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長寿法

 「長寿法」(帯津良一著、海竜社)と言う本について紹介します。

1.冷やすな

①冷えは万病のもとと知る。②食べ物・お酒・気功・運動・お風呂・日向ぼっこ・お灸など、自分の取り入れやすい方法で体に熱を補給する。③夏場の冷房や冷たい食事で体を冷やさない。④忙しさ、寂しさ、ストレス、ショックで心を冷やさない。笑い、ときめきで心を温め、自然治癒力をあげる。⑤暖房で自分を甘やかさない。ときには厳しい自然環境に身を置くことで免疫力アップ。

2.食べろ、食べるな

①食べ過ぎで体に負担をかけない。胃腸を休ませてあげるために、空腹のタイミングを上手につくる。②お腹を満たすだけの食事にしない。ひと口ずつ噛みしめて心にときめきを。③満腹状態ですぐに寝ない。夜食は控えることが望ましい。食後はひと休みをしたあとに軽い運動を。④「体にいいもの」「減塩」「休肝日」に過度に縛られない。食事は自分が楽しめ、喜びを感じられることを重視する。⑤食事をいただけることに感謝する。いつまでも食事を楽しめるように歯の健康を保つ意識を。

3.眠れ、眠るな

①眠り過ぎることはかえって体をだるくする。自分に合ったほどよい時間の睡眠を。②寒々しく一人で寝ない。パートナーやペット、抱き枕と一緒に。一人のときにはすてきな人や楽しいことを思い描きながら眠る。③眠れない、寝起きが悪いときには内観の法を。必要に応じて、適切な範囲でお酒や薬の力を借りてもよい。④眠れないことは良くないこと、という観念を捨ててみる。日中、一生懸命働くことで夜は自然とスーッと眠りにつける。⑤今日眠りから目覚めたことは実は当たり前のことではない。新しい一日が始まることを初々しい気持ちで喜んでみる。

4.ためるな

①食べること・入れることとともに、出すことも大切。食物繊維、呼吸法で腸を刺激し、体を軽くする。②お金や情報をためこみすぎない。仕事もためずにコツコツと。性欲も年を理由に慎もうとせず、認めてあげる。③心をときめかせることで気が勢いよく巡り、いい循環ができる。ストレスもまずは「よく来た」と歓迎してみる。④健康診断の結果で一喜一憂しない。数字はあくまでも参考程度に。⑤死についてだれかと語り合ったり、本を読んでみる。死後の世界をイメージし、楽しみにするぐらいの気持ちをもつ

5.怠るな

①生老病死と真剣に向き合うことが人生を充実させる。②好奇心をなくさない。興味のあることをやり続ける。チャレンジ精神をもって人生のラストシーンを充実させる。③自分が死んだあとの心配をやめる。執着は捨てて、今やりたいことに徹底的に力を注ぐ。④身のまわりの生活の中にときめきを探してみる。当たり前に思うことの中に小さな恋や奇跡を見出す努力をする。⑤今日を地球最後の日だと思って生きる。自分自身をより良く生きることが、地球をより良くすることにつながると思って生きる。

 80歳を過ぎた現役の医者の養生訓であり、人生を生き抜く知恵が詰まっていると思う。少しでも、これを参考にして年を重ねて行きたいものである。

2020.12.29:dai:コメント(0):[学習]

明治維新の正体  徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ

 「明治維新の正体 徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ」(鈴木荘一著、毎日ワンズ発行)と言う本を読んで抄録をまとめたので紹介します。「薩長史観の正体」と合わせて読むと理解が深まると思います。

0.はじめに

 戊辰戦役と言う痛ましい流血は、西郷隆盛ら武力倒幕派が、イギリス型公議政体への移行を念願した徳川慶喜の大政奉還の意義を理解しなかったため生じた。歴史は単に戦勝者の作り話にすぎない。

1.維新の先駆者徳川慶喜

 明治41年、徳川慶喜は大政奉還の功績により、明治天皇から勲1等旭日大綬章を授与された。

2.日米和親条約を容認した徳川斉昭

 老中阿部正弘は、徳川斉昭を幕政参与に任じ、全員参加型の民主的挙国一致体制を確立し、開国やむなしの合意を積み上げた。1853年、日露交渉は国境確定、開港、貿易開始、犯罪人処分など日露和親条約の草案を作った。徳川斉昭は米ロで談合があり、アメリカと対抗するためロシアと組むのは危険と言い、アメリカと真正面に向き合って交渉した。このような歴史を学んでおれば、1945年、ソ連を通じて和平を提議し、ソ連を仲介とする和平交渉を開始して無残な結果に終わることも無かったろう。

