。
上に掲げたはがきは変色して読みにくくなっているが、以下のような内容である。「拝復 けさほどは、おハガキをいただきました。召集令がまゐりましたさうで、生きる道が一すぢクッキリ印されて、あざやかな気が致しました。おからだ お大事になさって、しっかりやって下さい。はるかに御武運の長久を祈る。不一」
(写真は昭和17年1月13日付消印で、太宰から花巻市一日市の循司さんの留守宅に届いたはがき=インタ-ネット上に公開の写真から)