日本にやって来たユダヤ人の古代史

 日本にやって来たユダヤ人の古代史(田中英道著)と言う本を読んだので読書抄録を紹介する。

 本当に日本にユダヤ人がやって来た。ディアスポラ(離散)になったユダヤ人は遊牧民族になり、太陽の昇る方向(東)に向かって、弥生時代(紀元前10世紀)から大和時代(6世紀)にかけて、5つの波でやって来た。

 聖書と日本神話には似た部分がある。聖徳太子は馬小屋で生まれ厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれ、つばの広い帽子に長く伸びたあごひげ、高い鼻に髪を左右に分けて束ねた髪型、明らかにユダヤ人を思わせる埴輪が茨城や千葉など全国から出土している。日本語の3000語がヘブライ語から来ている。日ユ同祖論とは違い、日本の文化を受け入れ同化した同化ユダヤ人である。

 エジプトの奴隷となった同胞をモーゼが導いてカナンの丘にやって来た、紀元前10~11世紀が第1波である。スサノウと呼ばれ高天原の神として具現化。八岐大蛇とは大洪水のことで、草薙の剣は原日本人の剣であり治水を行った。

 紀元前722年、アッシリアに追われた10支族の流れである。ニギハヤヒの大和国家成立に貢献した。サルタヒコは天孫降臨、鹿島から鹿児島へのニニギノミコトの海の移動を先導した。紀元前660年頃である。

 紀元前3世紀、秦の始皇帝の命で徐福がやって来て、波状的に秦氏がやって来たのが第3波である。

 応神天皇の4世紀頃、中央アジアの弓月国からユダヤ人グループが渡来したのが第4波である。

 ユダヤ人渡来の第5波は、ネストリウス派がキリスト教の異端とされ排斥されたが、新羅に迫害を受けている所を天皇家に助けられ、やって来て蘇我氏となった。古墳や神社や猿楽を生んだ。

第1章 聖書で読み解く古代ユダヤと日本のつながり

 「申命記」にはユダヤ人の日本渡来を思わせる記述がある。ユダヤ人の来訪時期と日本建国の年号が一致した。紀元前660年。広隆寺に残るモーセの十戒の痕跡、十善戒があり、秦河勝が秦氏の氏寺として創建。秦氏はネストリウス派のキリスト教徒。唐では景教と呼ばれ大秦寺と言う教会が作られた。京都に太秦の地を与えられた。(21代・雄略天皇)第二の建国は崇神天皇の時代。蘇我氏や土師氏も渡来人で要職を与えられた。同化ユダヤ人は祭儀(お祭り)が好きで、お囃子や相撲に影響が見られる。

第2章 ユダヤの異形の神々は大陸を横断してやって来た

 高天原の正体は縄文時代に存在した日高見国だった。鹿島神宮や香取神宮の近くに高天原の地名がある。日高見国を統率したタカミムスビノカミの系譜は天皇家に繋がる。寒冷化を原因として東国から西国に人口が移動し、日本の中心も西に移動した。「新撰姓氏録」から多くの帰化人が東国に送られた。秦の始皇帝はユダヤ系だった。荘襄と趙姫の子であるが、丞相の呂不韋(ロフィ)の子と言われる。相撲の語源はシュモー「彼の名前」と言うヘブライ語。仁徳天皇陵はクフ王のピラミッドより大きくユダヤ人の土師氏が作った。アメノウズメの真衣は遊牧民族的だった。アマテラスを外に誘い出すため裸体で舞った。その末裔は稗田阿礼で秦氏だった。秦氏は平安京の遷都や造成に関わり、周辺の神社を創建した。西へ移動した日高見国の人々が前方後円墳を築いた。ユダヤ人の技術力と蓄財力が巨大古墳の造成に繋がった。フリーメーソンの知識と技術が使われた。稲作が朝鮮や中国から伝わったとするのは誤り。太安万侶の言語能力はユダヤ系の特徴。古事記を編纂。スサノウはユダヤ系だった。ヘブライ語でスサ・ノファ(安息地にたどり着いた武人)。ユダヤ人の日本渡来を証明する人物埴輪。帽子とミズラとあごひげ。サルタヒコ、ヤマトタケルも渡来人か?

第3章 日本語に残されたユダヤ人の痕跡

 ヘブライ語の「アタ」は「あなた」。「はっけよい、のこった」もヘブライ語。「ミカド」はヘブライ語で「偉大な人」。侍は「守る者」シャムライ。国歌「君が代」はヘブライ語として読める。

第4章 新しい埴輪学が明らかにする同化ユダヤ人の姿

 東国に武人埴輪が多く出土。美豆良(ペイオト)を付けた人々がシルクロードを移動してやって来た。同化ユダヤ人・秦氏は能を生み、灌漑技術をもたらした。松尾芭蕉はユダヤ人の感覚を受け継いでいた。埴輪から神社建築のルーツが分かる。

第5章 秦氏ユダヤ人は蘇我氏の事件を見て日本への同化を決めた。

 出雲の勢力は日高見国へ国を譲り諏訪へ進出した。スサノウの蓄財力はユダヤ的。同化ユダヤ人は神武天皇(=崇神天皇)の国作りを助けた。蘇我氏はネストリウス派のキリスト教徒だった。蘇我氏の滅亡を見た秦氏は一神教を捨てた。

2024.07.08:dai:[学習]

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