 水戸学の会沢正志斎は、徳川幕藩体制では日本は統一国家とは言えない。皇室を戴いて国家統合の象徴とし、3百諸藩が団結して外夷と対峙しようと考えた。1854年、下田・函館開港、薪水・食料供給などを定めた日米和親条約を調印し、アメリカに開国した。

 安政の改革として、海防に取り組んだ。人材の登用を始め、スクリュー式の軍艦2隻をオランダに発注した。幕府は財政の総力を挙げて海軍を整備した。アメリカ東洋艦隊の約7割に達した。

3.通商条約の違勅調印

 井伊直弼は、積極的開国論者の堀田正睦を首席老中に推挙したことは、幕府の外交方針が開国を選択していたことを意味する。貿易開始はやむを得ないが、朝廷に奏上し、朝廷から勅許を得るべしとなった。孝明天皇は西洋人を日本に近づけることを極端に嫌った。(朝廷の攘夷論)

 交渉において、ハリスの不機嫌もあり、勅許無しに調印する許可を井伊直弼は与えた。幕府は、英明の誉れ高い慶喜の擁立を図る「一橋派」、伝統的な幕府専制主義を主張する「南紀派」(家茂を擁立、リーダーは井伊直弼)とに分かれた。

4.吹き荒れる攘夷の嵐

 戊午の密勅は、幕末抗争・流血の最大原因になる。水戸藩の激派の行動に対し、井伊直弼は「安政の大獄」を始めたが、水戸浪士によって桜田門外の変で暗殺された。

 朝廷と幕府の対立は、和宮降縁によって公武合体が成立した。尊王倒幕を唱えた西郷や大久保に真に尊王の心があったのか?江戸城無血開城は西郷隆盛と勝海舟が立役者のように語られるが、和宮の努力で徳川慶喜の助命が得られたからこそ、江戸城無血開城が実現した。

 遣米使節団の派遣と咸臨丸の太平洋横断、福沢諭吉の渡米。アメリカ南北戦争と対馬事件で、頼りはアメリカからイギリスへ。ロンドン覚書、イギリスは列強のリーダーはイギリスと思い知らせた。

 急進的攘夷派の思想的リーダー真木和泉のテロリズム、天誅の猛威、テロの嵐の中、京都守護職に松平容保を充てた。長州の外国船砲撃。公武合体が朝廷と幕府の内戦を回避した。八・一八政変。孝明天皇は攘夷論者であったが、公武合体を支持し、現実政治は幕府に任せる考えだった。三条実美ら攘夷派公家は京都を追われ長州に下った。攘夷派の水戸天狗党の乱。蛤御門の変で長州勢は総崩れした。

5.慶喜が条約勅許を得る

 通商条約は違勅調印が最大の問題だった。薩摩藩の大名行列で生麦事件発生、賠償金11万ポンド支払い。薩英戦争の原因に。四国艦隊の下関砲撃事件。長州藩は降伏し、賠償金300万ドル。高杉晋作は幕府の命令で攘夷行動をしたとの言い逃れで幕府の監督責任となった。

 第1次長州征伐の撤退。孝明天皇が通商条約の勅許を下したのちは、長州藩・薩摩藩の攘夷派テロリストによる異人斬り、外国公使館襲撃、外国船砲撃は止んだ。

6.イギリスが薩長を支援

 イギリス武器商人グラバーは、南北戦争で余剰になった最新鋭の小銃を薩長に売却し、イギリスが長州藩に心を寄せていることは、周知の事実だった。長州藩の不始末により下関戦争の賠償金を幕府から召し上げ、長州に信用供与していた。グラバーの親薩長・反幕府の立場はハッキリしていた。イギリスの武器→長州の米→薩摩の密貿易の金が三角貿易となっていた。

 坂本竜馬は亀山社中を結成し、薩摩藩から毎月3両2分の手当を受け、幕府探索方の眼をくらませながら、密貿易の輸送やブローカーをした。公然と通商条約(コンプライアンス)違反をした人物を幕末の英雄のように言うのは間違いである。日本人同士が殺し合う内戦で使われる高性能小銃の密貿易で高利潤を得た坂本竜馬は決して英雄とは言えない。

 密輸の三角貿易は薩長同盟へと結びつく。グラバー商会は亀山社中を下請代理店として薩摩藩を介在して長州藩との武器密貿易の違法行為を行い、イギリスも黙認した。グラバーは明治41年、勲二等旭日賞を受賞している。アーネスト・サトウは薩長の代弁者として、反幕府の立場で内政干渉した。

