あの頃のスケートリンク事情。
堤義明氏の西武体制が崩壊したために、スケートというお金のかかるスポーツはいきなり劣勢に立たされてしまったのではないでしょうか。 むしろ、これはその中の一つの出来事で、事実スケートリンクは昔よりも少なくなったと思います。 私にとってのスケートリンクといえば、粡町のマルハでやっていたのを思い出します。小学校の頃にはリンクは廃業したかもしれません。夏はアイスクリームの工場で、冬はスケートリンクという非常に季節がコントロールされているワークシュアリンングです。二階は卓球場になっていました。この卓球場という商売ももはや見られないものとなってきています。山形の駅の近くに「ひよこの卓球場」というのがありますが、いったいこれは何のことでしょうか。 それから先輩に聴いた話では、上杉神社前の岩崎石材の近くにも屋内スケートリンクがあったとのことですが、未確認です。 山形は現在厚生年金(何か最近経営が替わったらしい)に屋内スケート場が、県体育館のところに屋外リンクがありますが、昔確かパレスグランでール附近に山形スケートリンクだかがあったと思います。汽車で行った記憶があります。 東京にいた時、スケートリンクといえば有名なのは後楽園か西武の東伏見のリンクですが、内幸町のNHK跡に建った日比谷シティのビルとビルの間にも屋外スケートリンクがありました。 ここのリンクももうないようですが、完全に暇なサラリーマンが遊ぶ施設で、東京にはそういうところが数多くあり、あちこちにサラリーマンが釣堀をしたりしていて、水道橋の辺はやっていると総武線からも見えるので、上司にばれた人もいるのではないでしょうか。 バブル前夜、ちょっとのんきな首都東京のひとコマです。
2009.04.09