甲子(きのえね)の大黒さま

自分との対話
 最近、少子化問題がよく取りあげられます。安倍内閣は少子化や教育再生といった重要な社会問題にメスを入れようとしています。大切なことだけに成果をあげるには大変でしょうが頑張ってもらいたいと思っています。
 
 少子化問題はよく年金や高齢化社会と関連づけられ議論されているようです。しかし、少子化は年金制度の維持よりはるかに重要な問題だと思うのです。生き物の最大の使命は子孫繁栄です。それは人間であっても同じはずです。この自然の営みが歪んでしまっているのは、今の生活が不自然なものになっている証なのかもしれませんね。
 
 経済的にも精神的にも子供を育てるには犠牲を払わなければならないという意識には、社会のすべての問題が凝縮されているように感じられます。「子はかすがい」とか「子供は社会の宝」という意識はなくなり、離婚や虐待が増加し赤ちゃんポストの設置が必要になっているのが現状のようです。結婚したくない、子供を生みたくないと思う人が不健全なのではなく、そう思わせる社会が不健全なのかもしれません。
 
 私達が今こうして生活していられるのは両親に育ててもらったからです。自分がしてもらったことをしてあげられないというのは残念なことです。育児が大変なのはあたりまえのことです。ですが、自分もそうして育ててもらったということを忘れないようにしたいと思います。
 

今日の目標
 受けたご恩を返せるようにしましょう

今日の写真
 当山の本堂前に子供達が雪だるまを作っていきました。なんだかお地蔵さんが並んでいるかのようです。「法華経」というお経には子供が遊びで作った仏様にも功徳があると書かれています。誰もが仏様の子供だからそうです。子供達が元気に遊び楽しく笑える社会であってほしいと願います。

 インフルエンザ薬のタミフルのニュースを見ました。年間860万人に処方され2001年より54人の方が死亡されているそうです。どうして厚生労働省は副作用で死に至る薬を認可するのかと怒りを覚えるのですが、現実には多くの人を救うためには少数の犠牲もやむなしという天秤があるのでしょう。また、鳥インフルエンザが人に感染するようになったらタミフルしか有効なワクチンがないのだそうです。
 
 世の中は多くの方の犠牲で成り立っているのかもしれませんね。大地震があったからこそ耐震技術が進歩し、電車の事故があったからこそ安全に注意が払われるようになる。被害者の苦しみがあるからこそ法律が整備されるのでしょう。何かが起こってからでないと対応できないのが人間なのかもしれませんね。
 
 犠牲があって改善があり、私達の生活は豊かになってきたのかもしれませんね。豊かな社会であればあるほど、その道中にはそれだけ多くの犠牲があったのかもしれません。
 
 多くの方の犠牲で成り立っている社会で暮らしているのですから、やはり感謝の心を忘れてはいけませんね。「あなたのおかげで毎日つつがなく生活できています」という思いが、見ず知らずの犠牲者の方の供養につながるのではないでしょうか。個人的には何もできないからこそ感謝と供養の心だけは持ちたいと思います。今日から三月です。今月も頑張っていきましょう。

今日の目標
 感謝と供養の心を持って生活しましょう


今日の写真
小野川温泉の朝日です。手前にあるのは本堂の屋根から落ちた雪の山です。昨年は屋根までつながっていたのですが、今年は三分の一程度です。三月のはじめに春を実感できるのも久しぶりのことです。
 今年の初めのブログで九星別のそれぞれの運勢を掲載したかと思います。ところが今年の丁亥(ひのとい)の話を書いていなかったのを思いだし、今日掲載したいと思います。
 
 今年は六十年に一度巡ってくる丁亥という年です。丁という字は止める留めるという意味があります。もともとは釘の形から作られた字です。亥とはみなさんご存知の十二支のイノシシのことです。丁亥とは猪突猛進のイノシシを止めると書くわけです。
 