 第二次長州征伐では、西郷はイギリスの軍事力を背景に、幕府を武力で討伐する決心をする。大村益次郎の散兵戦により、戦争と言うよりほとんど狩猟に近かった。

7、徳川慶喜の登場

 慶喜が正式に将軍職に就任した直後、最大の理解者である孝明天皇が35歳で崩御された。第二次長州征伐が長州藩勝利、幕府敗北で終わると、フランスがイギリスへの対抗心を露わにし、親幕府の姿勢を鮮明にした。フランスは絹織物工業の原料生糸を日本から輸入しようとし、イギリスは武器を輸出しようとした。

 慶喜はフランス型幕府陸軍を創設。海軍力に加え陸軍力を強化、旗本軍団全員を銃隊に組み換えた。慶応3年末には、歩兵7個連隊、騎兵1隊、砲兵4隊、計1万数千人の近代的陸軍を整備した。兵庫開港の勅許を獲得。長州藩への寛大な処分の勅許は、陸軍力を誇示して、戦わずして政治的勝利を収めた。

8.大政奉還の思想

 幕府開成所教授・西周が慶喜のため起草した「議題草案」の思想は、わが国の新政治体制はイギリス議会主義を手本とし、皇室をイギリス王室に、大君をイギリス首相になぞらえたもの。大政奉還上表文は、五箇条の御誓文の原型になった。慶喜は将軍職に就いた時点で大政奉還を意識し始めていた。

 島津久光は、パークスやグラバーと組んだ大久保利通の口車に乗り、徳川幕府に代わる島津幕府を夢見て、薩摩兵団という強力な武力を背景に徳川慶喜と敵対した結果、島津久光の私兵だった薩摩兵児は西郷隆盛に簒奪されてしまい、維新の元勲として中央政界へ進出したのは西郷隆盛と大久保利通だった。

 討幕の密勅は、偽勅ともいえる代物だった。薩摩への密勅は三条実愛が、長州へは中御門経之が書き、これを企てた岩倉具視のほか誰も知らない。(三条実愛の告白)まさに、公文書偽造であった。

 アーネスト・サトウは桂小五郎に、「日本のような後進国には暴力革命がふさわしい」とけしかけ、桂は坂本竜馬に「幕府が大政奉還により公権力の名分を失ったのちに、鉄砲芝居で幕府を倒す」と吹き込んだ。サトウは「一外交官が見た明治維新」の著作があるが、「一外交官が干渉した明治維新」と改題すべき、陰のシナリオライターだった。

 西郷隆盛は、「話し合いや和平路線を模索する有力大名がいればこれを刺殺し、江戸において放火・略奪・強盗・殺人などの非合法活動を行って幕府を挑発し、幕府と戦端を開いて、戦意の乏しい幕府を武力討伐して、「刀槍の時代」に代わる「大砲の時代」を確立しよう」と武闘派らしい決心をした。

 小御所会議では、山内容堂は岩倉具視を「幼沖の天子を擁して、権力を私しようとするもの」と糾弾した。当時、岩倉具視は孝明天皇を毒殺したと噂されていたが、西郷隆盛は「短刀一本あれば片付くこと」と言い放ち、山内容堂刺殺を黙示して脅迫し、実質上の武力討幕方針を決めさせた。

 大政奉還により武力討幕の大義名分を失った西郷隆盛は、相楽総三に「江戸市中を擾乱し、幕府を挑発せよ」と密命を与えた。江戸町民は「薩摩御用盗」と恐れられた。薩摩藩邸焼き討ち事件が起きると、開戦の口実が出来たと喜んだ。

 鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗(玉松操が密造)が薩長陣営に翻った。慶喜は陣頭指揮を宣言したが、突如、江戸にもどり周囲の反対を押し切って恭順に踏み切った。その後の相楽総三は西郷隆盛から殺され、「敬天愛人」を唱える西郷の真の姿は陰謀と冷血である。

9.万民平等の実現

 鳥羽伏見の戦いを、「わが国の滅亡の始まりだった」との見解も少なくない。薩長軍の補給を絶てば勝てた。その後、長州人脈が日本陸軍を牛耳ったが、補給軽視は長州藩の伝統に遠因がある。

 会津藩の神保修理は、薩長側に錦の御旗が翻った以上、恭順の意を示すべきと慶喜に薦めた。尊王思想を生んだ水戸藩は、三百諸侯の中で特異な存在で副将軍を自認していた。水戸藩第2代藩主徳川光圀は、「大日本史」を編纂した。「万民平等の思想」としての水戸尊王論は、南朝正統論を唱え、私利私権・自己保身に執着しないよう戒めた。

