日本人が知っておくべき「この国根幹の重大な歴史」(加治将一、出口 汪)と言うタイトルの本を読んだので紹介します。
1.日本開国の裏には驚愕の事実があった
坂本龍馬は内ゲバで中岡慎太郎に斬り殺された。大政奉還の龍馬を武力倒幕派の中岡慎太郎が斬った。後日、龍馬暗殺の手柄を立てた田中光顕は宮内大臣に出世したことからも分かる。
イギリスのアーネストサトウとグラバーとパークスは、幕府転覆を模索し日本人エージェントとして坂本龍馬を利用した。秘密結社フリーメイソンのロッジが密談場所として使われた。イギリスは中国にアヘンを売ったが、日本では銃や大砲など兵器と船が儲かった。龍馬は大政奉還で武力革命に断固反対したので、グラバーに見捨てられ暗殺された。
宣教師のフルベッキは、イギリスのグラバーを切り離しアメリカにシフトを変えさせた。明治維新後、そのまま行けばイギリスの属国になりかねない所を、岩倉使節団を提案し、明治4年から2年間、政府中枢をアメリカに派遣した。英仏の思惑は日本の植民地化にあったが、かろうじて難を逃れた。
2.フルベッキ写真の謎と明治天皇すり替え説を検証する
フルベッキ写真(46人撮り)は、ある意味で血判状のような役割を果たした。写真にはのちの睦仁親王(孝明天皇の息子)に取って代わり明治天皇になったとの説がある、大室寅之祐とみなされた人物が写っている。
徳川家茂は、第2次長州征伐で京都・大阪に来たときに突然死んでしまい、毒殺された以外に考えられない。孝明天皇も半年後に死に、薩長にとって都合の悪い2人のトップが相次いで亡くなった。孝明天皇は徹底した外国嫌いで頑強な攘夷論者。孝明天皇の暗殺(ヒ素中毒)が真実とすると、その実子・睦仁親王をそのまま天皇にするのは不自然である。
和宮は天皇の妹で将軍の妻、副葬品はなく左手首がない遺体であった(増上寺)。和宮は無血開城の時に裏で動き、旧幕府勢力にはシンボル的な存在だった。生きて明治天皇に会えば別人と分かってしまう。途中の箱根で殺害された可能性がある。孝明天皇の子、睦仁親王も箱根で殺され阿弥陀寺に葬られたのではないか。和宮の戒名が「静寛院殿二品親王」となっており、和宮と睦仁親王の2人分を入れ込んだ。阿弥陀寺は、睦仁親王と和宮の2人の遺体を引き取った。
睦仁親王と明治天皇では体格があまりに違う。睦仁はひ弱なのに、明治天皇は相撲を取っていた。睦仁は右利きなのに、明治天皇は左利き。明治天皇は、すり替わった自分こそ正統だと公言したかった。皇居のそばに楠木正成像を作ったり、南朝の皇族や武将を祭神とした南朝神社をつくり、明治天皇は死ぬ1年前に南朝こそが正統だと聖断を下した。
明治神宮に行くと、明治天皇の妻を皇太后と書いてある。明治天皇の妻・一条美子さんは、先帝・睦仁親王の妻であり、本来は皇后と呼ばれるべき。孝明天皇の崩御1866年12月から明治天皇の即位1868年8月まで1年以上かかっているのも異常である。この日本史の闇は明らかになれば社会問題にもなる。昭和・平成・令和天皇のルーツは何?
有栖川宮(孝明天皇の弟)は、次の天皇にするとの三条・岩倉の甘言でさんざん利用された挙句、ウツになって自殺した。
鳥羽伏見の戦いを始め、騒擾状態のどさくさで御所に突入し、すり替える環境を整えるべく、今までの女官や側近を全部解任している。吉田松陰の功績は、南朝天皇の子孫・大室寅之祐を長州が囲って天下をとるシナリオを考えたことにある。
大室寅之祐は山口県田布施町の出身、長州閥が幅を利かせたのは明治天皇を握っていたから。孝明天皇の暗殺事件は、犯人が岩倉具視と伊藤博文であることを突き止めた。岸信介元首相も「明治になって天皇家が変わっている」と明言している。孝明天皇の祭神として玉鉾神社が正式に登記が認められたのは1954年であり、死後87年間許可が下りなかった。明治維新は、下級武士による政権奪取であると言える。
明治天皇のすり替え、にわかに信じがたいことだが、最近になって、このような書籍がたくさん発行されている。山形市立図書館にも数多く並んでいる。この国の本当の歴史を知ることは、この国の将来の在り方を考える上で大切なことと思われる。
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