「希望学」は何を目指すのか

 標記の論文が「経済セミナー」(11月号、p14-p17、日本評論社)に掲載されていますので紹介します。筆者は、玄田有史氏(東京大学社会科学研究所助教授)です。

 希望について考えるきっかけは、「若い人が働きづらい」という現実の問題である。今の若者は、何が目的で、何に満足感を得て生きたり働いているのかと言うと、若者自身それがつかめなくなっている。ニートは、働いている人以上に「働きたい」という気持ちが強く、働く意味についても考えている。意欲もある。だけど働けないのは、働くことに希望がないのではと言うことに行き当たったのである。

 若者の失業と言う雇用問題は、年齢やスキルによるミスマッチがあるが、いちばん大きいのは「希望のミスマッチ」である。求職者が「希望する仕事がない」と言っている状態です。自分自身が何を希望しているか分からないと言う人が多い。希望と言う言葉にまず必要なのは、分類化し類型化して行くことではないか。切り口の一つは、実現可能性であり、行動を伴なう希望・伴なわない希望と言う分け方がある。

 教育現場ではキャリア教育が盛んに行われ、自分の適性・能力に見合ったことを見つけることが大切だと言われ、子供たちも「なりたい自分」がなければと強く思っている。だけど一方でなれないことも知っていて、ものすごいジレンマに陥り苦しんでいて、希望なんか持ってもしようがないと思っている。希望学でやろうとしていることは、ある意味で挫折学である。本当の希望は、絶望とか失望を伴なうからこそ希望であり、まれにしか実現しないものである。希望は持っていたけれども途中で失っている。失って、新しい希望に修正できている人がいちばんやりがいを持っている確率が高い。希望はときに失望を生むが、失望の中でこそ得られる自分と社会との関係の認識、修正力とか調整力を生み出す源泉としての希望が必要である。新たな希望を持つプロセスを生み出してゆくからこそ希望は大事なんだということを客観的に示して行きたい。

 いま日本の社会に問われているのは人材育成である。人が能力をアップするのは圧倒的にOJTによってである。育成とは修正であり、小さな失敗経験を重ねて「私はこんなにダメ」「やろうと思っても出来ない」とへこみながらも、上手に叱られたりおだてられたりして、軌道修正する力を身につけてゆく。これが育成のエッセンスでありOJTである。希望は修正することが大事なのではなくて、途中で修正することにより高い充実感が得られるからかもしれない。そんなことを、事実やデータとして記録しておくことが私たちにできる仕事ではないか。希望学が意味を持つとすれば、サロン的な場所において為しうるものだと思う。
2005.11.15:dai:[学習]

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