出羽・最上の戦国関連情報(@endnob)

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☆最上義光と父義守が争った「天正最上の乱」については、伊達輝宗が自筆で日記(天正2年伊達輝宗日記)をつけている。このため、乱の全容を詳細に知ることができ、現在は研究が飛躍的に進んでいるという。
☆伊達輝宗の日記には「中野」が登場するが、これは中野城にいる最上義守(出家して栄林と号す)のことであり、義光の弟といわれてきた中野義時のことではない。というか、中野義時の存在自体が認められない。
☆天正最上の乱は、家督は譲ったものの、自分の意見に従わない義光に業を煮やした父義守が、周辺国人衆を味方につけ、娘婿である伊達輝宗に援軍を頼んで義光を攻めたというものである。
☆最上家改易後に、最上家の遺臣が書き記したという「最上記」などには、この父子喧嘩のことは出てこない。最上義守を憚ってということなのだろうか。
☆兵庫県立歴史博物館で2004年に発見された伊達政宗書状は、白鳥謀殺事件に触れているだけでなく、そのほかの部分も面白い。日付は(天正12年)7月12日付けなので、政宗が伊達家の家督を継ぐ直前のもの。
☆その書状の内容を意訳してみる。「伯父さんのところで白鳥くんと氏家くんが殺されたみたいで、心配なので鉄砲隊を送ろうと思ったけど、大した事無く収まったので止めちゃったよ。僕が小斎(丸森町)に出陣していた時には、何度も援軍送ってくれてありがとう。今も忘れたりしてないよ。天童くんが伯父さんを邪魔してきたときには、僕からも援軍を送ろうと決めていたんだけど、今まで機会が無かったから延ばし延ばしになってるよ。僕と伯父さんの間柄なんだから、今度何かあったら、遠慮せずに言ってね。」まーくんより(`●ω・´)/
☆2004年に兵庫県立歴史博物館において、伊達政宗が最上義光に宛てた書状が発見された。この中に白鳥十郎長久の殺害に関する記述があるとのこと。
☆これまでは、重病を装った義光が、最上家の今後を託したいと白鳥長久を山形城に誘いだし、油断したところを義光自ら斬り殺したと云われてきた。義光が謀略家といわれたり、義理2だったりするのはこの事件の影響が大きいが、新発見の書状によると、実際はちょっと違うのかもしれない。
☆新発見の書状で伊達政宗は「白鳥ならびに氏家方生害の由」と書いている。生害には自害という意味もあるが、ここでは単に殺害されたという意味だろうか? それにしても氏家って、氏家守棟のことですか!? この時点(天正12年)で亡くなっていたということですか!?
☆別の氏家さんの可能性もありますけどね。氏家守棟に関しては、跡を継いだ息子?も氏家尾張守を名乗ったらしく、どこで代替わりしたのかはっきりしないらしいですね。
☆地元の先生方は、山形城内で白鳥長久が殺された際に戦闘があり、その戦闘で最上義光の重臣の氏家(守棟?)も死んだと解釈しているらしい。なので、重病を装って寝ていた義光が、その枕元で自ら長久を斬った、というのはホントかどうか怪しいということらしい。
☆「白鳥ならびに氏家方生害の由」なんて書き方だと、白鳥と氏家が手を組んで謀反を企てたので、両者を成敗したみたいな感じでもある。
☆白鳥十郎が山形城に赴く際、かなりの軍勢を引き連れていったという説もある。家臣たちは主君が死ぬと、山形勢と戦いながら谷地城まで引き上げてきたとか。
☆今日の最上義光講演会によると、義光は山形殿と呼ばれ、自身も山形氏を称していたとのこと。最上を名乗るようになるのは、庄内地方と由利郡を領土に加えて57万石になってから。史料では慶長6年8月以降に最上氏の呼び名が出てくるそうです。
☆上杉年譜の中に、慶長出羽合戦開戦前の8月に義光から直江兼続宛に送られた書状がある。内容は、嫡男の義康を人質に差し上げるし、1万人召し連れてどこまでもご用にたちます、という無条件降伏にも等しいもの。でも署名が「最上出羽守義光」になっているとか。つまり、後から作られた偽物らしいwww
☆上杉家御年譜って、上杉家文書の一部として国宝に指定されているんですよね。その中に偽書が混じってるの??
☆将来的には、最上義光ではなくて山形義光で信長の野望に登場したりしてw そして、名前を変えるイベントも追加でお願いします!
