出羽・最上の戦国関連情報(@endnob)

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 今年2013年は、最上義光公没後400年記念のイベントが多数企画されております。この気運を盛り上げるべく、最上義光プロジェクトミーティング(史上初の最上義光ファンの交流会です!)を開催します。ご参加の方には、最上義光歴史館から非売品グッズのプレゼントがあるかも!?
 たくさんの皆様の参加をお待ちしております。


開催日時:平成25年2月10日(日) 午前10:00〜12:00 ※途中からの参加OKです

開催場所:最上義光歴史館喫茶室

参 加 費:無料(最上義光歴史館も入館無料です)

参加申込方法:Twitterをご利用の方は、@endnobあてリプライまたはDMを送っていただくか、
       mogapro★hotmail.co.jpあてメールをお送りください。
       (送信の際は、★を@に変更してください。)

参加申込期限:2月5日(火)

トークテーマ:今回は、下記の2点について意見交換をしますので、お考えをお聞かせください。
       (1)最上義光を動物に例えるとなに?
       (2)最上義光グッズで作って欲しい物は?

その他連絡事項

○当日の午後1:15から山形駅西の霞城セントラルにて最上義光シンポジウムが開催されますので、こちらにもご参加の方は、間に合うように移動をお願いします。(最上義光歴史館から霞城セントラルまで約1.5km。徒歩約20分です。)なお、シンポジウムにご参加の場合は、別途事前にお申込みをお願いします。
   シンポジウムのお申込は下記のURLからご確認ください。
    http://www.gakushubunka.jp/cgi/event/d_event_view.cgi?ec=3138dt=2013:02:10

○午後からのシンポジウムに参加する方のために、お弁当の注文を承ります。ご希望の方は、参加申込の際に、その旨もあわせてお知らせください。お弁当は山形名物「九十九鶏弁当」、価格は800円(お茶付)を予定しています。
また、最上義光歴史館の喫茶室は飲食可能ですので、お弁当を注文しなくともコンビニで買ったおにぎりなどを持ち込んでいただいても大丈夫です。喫茶室には無料のコーヒーなども準備してあります。

○当日に交通障害があった場合などの緊急連絡は、最上義光歴史館(023-625-7101)へお願いいたします。

実施主体:最上義光プロジェクト運営本部  協力:最上義光歴史館
☆地元には、最上義康は鶴岡から高野山に向かう途中(もしかしたら山形に向かう途中)で暗殺されたと伝わる話もあるのかな。だとすると、通説と移動の向きが逆になる。
 六十里越街道の歴史
☆山形を追放され、高野山に向かう途中に暗殺されたとするには、あの場所は不自然。羽黒山に向かっていたとしても道が違うような気が。暗殺場所の街道(現国道112号線)を北に向かえば鶴岡に至る。
☆鶴岡にいた最上義康が呼び出されて山形に向かっていた途中で暗殺されたとするならば、あの場所で納得がいく。処分を言い渡す前であれば、義康の死を知った義光が狼狽するのも理解できる。
☆鶴岡と最上義康との繋がりは、鶴岡にも義康の菩提を弔う常念寺があること。山形には義光山常念寺という同名の寺があり、こちらも義康の菩提寺になっている。
☆そもそも通説になっている最上義康暗殺の話は、最上記などが出典だろうからあまり信用できない。2代藩主・最上家親の家督相続を正当化するように書いてあると思われる。
☆この最上義康暗殺事件で悪者に仕立てあげられたのが、里見越後・民部の父子ではないかと思う。民部の子である権兵衛は、義康の近習であったといい、里見父子は権兵衛に切腹を命じられたのが不服で出奔したという。
☆最上記にも最上義光と義康の仲を裂こうとしたのが里見父子だとは書かれていない。権兵衛が義康の近習だったことを考えれば、義康派の筆頭だったのかも。だから出奔せざるを得なくなったし、のちに家親により抹殺されてしまったのかもしれない。里見一族の粛正は、義光の遺言だったというのも怪しい。
☆最上義光の存命中に、里見越後・民部父子は連れ戻され、尾浦城の下吉忠に預けられていたという。義康暗殺の首謀者とするならば、なぜすぐに処断しなかったのか。義光の死後、遺言として処断したのが不自然に思える。
☆里見越後守・民部父子主従23名は、鶴岡市丸岡(旧櫛引町)にて切腹させられた。現在も丸岡の天澤寺(てんたくじ)に墓所がある。きちんと墓所が残っていることもあり、罪人扱いではないのかなと。斬首でなくて切腹だし。じつは最上義康暗殺地は、この丸岡のすぐ近く。意図的にそうしたものか。
☆最上記によると、鶴岡城は藤島城の新関因幡守が城代を務めていたが、その後、訳があって番手交代となり、小国摂津守と和田越中守が交代で城代を務めるようになったという。城代が交代制になった訳というのは、もしかして最上義康がらみのことなんだろうか。
☆最上57万石といわれているが、ホントに57万石あったのか!?

