8月11日(木・祝日)、開催中の企画展「戦没画家 岡部敏也 -天才が遺した25年-」のギャラリートークが行われ、50名以上の方に参加いただき大いに盛り上がりました。
今回お話をさせていただいたのは、当館の田中館長。
館長は今から約20年前の1997年の展覧会を担当しており、今では亡くなってしまった方も多い岡部敏也の周辺の人々から、直にお話を聴いた一人です。
10代の作品ですでに画家と同じ手法で描き、画家の作品として観れる完成度の仕事をしたことに、皆さん驚いていました。
岡部敏也は商業学校に進みますが、商いの勉強そっちのけで絵に没頭していたという話もあるそうです。
敏也は染物屋の長男でしたが、両親の理解もあり東京美術学校へ進学します。
そこで、結城素明のもと新しい時代の日本画を模索しました。
世の中は太平洋戦争が始まり、表現の自由は失われつつありました。大家と呼ばれる画家であっても国の意向にそう画題で絵を描いています。
そんな中で、表現者としての画家を志す若者は、自分の眼で観たものを自分のために描いていきます。
婚約者が住んでいた村へ向かう道を描いた作品。
日本画伝統の線描と、西洋の光の表現が融合するような作品。画面の中から発光すかのよう。
集中して本格的に制作が行われた美術学校3、4年生(22、23歳)は、故郷・庄内の働く婦人の姿や子供たちを描いています。
次々と受賞を重ね、作品は美術学校などに買上げられましたが、その全てが戦火のなか行方が分からなくなってしまいました。
現存する大作4点。関東大震災の後、モダン東京として街並みが大きく変わった東京と描いた作品や、庄内浜の風景、そして庄内の婦人。
女性のモデルは、下宿先の荘内館で働く女性ですが、着ているものは故郷にいる婚約者の着物を送ってもらい描いています。
戦争へ行く前に敏也は、帰ったら作品の修理をすると言ったり、婚約者に3年だけ待って欲しいと告げていたそうです。
敏也は8月26日に満州で亡くなりました。その最期も遺骨も伝わっていません。
しかし、奇跡的に帰ってきたものがあります。戦時中、沖縄へ転属となった部隊長へ贈った画帖です。
平成10年ころ、この画帖を部隊長が岡部家へ届けてくれました。裏には供養のための御朱印がたくさん押されています。
時代背景とともに岡部敏也の人生を振り返り、その中で描かれた作品を鑑賞しました。
どれも完成された一流の仕事、画家としての将来が本当に期待された青年です。
館長の話を聴いて、画家としての岡部敏也と、一人の青年としての岡部敏也が見えきたような気がしました。
ギャラリートーク終了後も、改めてじっくり作品をご覧になっているお客様も多かったです。
展覧会は8月30日(火)までとなっています。
ぜひご覧ください。