 鳥羽伏見の戦いは、幕府が簡単に負ける戦いではなかったが、そうなれば外国勢力も介入した激しい内戦となり、どちらが勝っても、わが国の独立は制約を受けていた。

 幕末のポピュリズムは、奥羽越戊辰戦争を、新政権の支配者となった官軍が東北軍を完膚無きまでに叩きのめし、その戦利品を配下への食録として与え、東国を日本近代化のスプリング・ボード(踏み台)として搾取と隷属の対象にした。こうした名分なき暴力を「いじめ」と言うが、西郷隆盛が仕組んだ奥羽越戊辰戦争はまさにそうだった。

 大政奉還をもたらす水戸学は、徳川光圀が提唱し、皇室と言う実際上は政治的に無力な権威を上に戴くことによって、私的権力としての徳川政権に公的国家論としての息吹きを吹き込んだ。

 NHKの大河ドラマや司馬遼太郎の小説等で描かれる明治維新を歴史教育で学んできたが、実態はかなり違っていると言うのが読後感である。薩長人脈が権力を握り、先の戦争で破滅に追い込んだとも言える。東北人は健気にも良く耐え忍んだと感心する。吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、山県有朋など人物評価を事実に基づき改めるべきと感じる。上野公園の西郷隆盛像や庄内の南洲神社も撤去すべきと思う。

2020.12.24:dai:コメント(0):[学習]

薩長史観の正体

 近現代史の学び直しのため、「薩長史観の正体」(武田鏡村著)と言う本を読んだので紹介する。

(幕末動乱編)

 明治維新150年、御用学者の嘘で固められた薩長史観を信じてきた。薩長は討幕の密勅を偽造したが、徳川慶喜の大政奉還により平和的に権力移譲(慶応維新)された。幕府は、薩摩や長州に比べてはるかに開明的で開国による近代化を進めていた。

 吉田松陰は、激情に駆られて変節して、暴力革命を礼賛するテロの扇動家だった。松陰の教えは、数々の暗殺や暴発などのテロ行為を正当化し、のちの日本を侵略戦争に駆り立てた。西郷隆盛は、僧侶を殺し江戸を混乱させ、同調者を見殺しにした無定見な武闘派の策謀家だった。下関戦争と薩英戦争は、薩長攘夷の無謀さを示し日本を危機に晒した。尊王攘夷は孝明天皇の真意であったが、天皇を玉と見立てて幕府と奪い合った。長州出身の陸軍・山形有朋は天皇への絶対服従を説いて軍人勅諭に繋がった。奇兵隊は民衆の武装を無制限に認めたことは画期的だが、その無秩序ぶりは戊辰戦争で発揮され、会津などの民衆を苦しめた。山形有朋の作った陸軍は、吉田松陰ゆずりの精神論だけが先走る体質は帝国陸軍へと引継がれた。

 長州は、池田屋に集まり京都を火の海にし、御所を襲い孝明天皇を拉致する暴挙を計画した。禁門(はまぐり御門)の変は、長州が孝明天皇に刃を向けたものである。薩長の志士で共通するのは女好きであり、倒幕のシンボルである錦の御旗は薩長の偽物であった。西郷隆盛は、勝海舟から国内で争うべきでなく、幕府に代わる雄藩諸侯による合議制の連合政権を作る構想を知り驚いた。坂本竜馬も勝と同じ考えだった。高杉晋作は、下関戦争の賠償金を言葉巧みに幕府に請求するよう働いた。

 第1次長州征伐では、長州は幕府軍にひれ伏した。薩長同盟を仲介した坂本竜馬の背後には、英国グラバーがおり謀略によって内戦を意図していた。第二次長州征伐は長州も幕府軍もにらみ合いでこう着状態が続いたが、将軍家茂の死(毒殺?)と孝明天皇の死(毒殺)で幕府軍は撤兵した。

(慶応維新)

 孝明天皇は、薩摩と岩倉具視の陰謀によって毒殺(ヒ素中毒)された。(英国公使館アーネスト・サトウの後日談あり)薩長史観ではこの秘密は禁忌とされる。薩摩が目指す武力討幕と土佐が目指す大政奉還の間には大きな亀裂があった。討幕の密勅は偽造されたもので、文章として明らかに証明されている。まったく出鱈目な宣旨によって、薩長による幕府討幕の正当性が認められた。