 イノシシという動物は普段はとても臆病で慎重な動物なのだそうです。ところが、一度不測の事態に陥ると我を失い猪突猛進に突き進んでしまうそうなのです。人間もパニックに陥ると自分を見失ってしまうことがあります。そのことで一生後悔しなければならなくなることもあります。
 
 丁亥の今年は自分を見失わないように気をつけなければなりません。世の中やまわりの人に流されないように、進退自在を心がけるとうまくいく年です。進むべき時には慎重に進み、退くべき時には勇気を持って退く、予想不能の事態に陥ったときにこそ暴走を抑える冷静さが必要になります。こんなことを今年は心がけたいと思います。

今日の目標
 進退自在を心がけましょう
 
今日の写真
 木彫りのイノシシの写真です。このイノシシのようにおだやかで、それでいて自分を見失わない強さを持ちたいと思います。 
 事件で犯人が捕まりますと、その後の報道では犯人の動機が注目されます。「どうして、あんな恐ろしいことを」と思いつつ、供述された安易な動機に怒りが込み上げることもあります。
 
 人間の行動にはすべて動機があります。何もしないことでさえ、したくないという動機があるわけです。食事や睡眠などの動物的な行動は、食べたい寝たいという単純な動機によるものです。それに対して感情の絡む人間的な行動には複雑な動機があるものです。
 
 たとえば小学校の時に好きな子をいじめてしまう行動がそうです。まわりの子供から見ればその動機など分かりませんし、当の本人でさえ好意を持っているからこそ意地悪をしてしまうと分からないのかもしれません。「どうしてそんなことをするの」と問いかければ「見ていてムカツクから」と答えるかもしれません。そこで「じゃあ、どうしてムカツクの」と聞き返せば「なんとなく」と答えるかもしれません。そこで「どうして、その子のことがそんなに気になるの」と問い返せば、沈黙が返ってくるのかもしれませんね。
 
 「どうして、どうして」と問いかけていき、沈黙に突き当たったときに本当の答えが現れるのかもしれませんね。普段の生活ではそこまで考えることがなく、単純な行動の奥に潜む深い動機に気づいていないだけなのかもしれません。人の心に無神経に入り込んでいくことは危険ですが、自分と対峙する際には沈黙に突き当たったところで考えることが大切なのかもしれませんね。ミステリーに満ちた自分の心を冒険するのも、たまにはいいのかもしれません。

今日の目標
 自分の心を覗いてみましょう

今日の写真
 福寿草の花が一輪だけ咲きました。例年より一月ほど早い春の便りです。昨年は大雪で春の到来がとてもうれしかったのですが、今年は除雪の苦労が少なかった分感慨も少ないようです。


 いつの世でも悩みが尽きることはなく、人生相談があるものです。しかし、昔から「答えはあなたの中にあるはずです」とか「誰かに相談しようと思ったときには、自分なりの答えが出ているものです」という決まり文句があります。
 
 もしかしたら誰かに相談するのは、誰かに背中を押してほしいときや、解決ではなく愚痴を聞いてほしいときなのかもしれませんね。私は自分が直面している問題の答えは、自らの体験の中でしか得られないと思っています。悲しんで、苦しんで、悩んで、後悔しての繰り返しの中でこそ、本当の答えが見つけられるのだと思うのです。
 
 お釈迦様や弘法大師空海さんも、体験を重視されておられました。お釈迦様は入滅されるその日まで、野宿と乞食の生活を続けられました。空海さんも晩年には高野山を修行の道場とされ、そのまま入定されました。お二人とも生涯にわたり修行という体験の中で、己と向き合い対話をされていたのではないかと思うのです。
 
 法話や講演でも自らの体験の中から語られる言葉には説得力があります。自分自身を説得するには、自らの体験を大切にしなければならないのかもしれません。日常のありふれたことも意識すれば、多くのことを教えてくれているのかもしれませんね。私がなぜ生きているのか、その答えを得るために今日も生活しているのかもしれません。