元和8年(1622年)の最上家改易後に、その所領がどのように分割されたのかを調べてみました。

 山形(鳥居忠政)  22.0万石
 寒河江(天領)    2.0万石
 谷地(天領)     1.5万石
 上山(松平重忠)   4.0万石
 新庄(戸沢政盛)   6.0万石
 庄内(酒井忠勝)  13.8万石
 左沢(酒井直次)   1.2万石
 白岩(酒井忠重)   0.4万石
 由利(本多正純)   5.5万石

上記を合計すると、56.4万石となり、ほぼ「57万石」になりますね。
ちなみに、由利郡5.5万石は本多正純が固辞したため、その後、下記のとおり分割されています。

 本荘(六郷政乗)   2.2万石
 亀田(岩城吉隆)   2.0万石
 仁賀保(仁賀保挙誠) 1.0万石
 矢島(打越光隆)   0.3万石

気になるのは、最上57万石のうち関ヶ原後に加増された分は、庄内13.8万石+由利5.5万石の合計19.3万石という点です。
つまり、関ヶ原前に治めていた最上郡と村山郡で、37.1万石あったということになり、さらに雄勝郡が加わりますので、実際は40万石弱はあったということになります。
一般的に、関ヶ原前の時点での最上家は、24万石あるいは13万石といわれていますので、ずいぶんと乖離がありますね。
もし、直江兼続が最上領を13〜24万石とみて軍事行動を起こしたのであれば、少し計算違いが生じても不思議ではないのかもしれません。
☆ネットサポーターの初仕事に行ってきました! 最上義光歴史館企画展示「鐵[kurogane]の美2012」開催中です。
☆今度の土日(28日と29日)は、午後6時半まで開館時間を延長するそうです。その頃は桜も満開を迎えていると思いますので、あわせて是非! 最上義光歴史館は入場無料なのがすごいですね。昔は有料だったんですけど。
☆「太刀 銘 出羽国酒田住兼高作」いただいた資料によると、寸法101.2㎝、重量1,365g。最上家親が山形市の六椹八幡宮に奉納した太刀。一目見た感想は「ながっ!」
☆最上義光の重臣・坂紀伊守光秀、光秀没後に坂家の家督を継いだ坂重内光重、義光から贈られた頭巾を被った北館大学助利長の肖像画も特別公開中。5月20日まで。
☆坂紀伊守光秀は、慶長出羽合戦後に長谷堂城主を務めた人物。光秀の読みは「みつひで」ではなく「あきひで」
☆最上義光と伊達輝宗が和議を結んで以降、義光方が優勢となり、義守の立場はきわめて苦しくなった。輝宗は「近日中に義守は切腹することになるだろう、お墓を用意するか、高野山に行くか、伊達に身を寄せるか、よく相談するように」という書状を義守方?に送っている。
☆でも結局、最上義光は父義守に寛大な扱いをするんですよね。切腹もさせてないし、追放もしていない。義守が病気になれば祈祷もするし、死んだときには小田原参陣を猶予してもらって、盛大に葬儀も行った。優しいというか、甘いというのか、そういう人物なんですね。
☆天正最上の乱以降、伊達側が最上領にちょっかいをかけたことがない。このときの和議によって、伊達輝宗は対相馬、最上義光は南出羽制覇という、それぞれの目標に、後方を気にせずに邁進できるようになったのではないかと思う。
☆伊達輝宗はいったん米沢に帰ったものの、再び最上義光を攻める準備を始めます。義守方の天童城から合図のかがり火があがったら、その翌日に総攻撃する段取りを整えますが、その総攻撃の当日になって、思わぬところから待ったがかかります。
☆伊達輝宗の叔父である亘理元宗が、今日は放生会(殺生を禁ずる日)だし、義光の方も動きがなさそうだから、総攻撃は止めなさいといいだし、結局、止めちゃったらしいのです。
☆伊達軍が動かないのを見た義守方の国人衆も、自分たちだけで戦うわけにはいかず、結局、総攻撃はお流れに…
☆そうこうしているうちに、伊達側は亘理元宗を代表にして、義光方と和議を結んで、さっさと撤退してしまったのだとか。元宗は初めから戦をする気はなかったのでしょうね。義守方は呆然。
☆最上記では、柏木山合戦で敗北して上山まで撤退してきた伊達輝宗のところに、義姫が輿に乗ってやってきたことになっている。
☆義姫は輝宗にむかって「父義守が伊達と最上が仲良くするよう遺言したばかりなのに、これを破って兄弟どうしで争うとはあまりにひどい。陣を引かないのならまず私を刺し殺してください。」と言って、輝宗も陣を引くのだが、これは全くの創作。
