「誰が第二次世界大戦を起こしたのか」フーバー大統領の裏切られた自由、を読み解く(渡辺惣樹著)の読書抄録を紹介する。
真珠湾攻撃の報が伝わった時、フーバーには驚きの感覚はなかった。フランクリン
ルーズベルト大統領が、ついに何かやらかしたなという感触を持った。ヒトラーはダンツィヒのドイツ返還を求めて戦いを起こした。ドイツに宣戦布告したのは、イギリスとフランスだった。ワシントン議会は与党民主党が多数派だったが、議員の75%が参戦反対であった。ヨーロッパ方面の外交に手詰まりとなったFDR政権が、日本に対して意地悪をしてきた。
1章 ハーバート・フーバーの生い立ち
スタンフォード大学の地質鉱山学部で学んだ。フーバーは、ビルマにおける鉱山事業で大きな富を得た。大統領時代にも給与を受けなかった政治家である。フーバーが大統領の時代は財政均衡が当然とみなされていた。積極的な財政支出による経済回復の道を理論的に示したのは、ケインズであった。大統領選挙でフーバーをこき下ろしたのが民主党のFDRだった。
2章 裏切られた自由を読み解く
その1 共産主義の拡散とヨーロッパ大陸の情勢
FDR政権の対日外交の実態は闇に隠されていたが、FDRが何かやらかしたという感じはあった。ルーズベルト外交によって、ソビエト共産主義の東西への拡散を防いでいた2つの強国日本とドイツが崩壊した。日本の真珠湾攻撃さえなければアメリカは参戦できなかった。参戦を目論むFDRの作戦が見事にはまった事件だった。経済制裁で瀬戸際に追い詰められた日本人のやむにやまれぬ反撃だった。といえ、戦略的には愚かな戦いだった。
ルーズベルト外交の最初の失敗は、ソビエトの国家承認だった。ルーズベルト政権がどれほど左翼思想にかぶれていたか、現在はヴェノナ文書によって明らかにされている。ロシアと普通の外交関係を結ぶことが難しいのは、指導者が世界革命思想を持っているからである。
1938年開戦前年の分析。ヒトラーはその経済運営で評価が高かった。ヒトラーは文字通り共産主義を毛嫌いしていた。また民主主義の欠陥にも気づいていた。チェンバレントの会談で、ヒトラーは必ず東に向かう、その行き着く先はスターリンとの壮絶な戦いであると予想した
その2 チェンバレンの世紀の過ちとルーズベルトの干渉
FDRは日独伊三国によって世界の平和が乱されている。これを是正するためにアメリカは積極的に国際政治に関与しなければならないと訴えた。ベルサイユ体制の固定化を正しいとするFDRは、民族や宗教を考慮しない国境の線引きがもたらす民族運動や、共産主義革命を他国に伝播させるソビエトの工作には全く関心がない。FDRは自身が進めたニューディール政策の失敗に焦っていて、戦争経済の好況に期待していた。
行動を起こしたヒトラー、ズデーテンラント併合とミュンヘン協定。オーストリア併合に続いたのは、チェコスロバキアのズデーテンラント併合だった。チェンバレンの過度な対独宥和外交の象徴とされるが、ヨーロッパ各国は戦争が回避できたと喜んだ。チェコスロバキアが自壊。英国のポーランド独立保障宣言には驚いた。ポーランドの頑な姿勢は、ルーズベルト政権の意向の反映だった。
共産主義者は民主主義国家側にもヒトラー側にも立てるポジションを得た。戦うか戦わないかも選択できた。彼らは共産主義イデオロギーの拡散に極めて有利な立場になった。ヒトラーは独ソ不可侵条約を結んでも軍事力を行使せず、ダンツィヒ・ポーランド回廊 問題の外交的解決を図ろうとした。日米戦争の原因は、ポーランドの頑なで 稚拙な対独外交が原因だった。
その3 ルーズベルトの戦争準備
戦いがどれほど悲惨であっても、アメリカは参戦せず自由の明かりを灯し続けることであった。ヨーロッパの人々自身が解決の糸口を見いだし、そこから新たな民主主義国家 を創造すると決めた時に、アメリカは必要な支援をする。それこそがアメリカが取るべき 外交だ。
アメリカはヨーロッパの問題を解決できないことを肝に銘じるべきだ。我が国ができることはあくまで局外にいて、アメリカの活力と軍事力を温存することである。その力を必ずや訪れるはずの和平の時期に使うべきである。FDR は中立法の修正でニューディール政策の失敗を隠し通す目安がついた。次は国民世論を干渉主義に導き、現実に参戦することであった。武器対応法が成立した時点で、ワシントンの政治の動きを知るものはFDR が戦争への道をひた走ってることを確信した。
1941年6月ヒトラーは独ソ不可侵条約に違反してソビエトに侵攻した。国民も議会も我が国の参戦に強く反対だった。従って、大勢をひっくり返して参戦を可能にするには、ドイツあるいは日本による我が国に対する明白な反米行為だけであった。
大西洋憲章は 交戦国のイギリスにとっては戦争目的を表現したものにすぎない。だが、アメリカはあたかも交戦国のごとく戦争目的を公にした。FDR政権は日本を徹底的に敵視する外交を進めていた。FDR 政権による日米首脳会談の拒否は、日本との外交交渉による解決を望まないと宣言したのと等しい。このことは、戦争を選んだのは日本でなく アメリカであったことを示していた。ハルノートは最後通牒である。
真珠湾攻撃によって対日強硬外交の目的がようやく達成された 。彼らが日本外交を通じて戦っていたのは自国の世論であった。真珠湾攻撃による被害は、FDR政権幹部の想定をはるかに超えた。
5章 連合国首脳は何を協議したのか
2回のワシントン会談は対独戦争優先の決定と原爆開発である。カサブランカ会談では無条件降伏を要求した。カイロ会談では、満州・台湾を中華民国に変換することと、 奴隷状態に置かれた朝鮮の人々を自由に独立すべきとした。テヘラン会談でFDRはスターリンと会談した。FDRとスターリンは多数の民族がソビエトの支配下に入ることを容認して国際連合が出来上がった。バルカン半島の国々のソビエト支配が完全に容認された。ヤルタ会談でFDRの死に至る病になった。ヤルタ会談の中心議題は、戦後ヨーロッパのあり方で、侵略国家によって奪われた主権と自治の回復だった。ヤルタ会談の秘密協定はソ連の対日参戦。
ルーズベルトの死とトルーマン副大統領の昇格。ポツダム会談はドイツとポーランドの戦後処理と、対日戦争の方針を協議することだった。日本は天皇に危害を加えないことさえ容認すれば、いかなる条件も飲むことはわかっていた。原爆は日本に使用されたが真の標的は ロシアだった。
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