☆最上義光が山形氏を称していたことを示す象徴的な事物は、長谷堂合戦でもぶん回していた鉄製の指揮棒。「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」と刻まれていますね。
  最上義光歴史館関連ページ
☆谷地の白鳥十郎長久は、織田信長に使者を送り、出羽の支配権を認めさせようとした。その際に「白雲雀」という名馬を献上したという。
☆それを知った最上義光は、志村光安を使者にたて、鷹や駿馬などの献上品と最上家の系図を携えて織田信長に面会させたといい、「最上出羽守殿」と書かれた返書をもらうことができた。
☆この時かどうかは分からないが、織田信長に「大河原毛」という名の駿馬を献上しているらしい。その大きさは「十寸五分」だとか。
☆戦国時代以前の馬の大きさは、四尺(約120センチ)を基準にしていたといい、四尺を超える馬の場合は、四尺を省略したらしい。なので正確には四尺十寸五分(約153センチ)になる。
☆体高が四尺八寸(約145センチ)を超える馬は、「八寸にあまる」と呼ばれ、巨大馬ということになるらしい。前田慶次の松風もたぶんこのくらいかな? 最上義光が贈った「大河原毛」は、これより更に大きい「十寸五分」だw
☆最上義光は、徳川家康にも「両國」という名馬を献上している。奥羽両國に並びなき馬であることから、こう名付けられたという。家康は非常にこの馬を愛し、常にこの馬に乗っていたという。
☆義光が「両國」を献上したのは、家康がまだ三河と遠江のみを領していた頃というから、1580年前後のことと思われる。
☆小牧・長久手の戦いでは「両國」に騎乗していたのかなあ。関ヶ原の戦いでは「白石」という馬に乗っていたという。この頃には引退していたかもね。
☆今回の山形市報には、小姓町の「なかたち石」についての記載がある。「なかたち石」とは、尋ね人などの紙片を貼って、人々が情報交換を行う石碑みたいなもの。山形市報2012年2月1日号7ページ
  広報やまがた
☆明智光秀の家臣が、光秀の位牌を奉じて山形に逃れてきて、江波孫左エ門を名乗り漢方薬の商いをしていた。その孫左エ門が職業紹介を装いながら、明智の遺臣の消息を尋ねるため「なかたちの木」を建てたのが「なかたち石」のはじまりだとか。
☆明智といえば、最上家家臣のなかに、斎藤伊予守光則という人物がいる。最上記の家臣団リストにおいて「太閤より御預け」の記載がある人物である。このことから、明智家家臣の斎藤家との関連があるのではないかと思われるそうだ。
☆明智光秀の妹婿が「斎藤伊予守」という説もあるみたいだから、ホントに関係あるかもしれないですね。となると、「光則」は「あきのり」ではなくて「みつのり」と読む可能性も出てきますね。
☆斎藤伊予守光則は、最上義光から長男・義康暗殺事件の調査を命じられた家臣。最上川の開削工事の責任者でもあり、他国から多くの技術者を呼び寄せて工事を完成させたという。
☆ただいま最上義光歴史館では、企画展「(第4回)市民の宝モノ2012」を開催中。市宝「最上義光公百万石行列絵巻」が公開中とか。
  最上義光歴史館関連ページ
☆「最上義光公百万石行列絵巻」は、大正時代に、将来義光祭で大名行列を執り行うために、当時の市長が制作を依頼したものという。昭和30年代、この義光祭は、花笠まつりに変えさせられてしまったのだ…
☆没後400年記念で「最上義光公百万石行列」やったらいいんでないかい?せっかく先人が絵巻残してくれたんだし。参加者には、お弁当に鮭のおにぎりでも配ってさ。
☆鮭おにぎりは必須アイテムですねw
☆没後400年を迎える最上義光について学ぶ郷土史講座が開催されます。でも、平日の昼間じゃ行けないなあ〜 詳細は、山形市報2012年2月1日号の17ページでご確認を。
  広報やまがた
☆最上義光の400回忌はちょうど1年後。それまでの間に、何かイベントらしきものをしたいという話も聞こえてくるが、具体的には何も無し。いったいどうなるのかな。
☆400回忌では宗教色が強すぎて、山形市など行政では関与しづらいでしょうね。ここは400周年の2年後に向けてイベントを仕掛けてはどうかと思うのだが…
☆今日は山形市で「初市」が開催。最上義光の時代から続く恒例行事です。自分が子供の頃は、初市の10日までが冬休みだったんだけど、今は違うんだな〜
☆山形城下には、二日町、三日町、四日町、五日町、六日町、七日町、八日町、十日町があったという。今の住所だと、二日町と四日町が見当たらない。
☆もともとは九日町もあったのだが、延沢さんちにあげちゃったらしいww 延沢にはホントに九日町がある。
☆山形城下の九日町は、仕方がないので横町に改名したらしい。九=四+五だから四五町→横町。今の本町あたり。
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