「明治維新の正体 徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ」(鈴木荘一著、毎日ワンズ発行)と言う本を読んで抄録をまとめたので紹介します。「薩長史観の正体」と合わせて読むと理解が深まると思います。
0.はじめに
戊辰戦役と言う痛ましい流血は、西郷隆盛ら武力倒幕派が、イギリス型公議政体への移行を念願した徳川慶喜の大政奉還の意義を理解しなかったため生じた。歴史は単に戦勝者の作り話にすぎない。
1.維新の先駆者徳川慶喜
明治41年、徳川慶喜は大政奉還の功績により、明治天皇から勲1等旭日大綬章を授与された。
2.日米和親条約を容認した徳川斉昭
老中阿部正弘は、徳川斉昭を幕政参与に任じ、全員参加型の民主的挙国一致体制を確立し、開国やむなしの合意を積み上げた。1853年、日露交渉は国境確定、開港、貿易開始、犯罪人処分など日露和親条約の草案を作った。徳川斉昭は米ロで談合があり、アメリカと対抗するためロシアと組むのは危険と言い、アメリカと真正面に向き合って交渉した。このような歴史を学んでおれば、1945年、ソ連を通じて和平を提議し、ソ連を仲介とする和平交渉を開始して無残な結果に終わることも無かったろう。
水戸学の会沢正志斎は、徳川幕藩体制では日本は統一国家とは言えない。皇室を戴いて国家統合の象徴とし、3百諸藩が団結して外夷と対峙しようと考えた。1854年、下田・函館開港、薪水・食料供給などを定めた日米和親条約を調印し、アメリカに開国した。
安政の改革として、海防に取り組んだ。人材の登用を始め、スクリュー式の軍艦2隻をオランダに発注した。幕府は財政の総力を挙げて海軍を整備した。アメリカ東洋艦隊の約7割に達した。
3.通商条約の違勅調印
井伊直弼は、積極的開国論者の堀田正睦を首席老中に推挙したことは、幕府の外交方針が開国を選択していたことを意味する。貿易開始はやむを得ないが、朝廷に奏上し、朝廷から勅許を得るべしとなった。孝明天皇は西洋人を日本に近づけることを極端に嫌った。(朝廷の攘夷論)
交渉において、ハリスの不機嫌もあり、勅許無しに調印する許可を井伊直弼は与えた。幕府は、英明の誉れ高い慶喜の擁立を図る「一橋派」、伝統的な幕府専制主義を主張する「南紀派」(家茂を擁立、リーダーは井伊直弼)とに分かれた。
4.吹き荒れる攘夷の嵐
戊午の密勅は、幕末抗争・流血の最大原因になる。水戸藩の激派の行動に対し、井伊直弼は「安政の大獄」を始めたが、水戸浪士によって桜田門外の変で暗殺された。
朝廷と幕府の対立は、和宮降縁によって公武合体が成立した。尊王倒幕を唱えた西郷や大久保に真に尊王の心があったのか?江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟が立役者のように語られるが、和宮の努力で徳川慶喜の助命が得られたからこそ、江戸城無血開城が実現した。
遣米使節団の派遣と咸臨丸の太平洋横断、福沢諭吉の渡米。アメリカ南北戦争と対馬事件で、頼りはアメリカからイギリスへ。ロンドン覚書、イギリスは列強のリーダーはイギリスと思い知らせた。
急進的攘夷派の思想的リーダー真木和泉のテロリズム、天誅の猛威、テロの嵐の中、京都守護職に松平容保を充てた。長州の外国船砲撃。公武合体が朝廷と幕府の内戦を回避した。八・一八政変。孝明天皇は攘夷論者であったが、公武合体を支持し、現実政治は幕府に任せる考えだった。三条実美ら攘夷派公家は京都を追われ長州に下った。攘夷派の水戸天狗党の乱。蛤御門の変で長州勢は総崩れした。