 大政奉還は慶応維新というべき歴史的な偉業であり、世界に誇るべき無血革命であった。坂本竜馬は、大政奉還による新国家を推進したために暗殺された。

 鳥羽・伏見の戦いと戊辰戦争は、官軍と朝敵軍の偽りの大義を名目とした戦いだが、官軍の財源を確保して経済力を奪取するための国内戦争だった。岩倉と山内容堂の議論が紛糾した時に、西郷隆盛の「短刀1本で済む」との恫喝で議論は終結した。「ええじゃないか」は薩長が仕組んだもので、騒乱を起こすことにより進軍を偽装するものだった。

(戊辰戦争)

 江戸の騒擾は幕府側を逆上させようとした挑発行為であり、軍資金を強奪するため戦端を開くための口実作りであった。上野一帯では彰義隊を殲滅するために、官軍を称する討伐軍が一方的に戦いを仕掛けて多くの人を殺害した。死体は腐敗するまで晒され、江戸市民の見せしめになった。人肉食もあったと言われる。錦の御旗は薩長の偽造であり、大政奉還されているにも関わらず、戦いで権力を勝ち取ることを鮮明にした。

 鳥羽・伏見の戦いは、5千の薩長軍に幕府軍は1万5千と優勢だったが、錦の御旗に騙された徳川慶喜が朝敵になることを避けるため幕府軍は退いた。恭順の意を示した徳川慶喜への追討は、武力で日本を制したい薩長の口実だった。江戸城を開城させる条件は、反薩長の諸藩を見殺しにするものだった。 外国勢力は戊辰戦争を内戦と捉えて局外中立を保つよう本国から指示されており、植民地化を意図してなかった。幕臣の小栗忠順は日本の近代化の基礎を作った先駆者であり、暴虐な薩長の体質を見抜いていた。松平容保は幕末の混乱を沈静化し、孝明天皇を守り抜いて奮闘した正義の藩主である。

 長州の世良修蔵の卑劣で貪婪な挙動によって奥羽列藩同盟が成立し、無用な戦争が起こされた。長岡藩家老の河井継之助は、征討軍の理不尽な態度のため、やむを得ず挙兵に踏み切った。北越戊辰戦争では、河井継之助の指揮で同盟軍は3ヶ月にもわたり奮戦し、山県有朋を裸で敗走させた。会津は、負傷者の殺害、人肉食、強奪、強姦など新政府軍は徹底的に会津を蹂躙した。これは日本帝国陸軍が日中戦争などで行った蛮行と類似している。白川以北は一山百文と、薩長は東北を蔑視し続けた。長岡藩のほかにも庄内藩は官軍を寄せつけず薩摩兵と互角に戦った。

 東北には当時の世界情勢に対する理解が足りなかったのか、その後の東北の開発の遅れも薩長史観によれば合点がいく。日本史教科書で習った明治維新は、薩摩長州の極悪非道を知ることによって、私たちの近現代史を正しく見つめ直すことが大切と考える。

 上野公園の西郷隆盛の銅像や庄内地方の南洲神社など、真実の歴史の理解のもと存続の可否が判断されるべきである。また、公共放送のNHKが大河ドラマ「西郷どん」「龍馬伝」などで日本人に誤った歴史観を繰り返し擦り込んでいること、小説家の司馬遼太郎の幕末維新期の諸小説「竜馬がゆく」なども改めて再評価が必要と感じる。

 

2020.12.05:dai:コメント(0):[学習]

身体の代謝を高める漢方

 身体の代謝を高める漢方についてクラシエ㈱の健康セミナー内容を紹介します。

 漢方にも副作用がある。葛根湯は、1800年前から使われており、風邪のひき始めに効用がある。7つの生薬(植物・動物・鉱物)からなり、それは、葛根、麻黄、桂枝、大棗、生姜、芍薬、甘草である。錠剤、果粒剤、ドリンク剤もある。

 漢方には5味があり、酸、苦、甘、辛、かん(塩辛い)である。薬の神様である、神農に薬効が記載されている。風邪のひきはじめ、ゾクゾクするときは葛根湯が、喉の炎症には銀りょう散が、発熱には麦門冬湯が良い。

 また、「つぼ」があり、ごうこく(手)、ふうち(頭)を指圧すると良い。コロナウイルスも再流行の兆しがあり、風邪には十分に気を付けたいものである。

2020.11.30:dai:コメント(0):[学習]