今日の目標
 日常の体験を大切にしましょう

今日の写真
 空と送電線の写真です。自然と文明という相反するものが一体となり風景が作られています。ですが、その風景に違和感を感じることはありません。ごくあたりまえの日常の景色です。あたりまえの日常をあらためて考えてみると、いろいろなことが見えてくるのかもしれませんね。
 急激な時代の変化の中で、今まで社会の常識とされてきた価値感を受け入れることができずに、苦しくなることはないでしょうか。年齢と共に「しなければならないこと」の強制力が強くなり、「いい年なのだから」という水戸黄門の印籠のような言葉で焦燥感に苦しみます。
 
 たとえ「しなければならないこと」でも今の自分にはできないこともたくさんあります。自分でも十分に分かっていることを、まわりから押しつけられるのが一番苦しいものです。また、本当にしなければならないのかと考えれば、疑問が尽きることがありません。
 
 どうすれば、まわりのプレッシャーから解放されるのでしょうか。もしかしたら、自分の中にある迷いをそのままにしていることが問題なのかもしれません。まわりの人も迷い続ける心を感じるからこそ、口出ししたくなるのかもしれませんね。
 
 自分が心から納得できる信念を持てれば、自然とまわりの人も納得してくれるものなのかもしれません。自分らしい生き方を確立している人は悠々自適に生活しています。私も迷いや苦しみの先にあるであろう、私が本当に求めている自分らしい生き方を模索していきたいと思います。

今日の目標
 自分なりの生き方を考えましょう

今日の写真
 ここ何日かまとまった雪が降りました。春の陽気から一転、吹雪の中での除雪となりました。今日の写真は当山の八重桜です。暖冬の今年は桜前線も早まるかと思っていたのですが、例年通りの雪景色となりました。

現代社会には自分とまわりの人間を比べるための物差しがたくさんあります。人間にとって自分を知る手がかりの一つとして、まわりとの比較は一番簡単な方法なのかもしれませんね。
 
 しかし、人間は上を見ては落胆し、下を見ては高慢になるものです。また、相手の一部分を切り取り、それを自分の一部分と比べることになんの意味があるのでしょうか。
 
 私達の目に見えることや耳に聞こえることというのは、相手の表面的な部分だけなのかもしれません。うらやましいと思う相手が、それを得るために払った努力や代償という大切な部分が見えないまま、自分と比べてもなんの意味もありません。
 
 表面的なところで誰かと比較するのではなく、もっと深いところで誰とも比べることのできない自分に出会ったときに、私達は本当の自分を確立できるのかもしれませんね私達の不満や悩みの大部分は、誰かと比較するからこそ生まれるものです。他者との比較の無意味さを知り、この世にたった一人の誰とも比べることのできない私に出会いたいものです。

今日の目標
 自分と誰かを比較しないようにしましょう

今日の写真
 上杉雪灯篭祭りに合わせて、昨日当山でも雪灯篭を点灯しました。ローソクの明かりと白い雪が合わさり、とても幻想的な世界となりました。

 毎日の生活で心が揺れると、人間は二つの方向に進んでしまうことが多いのかもしれません。一つには相手を責めること。「あなたのせいで」と誰かを憎むことによって心を静めようとします。もう一つは自分を責めること。「私のせいで」と自分を責めることによって納得しようとしてしまいます。 
 
 人間は心が揺れると、その原因を追求しようとしてしまいます。何らかの納得できる理由を求めてしまうのです。その原因を自分に見出すのか、相手に見出すのか、はたまた世の中に見出すのかは、人それぞれ時と場合によります。
 