5.慶喜が条約勅許を得る
通商条約は違勅調印が最大の問題だった。薩摩藩の大名行列で生麦事件発生、賠償金11万ポンド支払い。薩英戦争の原因に。四国艦隊の下関砲撃事件。長州藩は降伏し、賠償金300万ドル。高杉晋作は幕府の命令で攘夷行動をしたとの言い逃れで幕府の監督責任となった。
第1次長州征伐の撤退。孝明天皇が通商条約の勅許を下したのちは、長州藩・薩摩藩の攘夷派テロリストによる異人斬り、外国公使館襲撃、外国船砲撃は止んだ。
6.イギリスが薩長を支援
イギリス武器商人グラバーは、南北戦争で余剰になった最新鋭の小銃を薩長に売却し、イギリスが長州藩に心を寄せていることは、周知の事実だった。長州藩の不始末により下関戦争の賠償金を幕府から召し上げ、長州に信用供与していた。グラバーの親薩長・反幕府の立場はハッキリしていた。イギリスの武器→長州の米→薩摩の密貿易の金が三角貿易となっていた。
坂本竜馬は亀山社中を結成し、薩摩藩から毎月3両2分の手当を受け、幕府探索方の眼をくらませながら、密貿易の輸送やブローカーをした。公然と通商条約(コンプライアンス)違反をした人物を幕末の英雄のように言うのは間違いである。日本人同士が殺し合う内戦で使われる高性能小銃の密貿易で高利潤を得た坂本竜馬は決して英雄とは言えない。
密輸の三角貿易は薩長同盟へと結びつく。グラバー商会は亀山社中を下請代理店として薩摩藩を介在して長州藩との武器密貿易の違法行為を行い、イギリスも黙認した。グラバーは明治41年、勲二等旭日賞を受賞している。アーネスト・サトウは薩長の代弁者として、反幕府の立場で内政干渉した。
第二次長州征伐では、西郷はイギリスの軍事力を背景に、幕府を武力で討伐する決心をする。大村益次郎の散兵戦により、戦争と言うよりほとんど狩猟に近かった。
7、徳川慶喜の登場
慶喜が正式に将軍職に就任した直後、最大の理解者である孝明天皇が35歳で崩御された。第二次長州征伐が長州藩勝利、幕府敗北で終わると、フランスがイギリスへの対抗心を露わにし、親幕府の姿勢を鮮明にした。フランスは絹織物工業の原料生糸を日本から輸入しようとし、イギリスは武器を輸出しようとした。
慶喜はフランス型幕府陸軍を創設。海軍力に加え陸軍力を強化、旗本軍団全員を銃隊に組み換えた。慶応3年末には、歩兵7個連隊、騎兵1隊、砲兵4隊、計1万数千人の近代的陸軍を整備した。兵庫開港の勅許を獲得。長州藩への寛大な処分の勅許は、陸軍力を誇示して、戦わずして政治的勝利を収めた。
8.大政奉還の思想
幕府開成所教授・西周が慶喜のため起草した「議題草案」の思想は、わが国の新政治体制はイギリス議会主義を手本とし、皇室をイギリス王室に、大君をイギリス首相になぞらえたもの。大政奉還上表文は、五箇条の御誓文の原型になった。慶喜は将軍職に就いた時点で大政奉還を意識し始めていた。
島津久光は、パークスやグラバーと組んだ大久保利通の口車に乗り、徳川幕府に代わる島津幕府を夢見て、薩摩兵団という強力な武力を背景に徳川慶喜と敵対した結果、島津久光の私兵だった薩摩兵児は西郷隆盛に簒奪されてしまい、維新の元勲として中央政界へ進出したのは西郷隆盛と大久保利通だった。
討幕の密勅は、偽勅ともいえる代物だった。薩摩への密勅は三条実愛が、長州へは中御門経之が書き、これを企てた岩倉具視のほか誰も知らない。(三条実愛の告白)まさに、公文書偽造であった。