日本を解体する戦争プロパガンダの現在~WGIPの源流を探る

 標記の図書を読んで抄録をまとめたので紹介します。日本は日米大戦後、GHQが中心になって実行したWGIP war gilt information programによって、民主主義の名の下に、愛国心、品格、道義といった日本人の美しい心が破壊され内的自己崩壊が謀られてきた。今こそ歴史の真実を学び、洗脳から解かれ、日本人の心を取り戻すときである。

(ユネスコ記憶遺産になった南京大虐殺)

 中国側の積極的なユネスコ記憶遺産登録委員会への攻勢があり、日本側の情報不足や対応の甘さがあった。このままでは、韓国の従軍慰安婦も南京の二の舞になるだろう。日本は、南京大虐殺の史料について再検証し、問題のあるものは取り消しを求めて行く。南京大虐殺は、中国国民党宣伝部のプロパガンダにすぎないことが第1次史料で実証されている。ハロルド・ティンパーリ編「戦争とは何か―中国における日本軍の恐怖」

 1971年の朝日新聞「中国の旅」が発端、反日日本人やマスコミが火をつけ、事実無根の対日非難が世界に広がってしまった。日本政府や外務省は事実に踏み込んだ反論を避けてきた。1980年前後、中国の教科書にも登場。日本はユネスコへの拠出金が多いにも拘らず、委員の打診に民主党政権は中国と韓国との軋轢を避けようとして断った。反日プロパガンダの原典に反日日本人が唱える情報がベースにある。WGIPを陣頭指揮したブラッドフォード・スミス「日本―美と獣」、独断と偏見に満ちたステレオタイプな日本人論は、ルース・ベネディクト「菊と刀」ジェフリー・ゴーラー「日本人の性格構造とプロパガンダ」がある。

 国際社会に影響を与えたクマラスワミ報告書がある。日本政府の公式見解として、朝日新聞の誤報、20万人の従軍慰安婦、軍の強制連行を否定した。プロパガンダとは、武力を使わないで勝利することを目的とする洗脳工作である。

(WGIPプロパガンダの源流と形成過程)

 日本人洗脳計画の原点はタヴィストック研究所にある。精神的武装解除について、レヴィンを中心とした研究会に「菊と刀」を著したベネディクトらが参加、どういう心理戦争の方法を用いると効果的に敵の抵抗精神を弱められるかを議論した。WGIPの出発点はここにある。

 マインドコントロール(洗脳)、プロパガンダ(宣伝)では英国が世界をリードした。国民の道徳心を低下させ、国民としての誇りとアイデンティティーを完全に粉砕するための長期洗脳工作計画を研究した。タヴィストック研究所は、同性愛を奨励し、性役割や男らしさ女らしさを否定する性革命によって、性道徳を破壊し、女性を社会に進出させて税収を増やし、家族崩壊に導く男女同権運動を推進する戦略を考案した。マーガレット・ミードは固定的性別役割分担意識を排すべきと主張し、ジェンダーフリー理論の元祖と見なされる。GHQ、米政府の対日心理戦略研究は、米国の共産主義者と中国と深い関係にあった。WGIPの実働組織として日本共産党・野坂参三が大きく関わっている。

 ルース・ベネディクトの「菊と刀」の問題点は、人類学研究の著作と言うより、1つの政治論文である。戦略的主題は、「日本を侮辱するな」という政策提言を論理的に展開することにあり、「自己鍛錬」の究極の状態を象徴する「武士道」と、「責務体系」の究極の磁場を象徴する「天皇信仰」にぴたりと照準を合わせた戦闘的な政治論文であった。「菊と刀」は、「礼儀正しく従順で寛容な日本人がなぜ反対の方向へ爆発してしまうのか」という「菊の優美と刀の殺伐」に象徴される日本文化の型、日本人の国民性の二面性の矛盾を解明するものだった。ベネディクトは日本人の「伝統的攻撃性」こそ侵略戦争の原因とした。私たちの反論は、明治までの日本が拡張主義ではなかったが、欧米諸国は世界征服を目指して拡張主義であったということである。

 GHQによるWGIPの実行は、再教育、再方向付けによって積極的に介入し、心理的に誘導しなければ、日本国民の伝統的精神の本質に根付いた軍国主義を排除できないと考えた。GHQは日本進駐前に友好的な日本人リストを作成し、共産主義者や社会主義者を予め調査した。朝鮮戦争前後、日本を反共の砦とする政策転換により、共産主義者には厳しくなった。

(朝日新聞「強制連行プロパガンダ」の国際的影響)