 しかし、自分を責めれば後悔に苦しみ、相手を責めては憎しみに苦しむことになってしまいます。原因を追及しようとしても、苦しむだけなのかもしれませんね。
 
 心が揺れた時に右往左往しては、さらに心が揺れてしまいます。吹雪がおさまるのを山小屋でじっと待つように、何も考えずに心の揺れがおさまるのを待つことも大切なのかもしれませんね。下手に動けば遭難してしまうこともあるでしょう。原因を追及しても納得できないことがほとんどだからこそ、心の揺れに身を委ねることも、時には必要なのかもしれませんね。


今日の目標
 揺れる心をじっと見守りましょう

今日の写真
 小野川温泉から見える月山の写真です。この時期は雪が降らず、星空のきれいな日ほど冷え込みます。太陽が昇り急に温度が上昇すると深い霧に覆われることがあります。目の前がすべて霧の覆われ月山の頂上しか見えない日でした。
 
 以前、掲載した「宗教と科学」で人間は科学の限界を知った時に、何かにすがりたいという気持ちが生まれると書きました。今日はその続きのようなものです。人間は長い歴史の中で飢饉があり、疫病があり、また戦争があり、自らの無力さをまざまざと見せつけられながら生きてきたのではないかと思います。
 
 ですが厳しい現実の中で生きてきたからこそ、謙虚さがありつつましい生活を送ることが出来たのかもしれません。しかし、現代は科学の恩恵により、己の無力さを実感できなくなっているのかもしれませんね。
 
 もしかしたら、自分の弱さをごまかして生きることのできる時代なのかもしれません。欲望渦巻く社会からたくさんの刺激を浴び、感覚を麻痺させられているのではないかと思うことがあります。
 
 人間は自分の弱さを知ったと時に、現実をありのままに受け入れられる謙虚さを得るのかもしれません。理屈や自己弁護を捨て自分の弱さに目を向けられる人だけが、自分と同じような弱さを持つ相手を慈しみ、不平不満の生活から逃れありのままの生活に感謝でき、欲望に翻弄される自分から謙虚な自分に生まれ変わり、心の平安にたどりつけるのかもしれませんね。人間は目を背けたい自分の弱さを見つめることによって、心が豊かになるのかもしれませんね。

今日の目標
 自分の弱さを見つめましょう

今日の写真
 当山の屋根越しに見える小町山です。一月はほとんど雪が降らなかったのですが、今日はこれから除雪しなければならないほど雪が積もりました。やっと小野川温泉も冬らしい雪景色になりそうです。

 
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 普段の生活の中で、ふとむなしくなることがあります。友人と深夜まで騒いで、一人で帰る時。残業が終わり真っ暗な家に帰った時。定年退職の送別会の主役になった時。私達はいろいろな場面でむなしさを感じてしまうのかもしれませんね。
 
 日本人は古来よりはかなさやむなしさに敏感でした。それはむなしさの中に一瞬かいま見える、真実を求めようとしたからなのかもしれません。
 
 美しいものには棘があり、華やかさには影があります。社会が華やかになればなるほど、またその影も大きくなっていくのかもしれませんね。私達はその影に気づいた時に、むなしさを覚えるのかもしれません。
 
 突然に訪れるむなしさは、私達の心の叫びなのかもしれません。その叫びに耳を傾けたいものです。満たされているようで満たされていない現実を知った時に、私達が本当に求めているものが見えてくるのかもしれませんね。

今日の目標
 むなしさと向き合いましょう

今日の写真
 春を待つ木蓮の写真です。毎年雪に埋もれる山の木々も、今年は雪が少なく楽そうです。例年よりも早いであろう花の季節が楽しみです。


 私のことを振り返ってみますと、10年前20年前と変わらないところがたくさんあります。もちろん年齢と共に変わってきている所もあるのですが。変わってきている部分とは、私の表面的な所ばかりのような気もするのです。
 
 変わらない部分とは、わがままで自己中心的な私、弱くて臆病な私など、自己嫌悪の対象になる所ばかりなのかもしれません。人間は変わることができないのではないかと不安になることもあります。
 
