「この土地で『なぜ20年も働いてきたのか。その原動力は何か』と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映いし、道楽だと呼ぶのは余りに露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。良く分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の『セロ弾きのゴ-シュ』の話です。セロの練習という、自分のやりたいことがあるのに、次々と動物たちが現れて邪魔をする。仕方なく相手しているうちに、とうとう演奏会の日になってしまう。てっきり楽長に叱られると思ったら、意外にも賞賛を受ける」―
「アフガンの命の恩人、中村哲さん、銃弾にたおれる」―という衝撃的なニュ-スに接し、私はいま、呆けたような状態で冒頭の文章を口にしている。『医者井戸を掘る―アフガン旱魃の闘い』などの著書で知られる医師の中村哲さん(享年73)が4日、ハンセン病の治療や農業振興などの支援に当たっていたアフガニスタンで銃弾に死した。引用した文章は2004年、第14回宮沢賢治賞(イ-ハト-ブ賞)を受賞した際、遠い異国のアフガンから寄せられた感謝のメッセ-ジの一節である。この文章はこう結ばれている。「馬鹿で、まるでなってなくて、頭のつぶれたような奴が一番偉いんだ(『どんぐりと山猫』)」という言葉に慰められ、一人の普通の日本人として、素直に受賞を喜ぶものであります」
私が新聞記者として初めて遭遇した最大の出来事は「三池炭鉱炭じん爆発事故」(1963年=福岡県大牟田市)で被災し、重篤な後遺症に苦しむ患者たちの取材だった。。458人が死亡し、839人が不治の病と言われた「一酸化炭素(CO)中毒」に侵された。九州大学医学部を卒業した中村さんがその時、若き精神科医の研修生として、患者の治療に奔走していたことをあとで知った。当時、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の現場で、互いにすれ違っていたかもしれない。いま思えば、その時の運命的な”出会い“が6歳年下ながら、私が彼を人生の師と仰ぐきっかけだったように思う。
中村さんの母方の伯父は作家の火野葦平で、外祖父は日本有数の炭鉱地帯・筑豊の荷役を一手に請け負ったヤクザ(任侠)の血を引く玉井金五郎である。火野の長編小説『花と竜』は父親の玉井をモデルにした作品で、映画化もされた。受賞後、中村さんが講演に当市・花巻を訪れたことがあった。質問の段になって、私は手をあげた。「中村さんの中にはヤクザの血が流れているんじゃないですか。ぶれることのない姿勢を見ているとそうとしか思えないんですが…」―。内心、ぶしつけな質問かと思ったが、アジアのノ-ベル賞と言われる「マグサイサイ賞」を受賞したひげ面はニャッと笑って答えた。「実は私もそう思っているんですよ」。その時の満面の笑顔が消えることのない残像として、私の脳裏に刻まれている。
第1回「沖縄平和賞」(2002年)を受賞した際、中村さんはこう述べている。「遠いアフガニスタンでの活動と、アフガンに出撃する米軍基地を抱える沖縄、このコントラストは、現場にいる私たちには圧倒的であります。平和をとなえることさえ、暴力的制裁を受ける厳しい現地の状況の中で物言えない人たちの声、その奪われた平和の声を『基地の島・オキナワ』が代弁するのは、現地にいる日本人として名誉であります。沖縄の抱える矛盾、これは凝縮された日本の矛盾でもありますが、米軍に協力する姿勢を見せないと生き延びられないという実情は、実はかの地でも同じです。基地を抱える沖縄の苦悩は、実は全アジア世界の縮図でもあることをぜひお伝えしたいと思います。」―。その時の基金をもとに現地に開設された診療所は「オキナワ・ピース・クリニック」と命名されている。
「武器ではなく、命の水を」―。中村さんは終生この言葉を口にし、倒れる直前までそれを実行した。今回の訃報を受け、私はこの年末年始を米軍基地で揺れる「沖縄・辺野古」に身を置いてみようと考えている。中村さんの「原点」でもある大牟田(三池)の地で留守宅を守り続けた妻の尚子さん(66)は言葉少なに語った。「場所が場所だけにあり得ると思っていた。家にずっといてほしかったけど、本人が(活動に)かけていたので……」……“三池の知遇”よ、さようなら。そして、勇気を与えてくれたヤクザの末裔よ、ありがとうございました。合掌
(写真はありし日の中村さん。アフガニスタンの地で=インタ-ネット上に公開された写真から)