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いつもの道

  • いつもの道
大型連休の喧騒や悪天候でしばらく散歩をサボっている間に、いつもの散歩路の景色は一変していました

タンポポは綿毛に変り、見なれぬ花がひっそりと咲いています
花のはでやかさはありませんがひかえめな青紫色が上品で気に入りました
図鑑を繰って「ツルニチニチソウ」とアタリをつけたのですが・・・・

頭上には「ミヤマザクラ」「ウワミズザクラ」が白くかがやき、「フジ」の房が垂れさがっています

2016.05.11:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]

また 白川? 置賜白川?

  • また 白川? 置賜白川?
ここは『最上川発祥の地』
‐‐‐‐松川と白川が合流して最上川となる地点‐‐‐‐です
ただし、現在正確には
‐‐‐‐最上川に置賜白川が流入する地点‐‐‐‐と言わなければならないようです

3月30日に開通したしらかわ大橋の上に案内板が掲げられ、そこには
「しらかわ大橋  置賜白川(Okitamashirakawa Riv.)」とはっきり書いてあります
年齢のせいで『白川』へのこだわりが抜けない老人は山形河川国道事務所長井出張所に問い合わせてみました

回答は「標示物へは正式名称で表記する」ということでしたので、『置賜白川』が正式名称となるのでしょうが・・・

いつから? どうして? 知ってる人もっとくわしく教えてください(置賜野川も含めて)

なお、山形県大百科事典(昭和56年6月1日初版発行)の『白川橋』の記事には
‐‐‐‐最上川の名称は厳密には松川と白川の合流点からである。‐‐‐‐
という記述があります
2016.05.06:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]

今泉駅‐3

  • 今泉駅‐3
「転車台(ターンテーブル)」という言葉を知ったのは中学生になってからだと思う
『官舎』の子たちは「キカンコ」と呼んでいたのでそれは「機関庫」という名前だと思っていた
実際にSLがそれに乗って、駅員さんに取っ手を押されたテーブルが回って方向転換するのを見たことがある・・・だから「機関庫」かと思い込んでいた

昔駅構内のの南西の端に機関庫ならぬ転車台があったが、SLの運行終了でお役ご免となり撤去されたものと思っていた
去年20数年ぶりに単身先から帰省してまだ残っているのを発見して驚喜(!!)した

「このフットパスウォークに参加すれば転車台にさわれるかも」と参加したのだが、目論見通り現物に手を触れSLが乗っていた桁を歩いて渡ることができ、幼いころの願望をひとつ達成することができた・・・歓喜!歓喜!

転車台のそばには「とよだふる里振興会」の手になる案内板が掲示してあり、来歴が懇切に記してあった
同会では保存のために付近の草刈り作業等環境整備にも取り組んでいるそうで多謝多謝

全国でも123台しかない貴重な財産、大切にしましょう
2016.04.29:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]

今泉駅ー2

  • 今泉駅ー2
今泉駅には南北に長いプラットホームが二つ、駅舎に近いほうから1番線~4番線、フラワー長井線上下、米坂線上下が発着します
そして4番線の南西側には1~4番線の合計よりも広い用地が広がっています
部分的にはまだ線路が残っているところもあるように見えます

昔、この駅で貨車を入れ替えて貨物列車の編成替えをしていた名残です
今泉駅は一ローカル線の駅ながら操車場の機能も持っていたのです
現代と違い、当時鉄道は物流の主役だったのでこの操車場を経由する貨車も多かったのでしょう

以下、記憶による記述
1.1~2両の貨車を曳いた蒸気機関車(SL)が北側信号機のあたりまで出て行って止まる
2.数十秒後、短く「ポッ」と汽笛を鳴らして後退し、出た時とは異なる線路上の貨車に連結‐‐‐‐「ポッ」は16分音符くらいの長さ
3.連結貨車を切り離したSLは先の信号機のあたりまで行ってまた別の線路に入って貨車を曳いて
の作業を繰り返すのです
後退するときは最後尾のステップに足をかけた係の人が緑の旗を振って誘導するのだが、あの旗振りのあざやかだったこと・・・・
何気なく見ていたあの光景、今になって考えてみるととんでもなく危険な作業で、特に旗振りの作業などは自分にはできそうもない

あの一連の作業には二人のポイント係、車両連結器操作係、誘導係、信号操作係等が必要なはずで、当時駅員さんが30名在籍していた理由もこの辺にありそうだ

そして、貨物列車の最後尾に必ずつながれる車掌車に乗りたくてたまらなかったこと、
その願いは年老いた今でも変わりません
2016.04.27:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]

今泉駅-1

  • 今泉駅-1
「ながいフットパスウォーク2016」に参加してきた
集合地の今泉駅、久しぶりに乗り降りに関係なく外から駅を見た

駅舎は現代風の塗装を施されているが、構造は昔と変わらないようだ
昔とは米坂線を蒸気機関車が走り、フラワーがつかない長井線だった昭和30年代のこと
付随する設備はだいぶ変わり、取り壊されたものが多いようだ

駅長さんの話では昔は駅員さんが30名勤務していたそうだ‐‐‐‐今は5名
「保線区もあったのでそれを入れると50名くらいかな」とのこと

以下記憶による記述
駅舎に突き当たって右に折れた奥手に家族持ちの職員が入居する宿舎が数戸分あった
当時そこに住む子は『官舎』と呼んでいたが、年度替わりの異動の時期になると毎年のように転校生の出入りがあった
ちょっとあか抜けた服装をし、話の内容もちょっと大人び、農村育ちの自分たちとは違うライフスタイルを持つ『官舎』の子たちに都会のにおいを感じて羨望を持っていたのは筆者だけだったろうか?
そして蒸気機関車大好き少年にとって何よりもうらやましかったのは汽車にただで乗れることだった

『官舎』のあったところは今は2階建てのワンルームの仮眠宿舎風の建物が建っており、
よく見ると普段使われていないような部屋も見えた

あの今泉駅のにぎわいはどこへいったのだ

2016.04.25:k-ichiro:コメント(0):[コンテンツ]