 社会生活とは自分の未熟な所を餃子の皮で包むかのように、覆い隠すことなのかもしれません。自分の弱い所が出てこないように、年齢と共にだんだんと厚い皮で自分を覆っていくのかもしれませんね。
 
 ところが、あまりにも厚い皮で自分を包んでしまうと、自分のことが分からなくなってしまうこともあります。本当は何をしたいのか、何を求めているのか、どうしてこんなにも心が揺れるのか、自分の心でありながらコントロールを失うことがあります。作られた表面的な自分の殻を破り、ありのままの自分を取り戻すことも大切なのかもしれません。人が癒されるのは、ありのままの自分をさらけ出せた時なのかもしれませんね。

今日の目標
 ありのままの自分で生活しましょう

今日の写真
 何日か前、とても霧の濃い日がありました。目の前にあるはずの木が霞んで見えます。なんだか幻想的だと感じ写真を撮りました。霧に包まれる小野川温泉も幻想的でとてもきれいです。
 今の日本を考えると、どうしても自虐的になってしまいます。親が子を殺し、子が親を殺し、心の病が蔓延しそれに伴い自殺者が増加し、凶悪事件や詐欺が横行し、ニートという言葉が登場し、イジメによる自殺者が連鎖するのが日本の現状です。
 
 私は問題意識を持つことが必要なのだと思っています。「今のままの日本ではダメだ」という意識が、新しい日本を求める原動力になるのだと思っています。様々な社会問題を目の当たりにしている日本は、ターニングポイントに立っているのかもしれませんね。
 
 戦後の日本はアメリカをお手本にして国造りをしてきました。最近ではホワイトカラー・エグゼンプションや陪審員制度などの、新しい制度を輸入しようと政府は必死なようです。しかし、現在のアメリカが、私達の求める理想の国なのでしょうか。そろそろ親離れをしてもいいのではないでしょうか。
 
 海外の制度を導入した結果が今の日本だとするならば、新しい道を模索しなければなりません。討論番組では必ず「海外では・・・」と海外の制度を引き合いに出す方がいらっしゃいます。しかし、日本人の国民性に合わない制度をいくら導入しても意味がありません。安倍総理の掲げる「美しい国」とは海外の制度を導入して造るのではなく、日本独自の国造りによって実現できるのではないでしょうか。日本人が新しい制度に合わせ無理をするのではなく、日本人に合った制度を作ってもらいたいと思います。

今日の目標
 今の日本について考えてみましょう

今日の写真
 雪は積もらないのですが、朝晩は冷え込んでいます。朝明るくなってくると一面が氷り銀世界が姿を現します。今日は小野川温泉の公園の枝が凍っている写真です。
 匿名希望さん、コメントありがとうございます。今日は久しぶりに記事として返信を書かせていただきたいと思います。
 
 今まで一生懸命に介護されてきたからこそ、少し疲れてしまったのでしょうか。たとえ家族のためであっても長い間一心に頑張り続けるのは大変なことです。そこで目先を変えてみませんか。私は子供の頃から口うるさく言われたことほど、身に付いていないと反省させられます。ところが両親が身をもって示してくれたことは自然と身に付いているから不思議なものです。
 
 誰にでも介護する時期と、介護される時期がやってまいります。私は自分が一生懸命に介護する後ろ姿を、子供達に見せることも大切なことだと思っています。自分の後ろ姿から介護の大切さと大変さを学んでくれるのではないかと思っています。自分がしてほしい介護を両親にしてあげれば、それが自分にも返ってくるのです。自分のためにと考えることには抵抗があるかもしれませんが、それで頑張れるのなら楽になるのなら、自分のために介護をしてもいいのではないでしょうか。
 
 最近は老後のための保険や年金がたくさんあります。ですが、最後に頼れるのは家族だと思うのです。また、そうあってほしいと願っています。お金がいくらあっても年をとれば使うこともなくなります。体が不自由になってきた時に必要なのは、あたたかい家族なのではないでしょうか。そのための一番確実な投資が両親の介護なのかもしれませんね。
 