 朝日新聞は1980年代から慰安婦問題に関する報道を始め、特に1991年から翌年1月にかけ、吉田清治氏の証言や女子挺身隊制度、元慰安婦の証言、軍関与文書などについて数々の虚偽報道を連続して掲載した。独立検証委員会は「92年1月強制連行プロパガンダ」と名付けた。このプロパガンダを朝日新聞は2014年8月まで取り消し訂正なく放置してきた。政府は加藤紘一官房長官が、きちんと調べることなく安易に謝罪してしまった。

 慰安婦問題を仕掛けたのは朝日新聞であり、関連する記事を最も多く掲載し、慰安婦問題は朝日の独壇場だった。大阪本社は社会部が組織の主体で、その柱は夏の甲子園と原爆問題と在日朝鮮人問題の三つである。在日朝鮮人は日本人を教育してやろうとの思いがあり、記者を怒鳴り付けることもあり、過剰な贖罪意識、贖罪史観を持つようになった。マスコミはすべての事実を報道するわけではない。情報の取捨選択の判断材料は「売れるかどうか」「受けるかどうか」が来るのは当然である。

 朝日新聞と第三者委員会は認めてないが、「92年1月強制連行プロパガンダ」が韓国紙と米国紙に大きな影響を与えている。韓国では朝日新聞が作った「92年1月強制連行プロパガンダ」のイメージが定着している。韓国では伝統的に、日本は野蛮で性的にモラルの低い国だと認識している。90年代初め、日本自身が経済的な成功を収めた後、政府、国民共に慢心し油断して、自らを守る意識に欠けており、国全体が過度に贖罪意識を持っていたことが対応の拙さを招いた。

 1993年8月4日に発表された「河野談話」によって、日本が慰安婦の強制連行と性奴隷化を公式に認めたと受け止められ、虚偽が固定化された。国連の「クマラスワミ報告」(1996)は、慰安婦を性奴隷と定義し、慰安婦問題を国家によって女性に加えられた組織的暴力と捉えた。朝日の吉田証言は虚報であったのだから、吉田「私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行」もヒックス「性の奴隷 従軍慰安婦」もクマラスワミ報告も虚報である。その後の、国連の「マグドゥーガル報告」(1998)、米下院の対日非難決議(2007)もなかった。「慰安婦狩り」などという吉田証言が虚偽であることを、世に流した朝日は国連にその事実をはっきり伝えるべきだが、その責任を回避している。

 全米各地に広がる慰安婦碑・像は2009年頃から主に韓国系住民によって設置されてきた。韓国系団体の住民によれば、従軍慰安婦のような反人権的行為が二度と起きないよう、米国と世界に平和の重要性を訴えることを設置の目的としている。米社会に日本の隠された実態を暴露することは、長期的には東海(日本海)と独島(竹島)の解決につながると考えている。真の狙いは、日本国や日本人そのものの国際的地位を貶めるディスカウントジャパンである。河野談話は高齢の元慰安婦と名乗る人物の曖昧な証言のみを証拠とし、両国の事前の擦り合わせによって、証言する元慰安婦の人選までも韓国側の要求を受け入れたものだ。米国の日本人捕虜尋問報告1944によれば、慰安婦は売春婦か軍キャンプの職業従事者にすぎず、朝鮮人慰安婦は高給によって雇われた娼婦だったと書かれている。

 米国の歴史教科書にも、南京事件や慰安婦問題や日本海呼称問題に関し、重大な事実誤認があり、特定な立場の記述があり、日本政府・外務省は記述内容の是正を申し入れている。訂正すべき点を国際社会に向かって訂正してこなかった結果、このような教科書が使われている。日本の歴史学4団体も、安倍首相による慰安婦問題の歪曲を批判している。日本の証拠に基づいた主張や訂正申入れには耳を貸さず、中韓の反日プロパガンダに同調する論調が米メディアに蔓延しつつある。朝日新聞は「92年1月強制連行プロパガンダ」が事実でないことを広報することを怠った責任は重い。2015年12月の慰安婦をめぐる日韓合意を受け、米国は自制を強く促した。

(日米の歴史家たちによる論争と論点)

 反日日本人が拡散した嘘に対し明確に反論しなければ、ますますその影響が広まり、嘘が嘘でなくなる日がこないとも限らない。政治家は国土と国民を守るのが仕事だが、外国の教科書の記述をしっかりさせることも日本国民を守ることになる。捏造された南京事件の大虐殺や慰安婦問題の性奴隷は、現地の日本人子弟へのイジメや嫌がらせに繋がる。中韓は協力して反日プロパガンダを実行している。