☆義姫が輿で戦場に乗り付けたのは、天正最上の乱ではなく、天正16年の大崎合戦のとき。兄・最上義光の軍と息子・伊達政宗の軍がにらみ合う中山峠に居座ったんですな。こちらはホント。
☆義姫が中山峠に居座ったのは「戦をしたければ私を殺してからになさい」ということなのだが、その時の伊達の状況を考えると、体を張って最上軍の伊達領への侵攻を食い止めたと言った方が適切だと思います。
☆最上義光はそこをどくようにと義姫を説得しますが、聞き入れられず、結局、根負けして伊達と和議を結びます。義光は、今回は自分たち最上の方が有利な状況だったのに、妹のために和議を結んだとあれば、周囲から笑い者にされる、とこぼしたらしいです。
☆この和議により、北からの圧力が無くなった伊達政宗は、会津攻略に力をいれます。そして、翌年の天正17年、摺上原の戦いにて蘆名氏を滅ぼし、会津を手中に収めることになります。
☆奥羽永慶軍記によると、摺上原の戦いには最上から伊達政宗に「小国隼人・安食大和守百余騎」が援軍に行っているみたいです。喧嘩しながらも、ここぞというときにはちゃんと援軍を送ってあげる優しい義光伯父さん。
☆天正最上の乱において、上山城攻略に失敗した伊達輝宗は、その後いったん米沢に兵を引きます。これは、義姫がやってきたからではなく、会津から蘆名盛興死去を伝える使者がやってきたため。蘆名の後継者問題に対応するため、米沢に帰ったんですね。
☆天正最上の乱において、里見民部と同様に義光方として頑張ったのが、寒河江城主の寒河江兼広。周辺がみんな義守方なのに、ひとりだけ義光に味方している。そのため総攻撃されて1度は降参したのに、しばらくするとまた義光に味方するという律儀さ。
☆寒河江兼広は、自分の死後は最上義康を婿に迎え入れて自分の跡を継がせるという約束をしていたという。あの律儀さは、この約束があったからなのか、このほかにも義光との間に何か特別な繋がりがあったからなのか。
☆実際は、寒河江家臣団が約束を反故にし、一門の中から寒河江高基を当主に迎えたため、戦になって、最上義光に攻め滅ぼされてしまいます。このあと、寒河江は寒河江一族の寒河江肥前守に任せたらしいです。義光は敵対勢力を根絶やしにしたりはしないんですね。
☆最上記に登場する話は、最上義守ではなく、義光の伯母婿という上山城主の「上山満兼」という人物が、義光に不満を持ち、伊達輝宗に持ちかけて、共に義光を攻めるというもの。しかし、この上山満兼という人物、そもそも実在したかどうか不明とか。
☆最上記では、伊達輝宗は「柏木山合戦」において義光方に大敗を喫し、上山城まで撤退することになっているのだが、この「柏木山合戦」は存在しないらしい。つまり、後世の作り話であるとか。
☆天正2年伊達輝宗日記によると、4月に伊達領内全域に陣ぶれを出し、5月には上山城を総攻撃したものの失敗し、伊達領と最上領の境にある楢下(上山市)まで撤退したとある。このときの上山城主は、上山満兼ではなく、里見民部。
☆里見民部は、氏家守棟の調略により主君の上山満兼を殺して代わりに城主になったと最上記には書かれているのだが、上山満兼は実在したか分からないし、伊達輝宗日記によると、そもそも初めから上山城主だった可能性もある。
☆それにしても、里見民部はかなりの戦上手とみえる。天正最上の乱では伊達軍の総攻撃から上山城を守り抜き、慶長出羽合戦では、上杉軍を奇襲により撃退している。どちらも手勢は300〜500程度だったとか。
☆伊達輝宗は日記で里見民部のことを「さと民」と略して書いているみたいです。さとみんw
☆里見民部は、主君を殺して城主になった、上杉家に内応しようとしたが父親を山形に人質にとられたのでしなかった、最上義康の廃嫡事件に関与して最上家を出奔した、最上義光が里見一族は粛正せよと遺言した(そのため実際に粛正された)、など黒い噂が絶えない人物なのだが…
☆天正最上の乱や慶長出羽合戦における義光への貢献度を考えると、実際はそんなに腹黒い人物ではなかったのかも。家臣団の権力闘争の過程で悪者にされたのかな? しかし、いまのところ実名が分からないのが不思議。「名前を言ってはいけないあの人」な扱いなのかと思っちゃいます。さとみんw
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