 誰かのためではなく自分のためにと思えば少しは楽になるかもしれません。それと一人で抱え込めば必ず限界が来てしまいます。誰かに話を聞いてもらったり、少し助けてもらえればずいぶん楽になると思いますよ。
 これからますます高齢化社会となり介護の様々な問題が出てくることでしょう。ですが、私もまた介護を受けなければならない時が必ずやってきます。ですから、お互い様の心で「まず私から」という気持ちで介護のことを考えることも大切なのかもしれませんね。

今日の目標
 介護について考えてみましょう

今日の写真
 昨日はあたたかく三月のような天気でした。ですが朝晩は冷え込みました。今日は朝に撮った南天の実が凍えている写真です。

...もっと詳しく
 今年は暖冬だから安心して何もしないのではなく、余裕のあるうちに早めに雪下ろしをしておこうと思い頑張っています。大変な時というのは頑張るしかありませんから、自然に頑張れるものです。新しい仕事を始めた時、好きな人と結婚したいと思った時、大きな借金を抱えた時などはあたりまえのように頑張ることが出来ます。ところが、仕事が軌道に乗ると、結婚すると、返済のめどが立つと、人間は安心してしまい今までの努力を忘れてしまうのかもしれません。
 
 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」これは有名な「平家物語」の冒頭です。
 
 謙虚さを忘れた人、努力を忘れた人、権力や地位に執着する人にとって、我が世の春を謳歌できる時間は春の夜の夢のように短く、風の前の塵のように翻弄されてしまうということです。(本来は諸行無常を説いているのですが、私流に解釈しました)
 
 仕事・恋愛・家族・人間関係すべて順調な時にこそ大切にしなければなりませんね。失ってはじめて大切さを知るのが人間だといわれます。しかし、それでは春の夜の夢でしかありません。あたりまえのようにあるものこそ、かけがえのないものだということを忘れないようにしたいものです。

今日の目標
 「あたりまえ」を「ありがたい」に変えましょう

今日の写真
 昨日、当山の裏山に猿のグループがやって来ました。山に食べ物がなくなるこの時期はたまにやって来ます。写真は木の皮を食べている子猿です。グループにはかわいい子猿もたくさんいました。

 必ず企業の不祥事は起こるものなのかもしれません。今回はペコちゃんで有名な不二家が話題になっています。企業といっても人間が作りだしているのですから、問題があってあたりまえなのかもしれませんね。
 
 たいがいの人は善悪の判断ができるものです。しかし、私などは悪いと知りつつも踏み込んでは後悔することがたくさんあります。特に仕事の場合は「会社のために」と自分を正当化しては、禁断の領域へと足を踏み入れてしまうのかもしれませんね。
 
 「してはいけないこと」に魅力を感じるのが人間です。「この箱を開けてはいけませんよ」と言われると、どうしても開けたくなるものです。人間にはつねに誘惑がありパンドラの箱を開けるために、「会社のためにしかたなく」とか「あなたのために」と自分で踏み出せない一歩を進むために、いろいろな理由を作りだしては自分を正当化してしまうのかもしれません。
 
 自ら正当化という檻に入ってしまうと、まわりの人は助けることが出来ません。自分でも悪いことだと承知しているのですから、まわりの人の説得には意味がありません。正当化とは自己暗示です。思い込みは恐ろしい力を生み出し、善悪の基準を簡単に飛び越え暴走してしまいます。願わくば己の欲を満たすために、様々な口実を作り出している自分に気づきたいものです。戦国時代でも現代でも大義名分が争いや不祥事を起こす元凶なのかもしれませんね。

今日の目標
 自分を正当化しないようにしましょう

今日の写真
 今日の写真は小正月の行事「さいと焼き」です。一年間お世話になったお札やお正月の飾りなどを、地区の人が集まりワラを積んで火をつけ、お炊き上げをする行事です。