アーネスト・サトウは桂小五郎に、「日本のような後進国には暴力革命がふさわしい」とけしかけ、桂は坂本竜馬に「幕府が大政奉還により公権力の名分を失ったのちに、鉄砲芝居で幕府を倒す」と吹き込んだ。サトウは「一外交官が見た明治維新」の著作があるが、「一外交官が干渉した明治維新」と改題すべき、陰のシナリオライターだった。
西郷隆盛は、「話し合いや和平路線を模索する有力大名がいればこれを刺殺し、江戸において放火・略奪・強盗・殺人などの非合法活動を行って幕府を挑発し、幕府と戦端を開いて、戦意の乏しい幕府を武力討伐して、「刀槍の時代」に代わる「大砲の時代」を確立しよう」と武闘派らしい決心をした。
小御所会議では、山内容堂は岩倉具視を「幼沖の天子を擁して、権力を私しようとするもの」と糾弾した。当時、岩倉具視は孝明天皇を毒殺したと噂されていたが、西郷隆盛は「短刀一本あれば片付くこと」と言い放ち、山内容堂刺殺を黙示して脅迫し、実質上の武力討幕方針を決めさせた。
大政奉還により武力討幕の大義名分を失った西郷隆盛は、相楽総三に「江戸市中を擾乱し、幕府を挑発せよ」と密命を与えた。江戸町民は「薩摩御用盗」と恐れられた。薩摩藩邸焼き討ち事件が起きると、開戦の口実が出来たと喜んだ。
鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗(玉松操が密造)が薩長陣営に翻った。慶喜は陣頭指揮を宣言したが、突如、江戸にもどり周囲の反対を押し切って恭順に踏み切った。その後の相楽総三は西郷隆盛から殺され、「敬天愛人」を唱える西郷の真の姿は陰謀と冷血である。
9.万民平等の実現
鳥羽伏見の戦いを、「わが国の滅亡の始まりだった」との見解も少なくない。薩長軍の補給を絶てば勝てた。その後、長州人脈が日本陸軍を牛耳ったが、補給軽視は長州藩の伝統に遠因がある。
会津藩の神保修理は、薩長側に錦の御旗が翻った以上、恭順の意を示すべきと慶喜に薦めた。尊王思想を生んだ水戸藩は、三百諸侯の中で特異な存在で副将軍を自認していた。水戸藩第2代藩主徳川光圀は、「大日本史」を編纂した。「万民平等の思想」としての水戸尊王論は、南朝正統論を唱え、私利私権・自己保身に執着しないよう戒めた。
鳥羽伏見の戦いは、幕府が簡単に負ける戦いではなかったが、そうなれば外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても、わが国の独立は制約を受けていた。
幕末のポピュリズムは、奥羽越戊辰戦争を、新政権の支配者となった官軍が東北軍を完膚無きまでに叩きのめし、その戦利品を配下への食録として与え、東国を日本近代化のスプリング・ボード(踏み台)として搾取と隷属の対象にした。こうした名分なき暴力を「いじめ」と言うが、西郷隆盛が仕組んだ奥羽越戊辰戦争はまさにそうだった。
大政奉還をもたらす水戸学は、徳川光圀が提唱し、皇室と言う実際上は政治的に無力な権威を上に戴くことによって、私的権力としての徳川政権に公的国家論としての息吹きを吹き込んだ。
NHKの大河ドラマや司馬遼太郎の小説等で描かれる明治維新を歴史教育で学んできたが、実態はかなり違っていると言うのが読後感である。薩長人脈が権力を握り、先の戦争で破滅に追い込んだとも言える。東北人は健気にも良く耐え忍んだと感心する。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、山県有朋など人物評価を事実に基づき改めるべきと感じる。上野公園の西郷隆盛像や庄内の南洲神社も撤去すべきと思う。
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