【展示品紹介】村山槐多《差木地村ポンプ庫》大正5年(個人蔵)

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開催中の展覧会「大正・昭和の洋画 ―美から表現へ―」より、展示品のご紹介です。

 

今や大正時代の表現主義を代表する作家として評価される村山槐多の作品です。

村山槐多は文才・画才ともに早熟で、14歳で従兄弟の洋画家・山本鼎に油絵具一式を与えられたことを機に画家を志します。大正3年(1914)から画業に専念し、内面表出を伺わせる水彩画を制作。翌年には油彩画に取り組み、強烈な個性を示しました。失恋や生活の困窮に苦しみながらも、生命の充溢に価値を見出し、虚構的な文学性の強い作品や執拗な対象観察に基づく濃密な描写など、多彩な表現は当時から評価され画業は充実していました。
海外の多様な芸術的刺激が時間をおかず日本に雪崩れ込むようになった大正前半において、槐多はそれらに臆せず全面的に受け入れます。表現者として後ろ盾もなく世界と対峙した姿は、その後の芸術家像に決定的な影響を与えることになりました。

 

本作で描かれた差木地村は、伊豆大島(東京都大島町)の南部に位置します。大正5年7月、槐多は失恋の焦燥感を胸に友人と一ヶ月ほど大島へ渡り、大島の風景を描いています。東京に戻ってからは友人と共同生活を始めますが、槐多は突如下宿を後にします。残された友人は二人分の下宿代に困り、槐多の残した絵を売っていたそうです。本作もその一つで、友人が「一九一六・九 村山槐多」と裏書きしています。

さらに、カンヴァス裏面には写真が貼り付けてありました。
左から二人目が村山槐多。右端の半裸の人物が友人の山崎省三です。その他の人物は不明で、顔や作品を削り取ったのは槐多であると思われます。

 

また、これはあまり知られておりませんが、酒田と村山槐多にはちょっとした縁があります。それは、槐多の祖父・勝平は庄内の松嶺士族で、維新後に酒田に移り住でいます。この頃、槐多の父・谷助はすでに上京しており酒田での生活は無かったと思われますが、酒田にとっては芸術家・村山槐多がちょっと身近に感じられるエピソードですよね。のちに谷助は愛知県岡崎市に移り、槐多が誕生しました。

 

村山槐多《差木地村ポンプ庫》がご覧いただける「大正・昭和の洋画 ―美から表現へ―」は、12月23日までとなっております。ぜひ生でご覧ください!

※12月から2月の期間は、火・水曜日が休館となります。ご注意下さい。

 

 

2013.12.14:homma-m:[コンテンツ]

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