 日本政府は2014年11月、「慰安婦は天皇からの贈り物」などと教科書に記述した米マグロウヒル社に対し訂正を申し入れた。問題にしているのは、慰安婦に関する評価や論評や解釈でなく、第一次史料に基づいて事実の客観的検証を重ねることが大切である。日本人学者19人は2015年3月、米マグロウヒル社に対し訂正勧告した。

(WGIPの下に押し付けられた憲法と今日的問題)

 日本国憲法とWGIPとの関係については、日本の新憲法起草に当たり、GHQは一切の批判を徹底的に禁じた。古来、日本人の心に育まれた伝統的な価値の体系の組み換えであり、洗脳(マインドコントロール)に他ならない。日本共産党は、連合国の戦争は防衛的な正しい戦争だから、戦争放棄を謳った憲法9条には当初は反対だった。憲法草案を作成した民政局と日本共産党は占領当初は蜜月関係にあった。

 太平洋戦争史観、東京裁判史観が戦後日本の教育界とマスコミ界に内在化され、今日の日本人の歴史観、国家観を拘束する内的プログラムとなった。最も重視したのは検閲政策であり、占領軍が憲法を起草したことに対する批判が厳しく排除された。

 家制度を否定し個人の尊重を謳った憲法第24条の成立背景としては、家族を重視し、家族を保護することは世界の常識だが、家族の絆の崩壊に繋がっている。戦後教育の問題や課題、戦後の混迷の根っこにWGIPがあり、さまざまなプロパガンダ工作の結果、日本の教育現場が混乱し、日本の文化や社会のうち家族が影響を受けた。

 今求められている少子化対策のパラダイム的転換としては、人間が生きて行くために不可欠な生活保障と社会的承認が必要だが、戦前の日本では地域社会のコミュニティや親族が担ってきたが、戦後はこれら生命共同体が崩壊し、家族以外に期待できなくなった。

 1990年代の経済構造の転換により、非正規雇用が増え、その結果、未婚化と離婚が増大し、男性生涯未婚率は2割を超えた。30~34歳の未婚率は、男性45.6%、女性34.5%になっている。2014年には、結婚した65万組の離婚が22万組と、1/3が離婚した。親と同居する未婚者が16%で、中年の引きこもりが最も高い。ニートは15%を占め、若者の自立をどう促して行くかが重要である。できちゃった婚や児童虐待も増えている。子供を産まない理由の49%が妊娠しないからである。

 家族の絆が強くなるほど結婚率も出生率も高くなる。共同体システムを否定したことが未婚化・少子化を一気に進めた。同性愛を奨励し、性的役割、男らしさ女らしさを否定する性革命によって、家制度を破壊し、家族崩壊へと導くタヴィストック研究所の洗脳戦略が、WGIPから急進的性教育に継承された。

 この家族からの自立イデオロギーが、家族の個人化を強調する家庭科教科書によって教えられ、親になる準備教育を担うべき家庭科教科書が逆に少子化の根因である未婚化を推進している。かつて、結婚は若者自身の責任であると共に、家族や親族の責任であり、地域社会や職場などの共同体の責任でもあった。1990年代以降は自己選択や自己決定という風潮が広がり、家族の個人化が広がって行った。教育の道は、家庭の教えで芽を出し、学校の教えで花が咲き、世間の教えで実が成る。

 福祉が栄えて家族が滅んだ。自助から共助、共助から公助へと言うのが日本型福祉社会でないか。男女共同参画基本計画で男女平等を推進する教育学習の項に、家族の一員としての役割を果たし、家族を築くことの重要性などについて、指導の充実を図るとある。

 日本人の美しい伝統的精神の解体を目指したWGIPは、他国には見られない多くの反日日本人を生み出し、彼らが世界に発信し、働きかけて反日国際包囲網が形成されると共に、日本人としての誇りや道義心を奪う内的自己崩壊をもたらした。WGIPが目論んだ内的自己崩壊をより効果的にするために教育現場が狙われた。その洗脳工作から脱却するためにも、WGIPにより否定された日本人の美しい心、伝統的精神を取り戻し、家族の絆を核とする家庭・学校・地域の教育の3本柱を再構築すべきだ。

 

 中韓プロパガンダの実態と、それに無防備に立ち向かう日本政府や日本人の考え方が、戦後GHQが持ち込んだWGIPと大きく関わっており、日本人の家族崩壊にも多大な影響を及ぼしていることが分かった。正しく近現代史を紐解いていくことで、これまで学校教育やマスコミから無意識に受けた洗脳(マインドコントロール)を解き放して行きたい。

 

2020.11.24:dai:コメント(0):[学習]